読み切り小説 Christmas Song 聖夜の奇跡をあなたに

「 明日から来なくていいから 」

   黒服を着た店長は汐里にそう一言言い放つと、その日の売り上げの計算を続けた。汐里はカウンターの横で黙って立ったまませわしない電卓の音を聞いていた。
 「 年末まで働かせてくれる約束じゃなかったでしょうか 」
 「 3か月いて指名がひとつも入らないんじゃ置いとくだけコストの無駄なの。愛想がないし鈍いし、この仕事多分向いてないよ 」
   確かに、汐里は見た目が良い訳でもなく話上手な訳でもなく、先輩キャバ嬢の横で酒を作るくらいしかすることはなかった。21歳という若さは初めこそ歓迎された   が、それだけで生き残れるほど夜の世界は甘くない。遅刻欠勤がない真面目さ以外に目立った取柄はなく、後から入った新人に売り上げを越されていく焦りは日々空回りするだけだった。
 「 大体さ、今日は1年で一番客の多い日なのに、同伴も指名もないのは君だけだよ。この仕事は接客じゃなくて営業って言わなかった?」
 そうだ。店は今日一日多くのゲストでにぎわっていた。シャンパンの栓が弾けて嬢の嬌声があちこちでさざめく。フロアの真ん中に置かれた大きなクリスマスツリー。華やかだけど、汐里にとって辛く惨めな1日だった。
 「 お願いします、今お金が苦しくて… 指名取れるように頑張ります 」
 店長は無言で顔をしかめる。携帯が鳴った。電話を取った店長は別人のように顔が明るくなる。
 「 あ、お疲れ様です!ええ、ぜひ明日から入って下さい!ドレスは体験で着たやつと同じサイズを出しておきますので… 」
電話の主は昨日トライアルを応募した女の子に違いない。二十歳で、今流行りのアイメイクを決めた勝気な子。私のロッカーはこの子が明日から使うんだ。
汐里は黙って店を出た。もう待っていても帰りのタクシー代はもらえないだろう。急いで終電をつかまえないとアパートへ帰れない。
外はまだ人が溢れて昼と同じ明るさと賑わいを振りまく。汐里は人波の中、下を向いて駅へ急いだ。地味で着古した服も、目に浮かぶ涙も見られたくない。

今日は12月24日。汐里の人生で最悪のクリスマス・イブだった。

 
 汐里は地方から東京の短大のデザイン科に進学した。子どものころからの夢だったイラストレーターを目指してひたすら努力をした就活は実を結ばず、やっと入った販売会社は上司と合わず半年で退職した。残ったのはわずかな貯金と挫折の痛みだけだった。それでも汐里は田舎へ帰る選択肢は選ばず、バイトをこなしながら描き貯めた絵を持ち込んだりウェブの仕事依頼に登録したりで絵の仕事を探し続けた。この広い世界のどこかに私の絵を気に入ってくれる人がいる。そう信じてきたけど、最近は現実から逃げる生活にほとほと嫌気が差していた。それに汐里にはもう一つ悩みがあった。汐里はまだ一度も男性とキスはおろか手さえつないだ事もないクィーンオブバージンなのだ。

この歳で処女なんて、恥ずかしくて誰にも言えない。でも、本当に自分を愛してくれる人に捧げる為に守っている。それは真面目な汐里なりの小さなプライドでもあった。

 自宅そばの駅にも人がひしめいていた。いつもよりお洒落したカップル、ブランドの服を纏ったOLのグループ、プレゼントの袋を抱えた家族連れ。誰もが幸せで特別な夜を楽しんでいる。汐里はアパートの部屋に帰りたくなかった。暗くて寒い部屋。誰も汐里を待っていない場所。でも他に行く所もない。駅前通りのショーウインドウを覗いて服やアクセサリーを見てため息をつく方がまだマシだ。安物のコートの襟をかき寄せ、明るい表通りを避けて裏通りの商店街へ汐里は歩き出した。

昼間は買い物客で賑わう通りは店も閉まり人影はほとんどなかった。1往復したらもうアパートに帰ろう、そう決めて足を早めた汐里の前を、女子高生のグループが通り過ぎた。

「 見た見た?ホームレスだよね 」

「 お風呂1年入ってないっぽいよ、ヤバっ 」

「 あんな汚いババアにお金あげるとかマジありえな〜い! 」

大騒ぎしながら遠ざかる矯声の延長線に、白髪の老婆がベンチに腰掛けている。汐里は立ち止まり目を凝らした。
ボロボロのセーターに擦り切れたベストを着て小さな背中を丸めて頭を下げている。裸足の足に履いたサンダルのそばには、丸い菓子の缶が置いてあった。

女のホームレスは珍しい。この季節にあんな薄着で気の毒な…

だが汐里は関わり合いになりたくはなかった。寧ろ、もっと惨めな相手を見下して優越感を覚える自分が卑しい。足早に老婆の目の前を通り過ぎようとした時、缶の中に入っている物が目に入った。

小石が2つ、噛んだガムの包みが1つ、ペットボトルの蓋が4つ。老婆は微動だにせず頭を低く垂れたままだった。

汐里は動けずその場に立ちすくんだ。老いた明らかに身寄りのない女性に世間は冷たい。何も出来ないのはわかっているけど、こんなあからさまな意地悪をする奴らと同じにはなりたくない。老婆の姿は少なからず汐里と同じ寂しさや生きる厳しさを纏っていた。汐里は老婆に近寄って口を開いた。

「寒いからもう帰られたらどうですか」

顔を上げた老婆は、周りを見渡して声の主を探した。目が見えないのだ、汐里は直ぐに気づいた。
「 すいません、すぐに退きますから 」
うろたえて缶を抱えて立ち上がる老婆の手を汐里は握った。枯れ枝みたいにしわがれてるけど、優しい温もりがある。汐里は故郷の祖母を思い出して胸が熱くなった。
「 座って下さい。私は構いません 」
老婆を座らせて汐里は財布を取り出した。1000札が2枚、汚れた5000札が1枚。この5000円は3日前店でさんざんお触りされた中年男がチップでくれたものだ。
汐里は缶の中をひっくり返して地面に落とし、代わりに財布の小銭をバラバラと全て入れ、札は全て老婆の手に握らせた。

「 これで温かいものを食べて下さい。風邪ひかないように気を付けて 」

茫然としている老婆の耳元で汐里はありったけの笑顔を見せた。汐里は自宅の方へ向きを変え歩き始める。良かった。あの汚いお金でも、誰かのために使う事ができた。明日からの食事はストックのパスタと安売りの野菜でしのげばいい。探せば短期の年末バイトだってある。ほんの少し前向きになれた自分が何となくうれしくて歩くスピードを速めたその時だった。
「 待って下さい 」
振り返ると、札を胸に抱えた老婆が立ち上がって空を見ていた。暗がりに老婆の吐く白い息が弱く揺れている。

「 あなたのために祈らせて下さい、どうか今夜、あなたの望みが何かひとつでもかないますように… 」

 目を閉じた老婆の体は、暗い闇の中でなぜか凛とした気品を称えていた。汐里は戸惑ったがとりあえず何か言わねばその場を離れられないと思い大きな声でありがとうございますと言い駅の方向へ歩いていった。

 アパートへ向かう道を何故か汐里は遠回りしていた。老婆の言葉を思い出し、望みと言われて思い出す物が頭の中を巡っていた。

 イラストレーターになりたい、もっと広いアパートに引っ越したい、新しいスカートとブーツを買いたい、願い事は沢山ある。

でも…

汐里は立ち止まった。

イブの夜に、本当に私を愛してくれる男の人と一晩過ごしたい。それが1番のプレゼント。

冷たい風が汐里の背中を押した。汐里は苦笑いをして歩き出した。

馬鹿みたい。今の私を愛してくれる人はいない。さっきのおばあさんの演技を信じるなんて子供みたいだ。現実に戻ろう。暗くて冷たい部屋で、今夜一人どうやって時間を潰すか考えなきゃ。月末でスマホのデータ量も残り少ない。早くベッドに入って、明日の朝が来るのを待つだけ。楽しいことは何もない明日だけど、一番嫌いな時間は早く終わってほしいから。

汐里は肩をすくめて足早にその場を離れた。

 
 アパートの錆びた階段を音を立てないよう上がると2階の外廊下が汐里の部屋まで通じている。汐里の部屋の入口は奥から2番目だ。

 鍵を出して前を見て、汐里はフリーズした。部屋の前に誰かが立っている。男の人らしいシルエットに足がすくんだ。

 誰?こんな時間に来る男友達なんていない。どうしよう、引き返して警察に電話しようか… 

 でも汐里は怖くて体が動かない、鍵を握りしめて立ちすくんでいたら、シルエットはゆっくり動いて灯りの下まで近づいてきた。大声をだそうと構えたその時、柔らかいソフトな声が頭の上に舞い降りた。

「 初めまして。おかえりなさい 」

 黒いコットンパンツに白のタートル、ターコイズブルーのショートジャケットを着た若い男が汐里を見て笑っている。細い切れ長の優しい目は温かくて、緊張した汐里の心をふわっと包んだ。嘲り、下心しか感じなかった男の人たちとは全く違うオーラ。汐里は男性にこんなに素敵な笑顔で見つめられたことはなかった。

「 あの、どちらさまでしょうか 」

 男は笑顔をまま汐里のすぐ目の前まで来た。急に周りの空気が柔らかくなる。警戒していた体がどんどんほぐれていくのを感じていた。

「 君が僕を呼んでくれたんだよ、忘れたの?」
「 私が? 」

 汐里は男の顔をじっと見た。短く刈った両サイドに軽くメッシュの入った前髪が男らしい。でも目元口元は暖かみと礼儀正しさに満ちている。
「 行こう 」
 男は汐里の手を握って歩き出した。
「 どこへいくんですか… 」
「 イブの夜を二人だけで過ごすんだよ 」
 手を引かれるまま汐里は彼に付いて外へ出た。断る事も手を振り払う事も出来ない。風が汐里と男を巻き込んで引っ張っていく。

行っておいで、楽しい世界が待っている

そんな囁きが甘く汐里の耳をくすぐった。

 零時近くなのに人で溢れる通りを汐里は男と歩いた。さっき一人で歩いた時と同じ場所とは思えないほど、全てが輝いて幸せに映る。東京に来てこんな気分になるのは汐里にとって初めてだった。男は汐里に話しかけながらずっと手を握り続ける。他愛のない話だけど汐里の言葉に聞き入って返事を返す。他人に気を使ってばかりで自分を人に見せる勇気ののなかった汐里はその思いやりがなによりうれしい。握った手に少し力を籠めると、応えて握り返す手は大きくてすべすべしている。くすんで小さかった汐里の体は今男の力をもらっていきいきと躍動している。

 不思議だ。さっき会ったばかりなのになぜこんなに楽しいんだろう。

 答えはもう要らなかった。華やかなショーウィンドウに映る汐里の姿は喜びにあふれ、そしてすぐ横に寄り添う男の横顔は、春の光のような慈愛に満ちている。

 そこには紛れもない幸せがあった。ありふれているからこそ、魂が震える安寧に汐里は我を忘れて身を委ねた。

 男がキッチンカーで売っている飲み物を買ってきてくれる間、駅前のロータリーに作られた大きなクリスマスツリーの前に汐里は立っていた。男は誰なのか、さすがに名前もなぜ現れたのかも知らずにいるのは気がひけた。「 君が僕を呼んだ 」と言った言葉が汐里は妙に気になっていた。

 私が彼を呼んだってどういうこと? からかっているのかしら。でもそんなふざけた風には見えない。じゃあ彼は何者?

 聞けばこの奇妙な関係のバランスが崩れそうで怖かったが、どうしてもはっきりしないと汐里は気持ちがおちつかなかった。

「 お待たせ… 一人にしてごめんね 」

 男が紙コップを持って汐里のそばに戻ってきた。手渡されたカップには熱いミルクココアが入っている。一口すすると、体中に甘い温もりが広がっていく。

「 私、汐里っていうの 」

 汐里は男の顔をじっと見た。切れ長の目は相変わらず優しく汐里を見ている。
「 汐里っていい名前だね。 僕はマサト 」
「 マサト… 」
 
 カウントダウンを告げる音楽が響く。拍手と喧噪が見つめ合う二人の周りをぐるぐる回り始めた。
「 喉、乾いたな。僕にも飲ませて 」
マサトは汐里の持っていた紙コップを取ろうとしたが、汐里は反射的に手を引っ込めた。
「 駄目 」
声の大きさに汐里自身が驚いた。マサトは軽く首をかしげて汐里を見たが、目の奥の優しさは変わっていない。だが汐里はコップを離さなかった。
「 私は、汚い 」

 クラブのソファで酔客に絡まれる、売り上げが悪くて店長から罵声を浴びせかけられる、他のキャバ嬢からブス女とバカにされる。自尊心を土足で踏まれ続けた辛い記憶が汐里の胸を締め付けた。自分は汚れた女、生きていても意味はない。ホームから飛び降りようとした週末の最終電車は軋んだ音を立てて汐里の前を何度も通り過ぎた。

 誰か、助けて   

 落としそうになったコップを、マサトの手がしっかり受け止めた。コップを取ると一気に飲み干し、茫然としている汐里の頬を撫でた。

「 汐里は綺麗だ 」

 大勢の人がカウントダウンのコールを始めたが、汐里の目にはマサトしか映っていない。マサトは汐里の目に浮かんだ涙をそっとぬぐった。

「 あなたは、誰なの 」

 マサトの顔から笑顔が消えた。その時、空の闇から一筋の光が現れ、二人の間に流れて落ちた。汐里は分かっていた。この光は私たちにしか見えない。握りあった手の中に漂っていた不安と迷いが零れ落ちて、生まれたての愛が息づいている。愛しむ間もなく、汐里は運命の時を迎えた。

「 君だけに出会うために来たんだ 」

 日付が変わり、広場は歓声で埋め尽くされる。私は今神に祝福されているのだと汐里はつま先に力をこめて目を閉じた。

 唇を重ねた汐里とマサトを包んで、街は極彩色に輝き天を焦がし続けた。

  小さなヒーターひとつのベッドの前で、汐里はマサトの腕の中に抱かれていた。互いにジャケットを脱いでスウェット越しに骨格を感じ合いながら体温を探り合い、軽く唇を合わせてはいたずらっぽく笑い合う。汐里はこれから始まる夜の入口に立ち、期待しながらまだ躊躇している。だがマサトの手が軽く汐里の乳房を捉えた時、汐里は覚悟を決めた。

「 汐里、怖くない? 」
「 怖くないけど、恥ずかしいの」
「 全部好きだよ。だから心配しないで 」

 ベッドに腰かけた汐里の体から、服と下着が滑るように落ちていく。最後の1枚を残してうずくまる汐里の上でマサトは上半身を脱いだ。鋼の筋肉に覆われた逞しい躰が優美な顔立ちとアンバランスで、切ないエクスタシーが汐里の無垢な性感帯を容赦なく刺激する。マサトはそっと汐里の背中に覆いかぶさり首筋を愛撫した。震えと熱感が最後の抵抗を奪い、汐里はマサトとシーツの海に身を投げる。目を閉じた汐里の体を柔らかい羽がなぞっていく。それがマサトの指であることが汐里はにわかに信じがたかった。

 マサトは神が寄越した使い?それともマサト自身が神の化身かもしれない。でももうどちらでもいい。私はマサトを愛している。それ以外何もいらない。

 汐里の喘ぎは冷気を裂き、亀裂はマサトの肢体から迸る灼熱の熱風で粉々に吹き飛ばされる。最後の瞬間を迎えて、汐里は砕けた結晶が降り注いで落ちるのをナオトの背中越しに見ていた。

 それは汐里の記憶の中に残る、最高に美しい景色だった。

 

 マサトと抱き合って夜が時を刻む音を聞くと、汐里は言葉にできない不安に襲われた。それはマサトに対する不信感ではなく、寧ろこの世の者とは思えない彼に何かを尋ねる事への躊躇だった。もしマサトが神の遣わした幻で、目覚めたら全てなくなって孤独な朝を迎えるとしたら、汐里は生きる心地がしなかった。だが朝の光をマサトと二人で迎える事が出来たら、私は笑って神様に感謝できる。何も聞かない、だから最後の望みを聞いてほしい。汐里が胸に顔を摺り寄せるとマサトは目を開けて抱き寄せた。マサトの硬い体躯はどこまでも汐里を慈しむ。汐里は決心して顔を上げた。

「 お願い。明日の朝、私が目覚めたら必ずそばにいて 」

 祈るような汐里の言葉の後短い沈黙が続いたが、マサトは笑って頷いて汐里を強く抱きしめた。

「 本当 ? 」

「 うん、誓うよ 」

 安心した汐里はその背に手を回し思い切り息を吸って匂いを満喫する。

 明日目覚めたらマサトにもう一度尋ねよう。  あなたは誰なの? ずっと私を愛してくれるの? 私はあなたを、愛している。

 軽く絡めた指に強い力がこもると急に意識が遠のき、汐里は深い眠りに落ちた。

  開け放したままのカーテンから朝の光が差し込んで、汐里は唐突に目を覚ました。意識はもうろうとしていたが、直後に感じた違和感で体を起こすと、そこには期待を裏切る光景が汐里の胸を砕いた。

  昨晩マサトがいたはずの傍らはもぬけの殻で、シーツの窪みすら残ってはいなかった。一瞬で神経が麻痺していく感覚と戦いながら汐里は必死でマサトの名を呼んだが返事は帰らない。玄関に行くとあったはずの男物のシューズは消えていて、汐里の脱いだ服だけがベッドの下に散乱していた。汐里は混乱してシーツの端をつかんだ。

 彼は朝までいてくれると私に誓った。それなのに、どうしていなくなってしまったの… 

 私を弄んだ嘘つき男だったのか。そんなはずはない。マサトの体から受けた波動も熱も全て誠実と愛に満ちていた。それとも全て性質の悪い夢だったのか、あの老婆の予言を気にしすぎた故のまやかしだったのか…

 違う、彼は確かにここで私を抱いた。なぜなら、今でも私の奥にマサトが残した証が甘く燻っている。
 
 下腹を押さえ、へたり込んだ汐里の口から嗚咽がもれた。

 「 マサト 」

 涙で掠れた声にもう返事は返ってこなかった。新たな絶望が汐里を襲おうとした瞬間、汐里は別の気配に気づいて窓の方を見た。ベッドとカーテンの間に見慣れない陰がありそこから強い芳香が流れてくる。マサトの残り香を感じて汐里は恐る恐る近寄った。

 床に1輪の紅いバラが朝の光を吸って輝いている。濃い緑の長い枝の先はまだ固い蕾だが、深紅と深い青の中間を思わせる、ミステリアスで魂を引き付ける色に汐里は目を奪われた。バラのそばに1枚のメモが落ちていた。汐里は祈る気持ちでそれを拾った。

I will stay with you as long as you love me.

あなたが私を愛する限り、永遠にそばにいます

 汐里はバラを手に取った。朝の陽を受けて花びらは色を変化させ光る。それは昨夜のマサトの笑顔と重なった。 やはりマサトは神の贈り物だった。いや、昨夜の老婆が神でマサトの正体だったかもしれない。でも汐里にとってそれはもう関係なかった。彼は幻ではない、汐里の前に現れた本物の愛だった。マサト、ちゃんと約束を守ってくれたのね。ありがとう。愛している。ずっとずっと、永遠に。

 裸のまま汐里はバラを抱いて泣き続けた。マサトの愛に包まれてこぼす涙はどこまでも温かかった。

 
 クリスマスの朝の光は汐里を包んで慈しむ。まるでマサトがいればそうしていたかのように、いつまでも、いつまでも。

 

  
 その日から2年が過ぎた。 再びクリスマスイブの夜を迎え、汐里は駅を出て自宅へ向かう道を急いでいた。

 マサトと出会ったあの日から汐里の生活は徐々に変化を見せ始めた。毎日ハローワークに通い詰めて、やっと発達障害者福祉施設のデイサービスで子供たちに絵を教える仕事を得る事ができた。給料こそ少ないが子供達と笑いながら絵を描く毎日は楽しく、障害を抱えても明るく生きるその姿に自身も元気をもらいながら汐里は誠実に子供たちと向き合った。そんなある日、病院を経営している子供の父親から新しく小児病棟を作るのでパンフレットにイラストを描いてほしいと依頼を受けた。誠意を込めて描いた絵は採用され、汐里はプロのイラストレーターの第1歩を踏み出した。その後介護施設や医療施設の刊行物に挿絵を描く仕事をもらい実績を重ねていく中で汐里は大きなコンペに応募した。アパレルメーカーのクリスマス向け宣材公募だったが、汐里はマサトに抱かれた時に瞼に浮かんだ砕け落ちる銀の冷気に深紅のバラを重ねた姿を描いた。汐里にとってマサトそのものだった絵は最終審査を通過し、店舗に張り出すポスターとして採用された。渋谷にあるメーカーの旗艦店に張られた自分の作品を見て、汐里は盛り場の隅で泣いていた頃の自分にこの光景をみせてやりたいと心の底から思った。そして、汐里は本格的な作家の道を歩み始めた。

 2年前と変わらない道を汐里は足早に歩く。クライアントが発表した最新のコートとパンツスーツを着て片手に携帯、片手にスケジュール帳を持つ姿は誰がみても砂漠の街東京を勝ち抜いた優駿そのものだった。

「 打ち合わせは来週の土曜日2時でお願いします。締め切りが3件入ってタイトなんですいません、ええ、年明けには取り掛かれますので 」

 電話を切って、汐里はびっしり埋まったスケジュール帳を閉じた。今日はたくさんのパーティーの誘いを全て断り家路を急ぐ。言うまでもなく汐里にとってこの日は大切なメモリアルデーだった。

 汐里は商店街の暗い通りを覗いた。あの日、盲目の老婆と出会ったベンチには誰もいない。あれから何度も足を運んだが、老婆と会うことは一度もなかった。汐里は財布を開いて多めに詰まった紙幣をチラッと見てため息をついた。今会えたら私は彼女に尋ねるだろう、あの日私の願いを叶えてくれたのはあなたですか、と。汐里は諦め、踵を返して家路へ向け急いだ。

 汐里の新しいマンションは念願のアトリエ付き2LDKの新築物件だった。ドアを開けると細長い廊下の先に広いリビングがある。汐里は灯りをつけずに中に入り窓の外を見た。暗い景色の彼方に、明るく光る一角が見える。大通りを彩るクリスマスツリーが今年も聖夜を大勢の人々と迎える日だ。だが汐里はあれ以来そこには行っていない。もうそこにマサトの姿は現れないとわかっているからだ。ひとつ息を吐いて汐里はカーテンを閉じた。

 灯りが遮断され暗くなったはずの部屋の片隅が、ほのかだがくっきりと光っている。汐里は振り返って光の照らす先へ向かった。

 マサトが笑って私を見ている。きちんと刈り込んだ短い髪と白い歯が眩しい。私があなたを真似て入れた金のメッシュはとても似合うと評判なのよ。私は思い切り笑って手を広げた。マサトはそこにいる。こっちへおいでよ、ずっと約束を守ってくれるよね、2年前とあなたは変わっていないもの。マサト、私だけのマサト。

 リビングの棚を間接照明が照らす中、灯りの中央に置かれた細長いガラスの花瓶に咲く一輪のバラ。あの日固かった蕾は開いて、青みがかった紅の花びらが汐里に語りかける。

I will stay with you . 続け、この愛よ、永遠に。

 汐里はバラにキスをした。花びらが軽く揺れて陶酔しそうな香りが広がった。マサトが私の背中を抱きしめている。切れ長の目、大きな胸、柔らかい手の平。そして囁く声が聞こえる。

 君だけに出会うために来たんだ。

この言葉だけが、私だけのChristmas Song。

世界に1つだけのChristmas Song。



Fin

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