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〈短歌エッセイ〉こういうの好きそう

「こういうの好きそう」で始まる掴みその日コンビの解散を知る
はつきむ

 去年のM1から1年が経とうとしている。1年間、記憶に残り続けるネタは作品と呼んでもいい。好きな芸人の順位や出場をあーだこーだいいながら、暖房を付けてただお笑いを眺める時間。1年の内でもとりわけ好きだ。
 「路上喫煙ポイ捨て顔やろ!」。芸人、もものネタに掛け合いの真髄はある。お互いの顔のタイプを元に、偏見による「〇〇顔」を一対一のドッヂボールのように投げていく。1ミリでも歩幅がずれようものなら世間の地雷を踏むようなネタで、よくも爽やかに笑いを生み出すなと感心してしまう。
 ずっとネタも、顔も、名前も。1年経った今でも記憶が薄れすぎることはない。M1にはそんな実力者が多くいるのが、ビッグコンテンツたる由縁だろう。

パンと公園のおじさん
 「こういうの好きそう」。この言葉を聞くと身構えてしまう。僕は万人に(特に同性から)理解されにくい趣味を持っている。短歌、アート、オムライス、かわいいもの。女の子みたいな趣味、なんて言われたりもする。趣味に性別はないのに...と思うけど、それが良い意味で特徴で、それ故に上のセリフを投げかけてくれる人もいるのだろう。

 ただ、僕の心がパンだとしたら、「こういうの好きそう」を吐く人は公園にいるおじさんだ。ちぎっては池にいる鯉に食わせようとする。
 こう思ってしまうのは過去に受けたきめつけと揶揄いに挟まれているからだろうし、中には温かい人だっている。自分のことを考えながらプレゼントをくれて、「こういうの好きそう」と言うのと、通りがかりのアートを見て何も考えず「こういうの好きそう」では少し意味合いが違うのだ。
 このまま「こういうの好きそう」を連呼すると「こういうの好きそう」星人になりそうなのでこの辺で...

きめつけが阻む可能性
 短歌は、僕を何人にもしてくれる。短歌の中でなら何にでもなれるし、象にだってなれる。雑煮だってなれる。だからこそ、きめつけられると「お前は所詮この程度だ!!!」と言われてしまっているようで少し悲しくなってしまう。一つ一つの短歌だって、「一つの読み方しかない」よりも「こんな読み方もある」方が何倍も味がある。僕は雑煮のような人間になりたいのだ。
 この間、Twitterでアンケートをとった。「はつきむは男性か、女性か」。500票近い投票の結果は

 ほぼ50-50。友達と死ぬほど笑っていたのだけど、密かに嬉しいことだった。Twitterにいる僕は、きめつけのなされていないまっさらな自分だ、と。
 一人称は自分か私が多かったし、好きな女性歌人さんの影響を受けて始めた短歌はどこか女性的な短歌も多い。性別を感じさせない短歌を評価してくれる声も多かったから、パンの心は温かくなった。

まだ何者でもない自分
 このアンケートは価値あるものになったけど、同時に僕らしさ、は見せられていないともとれる。
 はつきむ、という世界にはまだ親しい人がほとんどいない。中途半端な距離感の人すらいないから、きめつけもされてないのだ。
 短歌で自分を伝えられたら素晴らしいことだし、それに関して「私はこう見える」のきめつけは大歓迎だ。だって、それは「僕に時間を割いて、考えた上での感想」だから。

 ももの芸風も、それに近いのかもしれない。お互いのことを知り、時間を割き、考えに考えた上でのネタ。人を不快にさせないきめつけを1年ぶりに胸に抱き、あえて言う。今年のM1もきっと好きだ、と。

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