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教会(境界)

    とにかく、私に知らされているのは私があの場所に一人で倒れていたこと。そして、あの場所に居た私以外の人間の誰一人として現在その居場所が分からなくなってしまっているということです。
    私の、この朧気で不確かな記憶があなたの信用に値するものなのかは分かりませんが、あの日のことを思い出そうとした時の薄暗い森を歩いているような得体の知れない不安や憂いを少しでも取り除くことができるなら、いくらでも話してみようと思える。いや、正確には話しておかなければならないと心のどこかで感じているのかも知れません。

    手紙に書かれていた集合場所までは自宅から電車で三十分ほどあり、私は集合時間より一時間ほど早く家を出ました。考えて見れば少しくらいは何か準備でもしておけば良かったのですが、よく分からないのですが上手く頭が働かなかった。とにかく一刻も早くあの場所へ行かなければならないと、それだけを考えていたように思います。
    集合場所には既に何人か集まってきていました。といっても何の変哲もないごく普通の地方都市の駅前のロータリーでそれなりに人出もあったので最初はどこまでが私と同じ目的で集まっているのか分かりませんでした。
    バス停にバスが到着した時、集合時間の十分前くらいだったと思いますが、バス停の周りは二、三十人くらいのちょっとした人だかりになっていて、バスの扉が開いた途端、我先にと一斉に乗り込み始めました。少し離れた所に立っていた私もバスのエンジン音や扉の開く音を聞いて鼓動の高鳴りを感じました。今すぐにあのバスに乗り込まなければいけない、と。
    バスはごく普通の路線バスのような見た目でしたが、近づいて見るとしっかりと各所にマークがありました。あの封筒や便箋に印刷されていたのと同じ、見覚えのあるマークです。行先表示器には隣駅の名前があり、傍目から見ただけではこのバスが私達を導く希望の方舟であることは分からないようになっていました。希望の方舟、その時はそう感じていたのです。もしかしたら今も。
    ぎゅうぎゅう詰めになって全員が乗り込むと、バスは静かに走り出しました。大勢の知らない人達にもみくちゃにされながらも私は安心感のようなものを感じていた。まるで母親の胎内にいるような、バスの揺れが心地よかった。
    バスはどこにも停ることなく走り続けました。大通りから田畑の間を抜ける細道に折れ、大きくカーブして山道に入りました。田舎の、もう誰も使っていないような未舗装の山道です。窓の外は真っ暗闇で遠くに繁華街の喧騒が美しく煌めいて見えました。それと同時にあんな汚らわしくおぞましい世俗から離れることができるのだという期待で胸が膨らみました。やがて窓の外には夜の森以外何も見えなくなりました。暗闇をバスはくねくねと走っていました。室内灯が何度か点滅してから消灯したので、乗っていた私達も夜の闇に飲み込まれました。それでも少しの不安もありませんでした。
    進行方向に対しての傾斜がなくなり平坦な砂利道のような所を少し走ってからおもむろにバスは停車しました。到着した歓びからか、車内が少しざわつくと同時に前後の扉が一斉に開きました。人波に流されるようにしてバスを降りると、辺りは開けた空き地のようになっていました。月明かりに照らされた私達が連れてきてもらったのは、もう使われていない採石場のような場所でした。
    少ししてその場に居ることに慣れてくる頃には、誰ともなく空き地の奥に向けて歩き始めていました。そこに行かなければならないという確信めいた思考に囚われていたのです。
    むき出しの岩肌に横穴が掘られていました。人一人が腰をかがめてやっと通れるほどの細い洞穴です。私達は列を成して穴の奥へと歩を進めました。すぐに月明かりも途絶え何も見えなくなりましたが、手探りで壁伝いに歩き続けました。
    今考えてみるとこの道のりは何らかの試練だったように思います。延々と続く洞穴は登ったり下ったりしていて、中腰になって行くにはあまりにも過酷でした。途中、壁の窪みに押し込められてかがみ込んでいる人を何人か追い越しました。あそこで脱落した人も居たと思うのですが。
    とにかく、私が冷たい風を感じた時、顔を上げると一気に視界が開けました。巨大な地下空洞に行き当たったのです。壁面には無数の松明が掲げられ、装飾された壁面や天井の様子は正しく教会でした。通気口と思しき天窓からは地上の風が入り込んで来ていて、松明の炎が人々の影を揺らしていました。
    洞穴の出口は教会の側面後方に位置していて、石柱の並ぶ側面の歩廊のような空間から中央の聖堂を覗くと天井をアーケード形に掘り抜いた荘厳な造りになっていました。聖堂には木製の長椅子が祭壇に向けて並べられ、私達はそこに順番に座って行きました。
    その状態でしばらく待っていると、どこからか強い風が吹き抜けました。壁面の松明がいくつか吹き消され聖堂が薄暗くなった時、音楽が鳴り始めたのです。
    地鳴りのような低い音の上に何層にも重ねられた無数の旋律。それは全てが人間の声でした。頭上から降り注ぐそれらは賛美歌のような、それでいてお経のようにも聞こえました。
    思わず上を見上げると、揺らめく炎の明かりに照らされたおぞましい光景を目にしました。通気口と思われた天井の窓のような窪みの中に人間がうずくまって居たのです。聖堂に向けて土下座をするような体勢で唸り声を上げる人間が聖堂を取り囲むようにして配置されていました。
    私は反射的に身体が反応し椅子から腰を浮かせようとしました。しかし、腹の底に響く旋律に取り付かれたのか、足に力が入らずに膝から崩れ落ちて尻餅をついてしまいました。
    虚脱感はどんどんと全身に広がり、体を起こしているのもやっとの状態でした。まるで、この空洞ごと地下深くへと降りて行っていて、重力が何倍にもなっているかのように。神にひれ伏す人間達のほとんど絶叫と化した旋律に包まれて、奇しくも天窓の人間達と同じように祭壇にひれ伏すような体勢で私の意識は途絶えました。

    私が意識を取り戻したのは、県内の大きな病院の一室、つまりこのベッドの上でした。警察には今あなたに話したのと同じ内容を洗いざらい伝えました。ただ一つ、あなたがこの病室に来るようになってから思い出したことがあるのです。
    私にはあなたがあの日あの場所に居たように思えてならない。あなたは祭壇に向かって私達に背を向けて立っていた。あなたが天高く両手を広げると祭壇の奥の一際大きい天窓から光が差し込んで来た。その時、あなたは地の底を這うような笑い声を響かせて光の中に飲まれて行った。そして、少しの間を置いて私達もその光に包まれたのです。あの紅い光の中へ。

    警察もこの病院の医師や看護師も口を揃えて、あなたが私の母親なのだと言うのだが、私にはどうしてもそのような事実を受け止めることは出来ないのです。どうか許して下さい。

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