MIU404の久住というキャラクター

 片山順一です。今回は、数か月前に終わったドラマの最終回とその悪役についてです。

 そして、後半は、東北の震災関連の話もしています。恐怖感やフラッシュバックの恐れがある方は、閲覧をご遠慮ください。普通に読めない文章を書いてしまったことを、先におわび申し上げます。

久住という悪


 バックストーリーとは、過去みたいなものです。作中で描かれたことの前に起こったことのすべてです。

 私はすべての話を見ていないんですが、久住は私にとっていちばん身近な悪役と言いましょうか。

 麻薬をばらまく、テロ事件をでっちあげて警察の権威を失墜させる、東京五輪のチケットをわけわからん高値で売りさばく。殺人や破壊行為にこそ手を出していないものの、時勢ゆえか警察の手が回らない程度のあらゆる悪事をやりまくり、戸籍も消して何者でもない状態を保ち続ける。社会に対して参加はしない、役にも立たないけど、社会の限界についての知識は持ち合わせている。だから、裏側に潜り込んで好き勝手に利益を吸いまくる。

 私が思い描く、平和である程度成熟した国で一番やりやすい悪事をやりまくっています。このMUという作品、あんまり分かりやすい悪が描かれてないんですよ。刑事ドラマのくせにというか。社会の問題を巧みに利用して利益はむさぼりますし、ドラマの中では悪い奴ではあるんですけどね。

 ミリオタがちょっとある私にしてみれば、テロリストとか、戦争の犬みたいな連中と比べると、久住はべつに大したことをしてない気がするんです。現実なら、ついこの間までシリアで暴れ回ってたISISの連中みたいなこともしていない。まあ彼らに資金供与したりはしていそうですけど。

 だったら頑張って追いかけなくていいのか。そんなわけないだろ。

 そう、主人公たち警察の人間は思っているから、必死になる。ですが本当に、警察官でない世の人間にとってはどうか。久住はここを巧みに突いてきます。

 最終回の中で私が把握したのは、麻薬をばらまいていること、それから主人公たち二人の刑事を麻薬漬けにして警察内部に腐敗を広げようとしたこと。さらに、実際には起こらなかったんですが、部下に刑事を撃ち殺させたことでしょうか。

 ただここまでやっても、例えば私が強い印象を受けた、『西部警察』に毎週出てくる悪党には遠く及ばないんですよ。連中は、銀行強盗のついでに行員を射殺する。警察への報復に新人警官と妻を殺して車ごと沈める。しかもその前に生きたまま指を斬り落として警察に送り付ける、など一体どこの魔物だろうということを平気でやります。俳優が菅田将暉というせいもあるのか、久住はそこまで恐ろしい奴らには見えないというか。

 にもかかわらず、なぜ捕まえなければいけない。止めなければいけないと思うんでしょうか。それは社会の腐敗と崩壊を加速させるからです。麻生久美子演じる部隊長も言ってました。久住の被害者は、加害者になりうるのです。

久住から生まれるもの

 久住が利用するのは、社会の腐敗や制度の機能不全です。だから被害者たちは久住というより、社会の限界、腐敗のゆえに自分がひどいめにあったと思うのではないでしょうか。

 社会の腐敗を目の当たりにし、その不利益を被った者は、社会を信用しなくなりがちです。腐った社会に復讐したくなります。あるいは、腐った社会を利用して、自分もまた甘い汁を吸おうとするようになります。それは、彼が彼女の中では全く正当なことで、むしろなぜ今までやらなかったんだろうというレベルになるでしょう。

 久住を止めないと、そういう人が量産されて、社会が静かに壊れていきます。その先に待つのは、社会の機能不全、政治や警察の腐敗、法の支配の喪失、治安の崩壊と弱者の搾取という、地獄のような状況です。

久住の理由

 紆余曲折あって、生きたまま逮捕された久住ですが、結局、自分のことは一切語りません。『お前たちの物語にはならない』という言葉は、久住がどれほど警察を、社会を、人間を徹底的に信用していないかを如実に表していると思います。

 このセリフをして、『久住はなんだってお涙頂戴で悪を片付けようとする、安っぽい刑事ドラマの悪役とは違う』という解釈はありでしょう。菅田将暉氏の熱演と相まって、十分その貫禄はありました。

 ただ、私は、作中で、久住は自分の理由を言っているような気がします。

『指先ひとつ、一瞬で、人も街も全部さろてまう。全部のうなって、それでも十年経てばみんな忘れて、終わったことになってる。頭ん中のもくずや』

 このセリフは、乗り込んできた刑事との対話の中で久住が放ったものだと記憶しています。これも嘘だ、という解釈もありますが、状況的に久住はこのとき刑事が来ると思っていなかったわけです。対策を考える時間を得るために、気を引こうと考えたのではないでしょうか。いずれ麻薬で手駒にするか、始末して海に捨てるから聞かれても関係ないということで。

セリフの意味

 怖いですが、人や街がいっしゅんでさらわれる、全部なくなる、ということで、私は洪水や火山の噴火などの大災害を連想します。そして、十年と言いました。MUの時系列は、東京オリンピックが行われる年だということは作中で示されています。2020年。

 そう、そこから十年前といえば――あの津波、ではないでしょうか。久住はあの震災の被災者だと私は考えます。

 私は関西の出身ですが、つい最近生まれて初めて東北に行きました。一か月、宮城県に逗留し、津波の凄まじい破壊とその痕跡を十年遅れであちこち見ました。テレビ画面やインターネットブラウザでなく、冷たい風に吹かれながら、潮風を浴びながら、かさ上げ工事のほこりを吸い込みながら見たのです。

 いや、見たとはいえません。数百キロにわたって、海岸に築かれてきた村や町々が徹底的に破壊され、亡くなったというより居なくなってしまった多くの人。その一部だけ、ほんの一部だけを施設やガイドの方の言葉からほんの少しだけ触ったにすぎません。でも、その想像もつかないほどの大きさ。そして、まとわりついた痛み。

 十年、たった十年です。みんな忘れて終わったようになっていることが信じられなかったです。まず全国民はここに来てこの辺あちこち見るだけ見ろよ、それからお前らの人生暮らせよ。こんなことを知らなかったのかと、苦しい思いをしました。

 一体この報道の温度差はなんだ。社会の扱いの差はなんだ。某経済政策に、大挙して押し寄せる外国人観光客の落とすお金に湧いている人たちの姿は、なんだ。世界の祭典に浮足立っている街の姿はなんだ。あるいは、そういうものでなんとなく十年前を忘れていたじぶんは、なんだ。

 この社会は、なんだ。

 私が感じた衝撃と苦痛を、想像したすさまじい大きさの傷を、その痛みのゆえに社会を信じなくなってしまった悪人を想像したとき、それをキャラクターに起こした存在こそが、久住になるのかもしれません。

余談、しかしヨソモノとして

 久住は関西弁を喋っていました。東北出身で震災と津波を経て社会に怒りを抱えて悪に堕ちたなら、なぜ関西弁なんだという指摘はあるはずです。

 そこは、関西弁の攻撃性というか、悪辣さを利用するためだと思いますね。不良、ヤクザ、セクハラ親父、分かりやすく悪いものは、関西弁を使います。朴訥で穏やかで、堅実なイメージさえある東北弁では、あえて悪いことをしている、猛烈に怒り社会を破壊しようとしているという意志の現れにはならないというところでしょう。

 それに、人を悪に誘うとき、こんなこと大したことないと思わせるときに、調子のいい関西弁はじつに便利ではありませんか。

 ただ、ただ、実際に東北に赴いて思ったのは、べつに東北の人も普通に暮らしているということです。ヨソモノの私に、そう見えるだけかもしれませんが、明らかに震災の爪痕があちこち残る中にあっても、それをそれとして、日常を過ごしていました。

 だから、久住のキャラクター造形は、あくまで、外から来て東北を見た人間が、ヨソモノとして現状に怒っているだけに過ぎない、ということもできるでしょう。

現実をフィクションに起こすとき

 この登場人物を製作陣の誰がどれほどの比率で作り上げたのかは分かりません。監督が作ったのか、構成者が作ったのか、脚本家が作ったのか、演ずる俳優が作ったのか。あるいはその全部か。

 また、私の解釈が正しいかも分かりません。

 が、正しかったとすれば、これはかなり挑戦的な試みだったと思います。私の解釈通りだったならば、やはり浮ついた社会に一石を投じるという、以前書いた天気の子の感想とも通じるところがあるのではないか。

 もはや、ドラマの内容と関係なくなってしまいましたが、震災もまた、十年を経て、ストーリーとして描かれようとしているのかも知れません。ただそれは、本当に当事者性のあるものだったのか。それとも、当事者に任せておいては、物語になんて決してできないのか。

 そもそも、巨大な悲劇を、物語にすることは本当に許されるのか。

 私に答えは出ません。しかし、考えあぐねている間に時間は過ぎ、社会は変わっていってしまいます。私の死だって近づきます。

 それでもまだ、私はためらうばかりです。

 最後にもう一度改めて申し上げます。私の文章でご不快になった方、恐ろしい体験を思い起こされた方がいらっしゃれば、おわび申し上げます。

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