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今夜は月が

時計の針が5時をさした頃、メイク直しもそこそこに職場を出る支度を始める。今日のために1週間の仕事を前倒しに進めてきたけれど、なんといっても残業がお友達の御社なので定時で上がることはできなさそうだ。でも、今日だけは。定時を20分ほど過ぎたところで、門をくぐる。うん、上出来。

好きなバンドに会いに行く。いつしか、それは私の生きる希望のひとつになっている。バンドとの出会いは、もう5年も前になる。趣味の合う友人から「あなたなら絶対に好きだから聴いてほしい」と、半ば押し付けるように受け取ったCDの束。親に見られると気まずいようなタイトルが並んでいて、とりあえず机の下に袋ごと押し込んだ。手当たり次第に取り出した1枚をCDプレイヤーに突っ込んでから夢中になるまで、時間はかからなかった。どれも知っている言葉なのに、新しい。想像できるのに知らなかった世界。大袈裟にいうと、その日から私の見る世界は変わった。

会場の最寄駅に着くと、改札さえ時間の無駄だというように忙しなく走り出す人の姿があった。さっきまで赤の他人だった誰かが、急に身近に感じられる。好きなものが同じって、そういうこと。でもいくら急いでいるからって、信号無視は良くないよ。私はいつでもまっすぐに、自分が思う正しいを貫きながら好きなバンドに会いに行きたい。

検温、消毒、来場者登録。今となっては当たり前になった儀式を終えると、不慣れなスタッフさんの案内の元、重いドアが開かれる。スタッフさんは本当に不慣れだったようで、3回も場所を間違えて案内してくれた。大変な仕事だろうな。お疲れ様でございます。なんて、安心している場合じゃない。ここだ。ここが私の来たかった場所だ。重い鞄を下ろして、ステージを見上げる。

とても気持ちの良い時間だった。擦り切れるほどに聴いてきた曲、歌詞、言葉の新しい一面を見せてもらったような。私は考えることが大好きな人間だから、ライブの途中にも色んなことを考えた。バンドのこと、周りのお客さんのこと、クリープハイプを教えてくれたあの人のこと、曲のこと、単語ひとつひとつから連想されること、日常のあれやこれ。集中できなかったな、と思ってしまうようなことですら、気持ちが良かった。クリープハイプというバンドがあって、私はそれを見つけて好きでいられて、直接会える環境があって、それを噛み締めて帰る夜がある。その全てが嬉しかった。

私にクリープハイプを教えてくれた友人は、新しい街に行くそうだ。もう会えることはないだろう。ありがとう、と伝えたかった。でも、それでいい。それがいい。今日が私を強くしてくれる。あぁ、今夜も月が綺麗だな。

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