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情報の一方向性

この20年ほどで僕らは自分の知りたい情報を簡単に手に入れることができるようになったわけだが、より楽しく生きていくために「知らなくていい」情報もある、というようなことについて書いてみる。

ここで述べたいことは、主にアート(音楽とか小説とか)を鑑賞する際の前提知識としての情報の有無、あるいはそれらの状況がもたらす両者の決定的な違いについてである。

さて、情報の一方向性について。
ここでいう情報の一方向性とは、

その情報を知る前
   と
その情報を知った後

という2つの状態を行き来することができず、
基本的に前者から後者への状態遷移しか起こり得ないということをいう。

想像力を豊かにしてみると、
「ある情報を知ってしまったら、それを知る前の自分には戻れない」ということを恐ろしく感じないだろうか。
時々映画とかの感想で、
「もう一度記憶を消して、この感動を味わいたい」
みたいな感想を見かけることがあるのだが、
映画の感想に過ぎないと言って馬鹿にできない。

このメッセージは裏を返せば
「もう自分は2度と今しがた沸き起こったこの感動を味わうことはできない」
と言っているわけである。
まあもちろん、この場合は何も「被害」被っていない。
問題にしたいのは、

この人が映画を見る前に何らかの手段により、重大な結末を知った(あるいは知ってしまった)場合

である。これはわかりやすく被害を被っている。
事故的であったかどうかに関わらず、この人は
「もう一度記憶を消して、この感動を味わいたい」
という感想を持つこともなく、この映画の鑑賞を終えてしまうのだから。



では、もう少し分かりにくく、しかし日常的に生じている(かもしれない)ケースについて。
youtubeでバズったアーティストを見つけたとする。
おそらく初めは、文字どおり何も知らずにそのアーティストの音楽を耳にするだろう。
分岐点はこの先にある。

まず第一、僕らはそのアーティストの情報を配信している音楽以外からも知りたいと思うだろうか。

思わない、音楽だけ聴いていればそれで十分だ

という人には、この後述べる問題は何も生じない。

それでは、

アーティストに関連する情報を知りたいと思った場合、
すぐにそのアーティストの名前を検索して知ろうとするだろうか。

この場合が問題なのである。
検索する前にちょっと手を止めて欲しい。

その検索の先で手に入れる情報はおそらく、いや確実に、その音楽の感じ方や解釈に影響を与えるはずだ。
影響を与えることが悪いと言っているのではなく、
その情報を知る前に戻ることができないが故にその影響を回避し、
元の感覚のままに音楽を感じることができなくなってしまうことが問題なのである。

不運にも音楽を聞く前に「余計な」情報を知ってしまったら、
純粋にその音楽を聴いた場合に、その音楽をどんな風に体感したのか見当もつかないのである。

一応断っておくと、そのアーティストのバックグラウンド等を知ることは、アーティストがその曲に込めた意図がより確実に受け取れるようになるはずだから、そういうことを感じたいのであればそれらの情報は知る必要があるだろう。

だからこれはあくまで提案である。
アートを鑑賞する際にむやみに情報を摂取するのはやめたほうがいいかもしれない。
情報を摂取することでいろんな外的要因を考慮するのは、その作品そのものと自分自身とを純粋に向き合わせてからでも全く遅くない。

自分だけの感覚を大事にしたいと思うこの頃。

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