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親の就労-若者を取り巻く環境-

評価する/される

私たちのような、非営利の活動実践をどう評価することが適切なのでしょうか。様々な視点があると思いますが、そこに関わる若者の数などといった目に見える数字が「評価指標」に使われて良いのかといった問い、開設日数がひとつの成果指標であるのかという問いなど、その指標を作るだけでも議論は終わりそうにないものです。

外部に活動を示す際には、数字、指標、根拠といったものが求められてきましたが、そういったもので評価をしていくとだんだんと「生活」というものが抜け落ちていくように感じます。

常に評価される側の親たち 

若者の多くが接するであろう「保護者」や社会的養護の施設職員も、会社や上司といった方に「評価される側」として日々生活をしています。どこかの企業に勤めているのならば、月給程度(人件費)の仕事はクリアさせているのかといったことから、社会的に「常識」とされる立ち振る舞い、言葉遣い、相手との距離感といった部分まで評価されていきます。

また、基本的なスキルも同様で、メールが打てるのか(ただタイプできるのではなく、件名や宛名、具体的な内容を簡潔に表現できるのか等)、パソコンで書類作成が効率的に行えるのか、仕事の目的とする資料を読解できるのかといった基礎的な部分も評価対象になっています。

これはいわゆるフリーランスも同様で、取引先企業から「評価」を受けなければ、次の仕事はありません。そして、そうしたあらゆる面で受ける「評価」は大きなストレスにもつながります。

変えづらい組織構造の果てに 

個別の評価だけでなく「組織の文化」といったものや、変えづらい「性別」という部分もストレスに大きく影響します。少し前に伺ったある会社では、女性は時短勤務を選ぶ人が多く、女性管理職は0人。男性は残業も非常に多く、厳しい指導をしていると話されていました。昇給も男性のほうが「厳しくしているから高い」と。そして有給は、基本的に「許可しない」とも話されていました。労働法の視点から見ても大きな問題です。

こうした企業に夫婦で所属していると仮定した場合、男性は重労働を課され、有給も取ることができない。他方で女性は、時短勤務が可能であるとなると、家庭においても自然と、片方に負担が大きくのしかかります。

こうした企業の場合、父子世帯は、子育てをするには厚いサポートが必要で、母子世帯は収入が少なく経済的自立はしづらいのではないでしょうか。有給に関しては、介護業界でも被用者には選択の余地がなく、シフトにあらかじめ組み込まれているといったことが少なくありませんでした。

構造に加担している私たち 

このような企業や性別による取り扱いを変えるという企業は、男女平等の理念や労働基準法に反するだけでなく、社会構造として女性は家事育児を担うもの、男性は労働をするものといった価値観を助長していることにも気が付いてよいと思います。

前述の企業も「女性は働く気がない」と話されていましたが、企業の体質が「女性だと働けない」とさせている場合もあることに気が付いてよいのではないかとはご指摘させていただきました。

※有給休暇は労働者の権利であり、雇用している企業の許可や承諾は必要ありません。雇用側が行えるのは「事業の正常な運営を妨げる場合において」取得日を変更できるといったことのみです。

外でのストレスが高いと、家庭でも負荷が高まる

 個人が受ける「評価」と、簡単には変えづらい「社会構造」とで大きなストレスを受けている中、このところ「大人」と言われる人には大きな負のストレスがのしかかっています。そうしたストレスを抱えた状態で家庭に帰るわけです。

家庭は機能のひとつとして、安心、安全な基地としての機能があります。しかし、高ストレス状態であると家庭内でも、夫婦のどちらかは「頑張らなくてはならない」状態が生まれ、ともに「弱くなる」こともできません。同時に子どもや若者を支える「保護者」としての役割も求められ「個」として一人でホッとできる場所があるとも限りません。

子どもや若者の成長に伴う変化を様々な機会で多少なりとも学んでいく「親・保護者」ですが、冷静でいられる時であれば、それを思い出し、子どもや若者が繰り出す不合理な事象にも巻き込まれず対応することが可能でしょう。多くの方はそうやって「どう接すれば子育てがよりよくいくのか」試行錯誤(これ自体が大きなスキル)されているものだと思います。けれども、冷静になれないほど疲弊している状態では困難です。

余裕のない状態で行われる「育児」「保育」は、改正法で禁止された体罰(しつけでも禁止です)やマルトリートメントに繋がりますし、きょうだいがいる場合はヤングケアラーの要因にもなってきます。

個人責任に矮小化する問題ではない

 よく虐待報道がされると「子育ては親の自己責任」、「親でない私たちには関係がない」、「虐待をした親が悪いのだ」といった言葉が大手を振るって通り過ぎていきます。けれども、追い込んだ社会側に責任はないのでしょうか。今回は「就労」といった側面のみを切り取りましたが、その人が育ってきた民俗や風習、家庭、教育環境、選択できたのか/できなかったのかといった部分など、本当に雑多で多様な部分まで目を向けなければ、本来は分からないことです。

また、個を切り取ればよいのではなく、その人が存在する社会の構造にも目を向けなければなりません。なにか自分たちには理解できない、受け止めることができない事件が起きると、私たちは「自分は悪くない」「自分は関係がない」と思うかもしれません。

しかし、前述の企業にしろ、そこに抗っていないのであれば、そうした社会構造を助長するために加担しているのではないかといった問いも常に必要となるはずです。いずれにしても、今までの経験値が使えない社会に突入したコロナ禍の働き方です。

だからこそ、ちょっと立ち止まって、私たちがどんな社会構造で生活しているのか考えてみてもよいのかもしれませんね。次回は「18歳の成人」に触れてみたいと思います。

現場から現代社会を思考する/コミュニティソーシャルワーカー(社会福祉士|精神保健福祉士)/地域の組織づくりや再生が生業/実践地域:東京-岐阜/領域:地方自治|政治|若者|子ども|虐待|地域福祉|生活困窮|学校|LGBTQ