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190320

今日のテーマはアートと情報について。というか情報量について。今「にしな」というアーティストの音楽を聞いていてふと思ったことを書こうと思う。
僕はこのアーティストのことを今の今まで全く知らなかった。そして何の情報もないまま彼女の音楽を聴いた。感想はまた別にして、ここで書きたいことは、アートに対するイメージや解釈とその作品やアーティストに関する情報量の関係についてである。
例えを1つ。以前ハリーポッターの作者J・K・ローリングが別のペンネームで作品を発表していることが発覚し、話題となった(HuffPost https://www.huffingtonpost.jp/2013/07/14/harry_potter_rowling_n_3596034.html)。発覚前に、処女作にしては完成度が高いという評判が立ったというから、やはり評価自体は高いようであるが(僕は未読)、発覚前とその後では作品そのものの見方は確実に変わるはずである。人間である以上、付加された情報に引っ張られずに作品を鑑賞することはできないだろう。
一度その情報を得てしまったら、絶対に何も知らなかった頃にはもどれない。そしてその不可逆な認識の中で僕らはアートを鑑賞するのである。
アート自体とは一期一会でなかったとしてもアートを鑑賞すること自体は一期一会だ。常に同じ状態でアートに向かい合うことは僕らには不可能なことだ。

僕が気がかりなのは、欲しい情報が基本、速攻で手軽に手にはいる現代において何でもかんでもググる、みたいな習慣が自身についていないかどうかということである。
冒頭で述べた「にしな」というアーティストについても、彼女のことをググると多量の情報が一瞬のうちに提供されることだろう。しかし、アーティストのバックグラウンドを知ったら、知る前に鑑賞したら感じたであろう作品の持つ純粋な質感を感じることができなくなってしまう。しかもたちが悪いことに、知る前の状態にはもう戻れない。
もちろんアーティストのバックグラウンドを理解することが作品の「正しい」理解につながるという見方のあるだろう。それはある方向へは確かに正しい。
しかし、アートの理解は多面的、というか原理的には無限次元の広がりを持っていて、受け手の解釈は基本受け手に委ねられるべきであると考えている。

つらつらと書いてしまったが、何を言いたいかというと、アートと向き合う場合まず情報を収集せずにありのままの自分とアートが向き合う時間を大切にしたい、という話。情報を収集して作者、作品、自分の3つを引き合わせるのはその後にしたいよねということです。

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