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何者かになりたい自分に捧ぐ、サブカルワナビーとは

 映画「花束みたいな恋をした」で話題に挙がった「サブカルワナビー」。サブカルを他人より知っている、といった優越感や、その承認欲求を指すもの。つまりは何者かになりたい、ということ。
 ワナビーは、上辺だけで本質を捉えていない。と、しばしば侮蔑的なニュアンスで使われることもある。
 もちろん、自分がサブカルワナビーであることは言うまでもなく。
 一歩ずれたらイタイ人だけど、結局はみんなサブカルワナビーで。それを鼻で笑う人も「大衆とは違って俯瞰で見れている」というワナビー層のイタイ人。という堂々巡り。
 ただ、サブカルワナビーの人も斜に構える人も、みんな子供の頃は夢があった。前書きはこれくらいで。

江ノ島のしらす丼
 
理解できない。なぜじゃんけんは紙が石に勝つのか...ではなく、なぜ江ノ島のしらす丼は、行列のできる店とガラガラの店が存在するのか。
 値段、味はそう変わらないだろう。清潔感や店の雰囲気、盛り付けなど多少はあるかもしれないけど。(もっと大真面目に言うとマーケティングや宣伝の手法で差はつくだろうけど)
 日本人は人と違う行動を嫌がる、と聞いたことがある。そして行列によく並ぶ、とも聞いたことがある。
 街に出ても、なんの行列だろう、と訳の分からない行列に興味が沸くことがある。料理店もそうだ。どんな美味しいお店なんだろう。たしかに並びたくはなる。
 難しい言葉で言うと、「同調行動」。行列に並ぶ心理もここに表されるそう。
 江ノ島でガラガラのしらす丼屋を営む店は、今すぐしらすではなく〝サクラ〟を仕入れるべきか。

義務教育の反抗期
 子どもの頃はみな、夢を持って生きていた。「何者か」になれる可能性があった。
 そんな中で大人は今、反抗期を迎えている。
 学生の頃、人と違う行動をすると叩かれた。個性的な人がいると「距離を置きなさい」なんて。
 だけど就活に入ったらどうだ。「個性を出しなさい」、「人と違う経験は」。可笑しな話だ。
 社会に出るにつれ、人生のレールに押し込められた自分が嫌になる人が増えていく。人生一度切り、どこか人と違うことがしたい。趣味で充実させたい。そう、サブカルワナビーの完成だ。
 すなわちサブカルワナビーは、大人の反抗期、とも言える。

禁止きんしキンシ
 
子育てで、子どもに本当にやらせたい事は、最初禁止すべきだそうだ。
 子どもは、やってはいけない!と言われたことをしたがる生き物だ。下品な言葉を言ったり、壁にクレヨンで描いたり、ゲームをずっとしたり、宿題をしなかったり。
 だから、例えば野球をやらせたかったらグローブを目に見えるところに置き、触ったらだめ!と言う。
 完全に拒絶するのではなく、興味の足掛かりとなるものを残してボロを出しておく。そこから仕方なしでやらせて、やってみせ。といった感じだ。
 思えば、先で述べた義務教育の反抗期、という話。学校側が人と違う行動を禁じてたのは、まさかこれに繋がる...というのは考えすぎか。

サブカルワナビー

「普通になるのって難しい。」

 というのは映画「花束みたいな恋をした」のセリフ。子ども時代に人と同じことを強要され、染み付いた行動心理。大人を憂い、社会に出てからのやりがいのなさに気づき、遅れてきた反抗期。
 先のセリフのように他人とどこか違う、とサブカルワナビーで承認欲求を抱いているが、所詮は世の中において普通の人として埋もれてしまう。自分はただの一般人だ。そんな絶望感を、この映画を通して感じさせられてしまった。
 
 それでも、承認欲求がない人間など存在しない。仕事を頑張っている人は出世という道で。ライブに行く人も、ミュージシャンからの歌に乗せた感謝だったり。SNSだってそうだ。褒められて嬉しくないことなんてないのだから。
 サブカルワナビーは、夢持った人の反骨心だと思う。世間への、日本人の習性への反抗。
 普通の人だっていい。主張を持った芯のある人でいたい。そしてささやかな褒め言葉が一つまみあれば、なお。

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