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今すぐ自転車に乗りたい男

ここに「今すぐ自転車に乗りたい男」というタイトルの小説が存在する。それは主に日本語を用いた文章によって構成された数十頁ほどの短編小説だった。著者が男性であるのは確からしいのだが、それがいい歳して窓際と言って差し支えないような繁忙期などとはおよそ縁遠い閑散としたオフィスの片隅で勤務時間中にも関わらず私的行為に耽る冴えない中年男性によるものなのか、そうでないのかは分からない。ただそれが「今すぐ自転車に乗りたい男」という文言をタイトルに掲げる概ね数十頁ほどの短編小説であるということもまた確からしかった。裏表紙を開くとカバーのそでには著者近影が掲載されている。しかし、その写真はやけに古ぼけて色褪せている上、元々大きな画像の一部分だったものを切り取ってありえないくらい引き伸ばしたものを使用しているため著しくガビガビだった。眼鏡をかけた横分けの男、見て取れるのはその程度だった。


「今すぐ自転車に乗りたい男」

男は生牡蠣を頬張るのをやめたかった。明日お腹が痛くなるのは嫌だった。しかし、男の水気の多い中年の左手は男の意思に反してそこにある牡蠣を無造作に掴み取り、短く光る短刀を握った右手は手際よくその殻を剥いていた。男の額には大粒の汗が浮かび、次々と滑り落ちていく。それはこの牡蠣を剥く会の列席者にのみもたらされた誉れでもあった。男は苦々しい表情で明らかにやり場のないその牡蠣を尖らせた唇の先で吸い込んだ。ほとんど噛まずに飲み込まれたその牡蠣が胃の中でどのように消化されて行くのか、男には自分がそればかりを気にしているように感じられ、食道を滑り落ちて行くそれの感触が不快だった。牡蠣小屋と呼ばれるそのビニールハウスの中はやけに蒸し暑かった。男は腰掛けたそのくたびれたビールケースの上で上体を起こし伸びをして見せた。そうすることで自分以外の列席者の様子を伺おうと考えていた。それと同時に自身のこの場に対する不満や完全に飽きているその現状を会の運営スタッフかなにかに認識して欲しいとも感じていた。視界は開けていた。他の列席者も皆一様にそれまでの自分と同じように深くうなだれてただひたすらに牡蠣を剥いているからであった。しかし、その表情がそれまでの自分と同じように無心としか言いようのないほどに暗く曇り、手つきもまた気怠げであったことは男に安堵を与えた。その牡蠣小屋には隙間なく人が詰め込まれていた。3人ずつ対面する形の6人がけのテーブル席が8卓、いわゆるお誕生日席と言われる位置にもビールケースの椅子が並べられていたのでこの狭い空間に64人もの人々がひしめいていると考えられた。牡蠣小屋の中へ通される前に見た光景を思い出す。同じようなビニールハウスがパッと見で10棟以上、整然と並んでいたことを思い出した。男は牡蠣を剥く会のその規模感に恐れおののいていた。未だ、運営スタッフらしき姿は人影すらも見当たらなかった。右隣に座った同年代と思しきサラリーマン風の冴えない中年男性が牡蠣を剥く手を止めて声をかけてきた。いつまでそうして手を止めているつもりです? 男には返す言葉がひとつも無いように思えた。中年男性は続けた。私はここ何個かのこれはあなたが剥かなかった分をあなたの代わりに剥いているというふうに感じていますよ。この感覚が果たして正確なものなのかは分からないですけど、牡蠣を剥くことにも、こんな所に押し込められていることにだって、私も、私だって飽き飽きですよ。でも、あなたが手を止めている間、私はこれをやり続けたんです。なにか切実なものを訴えているかのような中年男性の眼が僅かに潤っていくのが分かった。気が付くと同じテーブルに着く他の6人も手を止めて無言でこちらを見ていた。中年男性はそれを見渡して言った。あなたは紛れもなくこれをサボっていた。今度は私達が休憩する番ですよ。中年男性が短刀で牡蠣の殻を何度か叩くと他の6人も静かに首を縦に振った。怒りでも哀しみでも無い、透き通っているのか濁っているのか分からない感情が川底の泥を巻き上げる湧水のように湧き起こった。泥水は不規則な乱流に任せて辺り一面の全てを即座に混濁させた。男は思考の失われていく感覚に囚われていた。もったりと重苦しい肉体と混雑した思考の重厚な檻に閉じ込められていた。いつの間にかにわかに降り始めた雨粒が天幕を打って一層蒸した。肌着が地肌に張り付く不快な感覚があった。人はその人生の内に必ずスピードを欲している、と男は考えた。多く我々はそうした欲情に無関心でいて、それらの存在を見て見ぬふりをしている。特に季節の移り変わりや雲の流れ行くのを見つめるような平穏さの中にもスピードは必要とされている。人には高速度に達することでしか満たされない欲求がある、と考えた。男は今すぐに自転車に飛び乗りたい衝動に駆られていた。いつからか全身を埋め尽くそうとしていた汚濁の泥濘を振り払うためか、男の身体はスピードを求めていた。

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