杉本博司 瑠璃の浄土
2020年8月 京セラ美術館 杉本博司「瑠璃の浄土」感想メモまとめ。
2020年8月のスマホメモを2021年に※で加筆しTwitterにまとめ、2024年にこちらへ移植。
光を撮るという説明をどこかのサイトで先日見たきがする。写真って、光だから、何かの形を印画紙に焼き付ける時には光が見せるその姿を光ごと撮っている。
今回の展示は光そのものを撮る試みだったのかもしれない。
直島で初めて作品を見た時は、空間を撮る人なのかと思ったが、水から、滝、川、海に向かったらしい。
※水、滝、川、海、どこでも空気と光があるからもともと光に至る道筋があったかと※
光学硝子五輪塔に納められたいろいろな場所の海も、水と空、空気と空間のソラと、光が納められてるから、どれが欠けても形を為さないかもしれない。
複合的?ひとつのものでは世界は作られない感じはほかのところにもみえた。
古物商として集めた勾玉や硝子玉、瑠璃、(硝子は玻璃ではないのか?)から、護王神社、三十三間堂では光、尋十方無碍光を撮っている。
光は仏そのものだから、勾玉などの原始宗教、アニミズムから、神道に、さらに仏法が入ってきた日本のスピリッツ部分の進化過程をなぞってるのかなぁ、とも。
アート作品への解釈ではなく、ひとひとりの目の前に見える何かの世界は、とても、いろいろなものが重なって出来ているわけだ。
※光を撮るに至るまでの興味や考え、意識のレイヤー層をちょっと知った感覚※
※ある被写体に行き着くまでの時間、写真を撮る行動の瞬間にもいろんなレイヤーが重なってて、そこにいたるのだけど※
重なり合いのタイミング的な時間、というか、瞬間が持続する時間や条件が変わるから、移ろいやすくて、はかなく、もろい感じがするけど、一度撮られると…
その瞬間は相変わらず永遠の一瞬だけど、一点の視点からだけの一瞬になる。
視点を変えたほかの、こちらに届かなかった光が照らしていた方は目に入らないまま、ちゃんとあるけど、人の認知の範囲では存在しない。
光学とか、五感に関わる科学的な理論とかが現象を事実として説明してくれるんだけど、全部ひっくるめて、いろいろなものが複合にあわさって、その撮れる一瞬だけを、※自分が※ 認知できる一瞬だけをもって、それを 現実 として、各々が生きてる。だから、認識齟齬とかもおこる?
※※※
何かの作品を見るとき、美術館、博物館にあるものだけじゃなくて、音楽とかもそうなんだけど、その表現者が重ねてきたレイヤーと私自身が重ねてきたレイヤー、しかも、瞬間瞬間のピクセルを敷き詰めた面なんだけど、いろんなレイヤーのあちこちのピクセルが「合致」したり、乗算だったり、オーバーレイしたりして、レイヤーに残ったピクセルのかたちが、自分の認知かなぁなど。
1年ちょい経って感想メモに手を加えて、元のメモを消す、この作業でも新しいレイヤーを重ねて、一瞬、一瞬が詰まったピクセルの精査で、違う思考へシフトしていく過程だわ。
少し前から「認識齟齬」が起こる原因であろうmaya,Sanskrit: “magic” or “illusion”、ひとりひとりが別々に持っている意識の何某かがどこにあるのかなー、何かなーって探してるんだけど、こういう自分の目線での、経験と認知のピクセル精査かな。
まあ、だとしたら、やはりマヤ maya からは逃れられない。