今日の可哀想は美味しいか?(2)
祐二が就職活動を始めてから二ヵ月が経った。
気づけば葉桜の季節も去り、窓から見える公園には、紫陽花が咲いていた。花びらの一つ一つが、雨に濡れて、幼げに首を傾げている。
祐二がリクルートスーツを買ったのは、ゴールデンウィークだった。ダブルの裾上げが施された新品のスーツを着て、祐二はハローワークに向かおうとしていた。
「ハロワには、スーツを着て行かなくてもいいんだよ。みんな、ラフな格好で来てるし」
そう教えても、祐二は
「いや、俺はスーツで行きたいんだ。これは生まれ変わった俺の決意なんだよ」
と言って聞かなかった。言葉の端から自信の漲りが感じられた。とはいっても、二回目からは私服で行っていたが。決意はハローワークにでも、置いて来てしまったのだろうか。
それからも祐二は履歴書や自己PRが書けないと、何度か泣きついてきた。その度に就活本で得た、汎用的なアドバイスをして励ます。自己PRセミナーや模擬面接を受けるように勧めると、素直に従ってくれたのは有難かった。
最初に受けた面接は通らなかった。ものの一〇分で終わってしまったらしい。終わった瞬間に落ちたことが分かった、と祐二は落ち込んでいた。
それでも一夜寝たら
「兄ちゃん、今日の飯何?」
と呑気に言う。こういう人間が世の中を回しているのだと思う。気温は上がっていき、紫陽花の花も少しずつ散って地面で乾いていく。
冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注ぐ。前に持っていくと祐二は「サンキュー」と自然にはにかんだ。
「ただいま」
「ただいまー」
「二人ともおかえりー、元気にしてた?さぁ上がって上がって」
屈託のない声に、帰ってきたという実感が沸く。
フローリングの廊下。ビニールクロスの白い壁は最近張替えをしたようだ。靴箱の上には、サインボールと家族写真。季節外れのスノードームが少し浮いていた。
祐二は勢いよく式台に上がり、スリッパも履かずに、上がり框を越えていく。脱ぎっぱなしのスニーカーを、自分のそれと一緒に揃えてから、不変の空気に身を委ねていく。
ダイニングに入ると、テーブルには既にホットプレートが用意されていた。その横には野菜が切られて、堂々と盛り付けられている。
玉ねぎ、キャベツ、ピーマン、椎茸。子どもの頃の祐二はピーマンが苦手だったなと、ふと思い出す。好物のカレーに入れても、ピーマンだけは取り出していたっけ。懐かしい思い出に浸られるのも、この場所ならではの特権だ。
キッチンには、仲島佳美が一人立って、洗い物をしていた。
「なんかやることある?」
「いや、ないよ。テレビでも見てゆっくりしてて」
その言葉の裏の意味なんて想像もしない祐二は、無邪気に喜ぶと、冷蔵庫に向かっていった。扉を開けて、中からビールを取り出す。髭の濃い俳優が、パッケージに描かれていた。
「母ちゃん、これ飲んでいい?」
「もう全く。祐二はこういうことにだけ、目ざといんだから。いいよ。今日は祐二が主役だもんね。ご飯食べられないよう、程々にしときなさい」
いつも何かと祐二に甘めな佳美。この日はいつにも増して甘々な判定だ。祐二は缶を開けて、直接口に持っていく。
テレビでは、大喜利番組の明るいテーマが流れている。
「そういえばアイツは?」
ビールの缶を床に置いた、祐二が訊ねる。
「ああ、父さん?父さんなら今は、町内会の用事で出かけてるよ。それと、父さんのことをアイツって呼ぶのはやめなさい。気の毒でしょ」
「でも、アイツ今まで、兄ちゃんばっかり贔屓してきたじゃん。中退した時も、『もうお前には関わりたくない』みたいな顔してさ。よく思ってないんだよ、俺のこと」
その言い方は、孤独なうら寂しさを纏っていた。
「そんなこと…」
「そんなことない!」
思わず出た声は、佳美の強い声にかき消された。
「そんなことないよ」
深い水の底から掬い上げるような、希求するような、穏やかな声がキッチンに溶けていった。
日が沈んでいく。
もうすぐ夜になる。
来てほしいような、来てほしくないような、拗れた夜が訪れる。
ダイニングに、一年ぶりに家族四人が揃った。仲島康利は、ビールの缶をそのまま開けて、ふんぞり返るように、椅子に座っていた。縞模様のシャツがその強面に不釣り合いで、頭には白髪が、ぽつぽつと浮かんでいる。
時折、祐二を見るが、祐二が見返すと、顔を反らしてしまっていた。
キッチンから佳美がビールを二本持ってやってくる。そのうちの一本を受け取り、蓋を開けてコップに注いだ。黄金色の表面に白い泡がモクモクと浮きだってくる。泡は少しずつ弾けて存在を失っていく。
顔を上げると、もう一つのコップに、共鳴するみたいに、泡が立っていた。
「では、祐二の就職祝いに、乾杯!」
その後に続いて、小さく「乾杯」と呟いたが、二人からは声は聞こえなかった。祐二は口を動かしていたけれど、康利はそれすらもしていない。アルミニウムの缶とガラスのコップが触れた時に、缶にコップの質感が吸収されるような、妙な感覚があった。
ホットプレートに油が引かれる。ビニールが剥がされ、白い筋がきめ細かく入った牛肉が菜箸で取り上げられる。パッケージを見ると一〇〇グラム一〇五〇円と書いてあった。二人暮らしでは手が出せないような高質の牛肉だ。
リビングに快音が広がる。祐二が最初に、焼き目に油がきめ細やかに輝く牛肉に箸を伸ばした。
「美味しい。母ちゃん、これいい肉でしょ。こんな柔らかい肉、食べたことないもん」
「分かる?祐二のために、近江牛頼んだの。なんてったって今日は祐二のお祝いだもんね。まだまだあるから、好きなだけ食べていいよ」
「うわー、ありがとう。本当に美味しい。ほら、兄ちゃんも食べなよ」
ホットプレートに手を伸ばして、一枚掴んでみる。生姜の香るタレをつけて、口の中に運ぶ。火傷するような熱さを上回る油と、濃厚な肉の旨味。掛け値なしの牛肉のインパクト。気づいたら口の中でそれはなくなっていて、残像を逃さないうちに、ビールに手を伸ばした。温かな空間。
そのなかでも康利は一人黙々と食事を続けていた。
用意された牛肉はもうほとんどなく、焦げ目の付いた野菜が、ホットプレートに放置されている。祐二と佳美は歓談を続けていた。
最近出かけた動物園のパンダが可愛かっただの、近くにできたラーメン屋が美味いだの、本当に他愛のない話。祐二が外でもこれくらい喋ることができたのなら、状況は変わっていたのだろうかと、笑った後に考える。
「よく頑張ったな」
言い出したのは康利だった。
照れくさそうにビールを口に運んでいるが、缶からは何も流れ出てきていない。
「いや、何言ってんの。頑張るのはまだこれからだよ。まだスタートラインに立っただけだし、これからが大事なんだから」
「運動会のこと覚えてるか」
「思い出したくもないよ」
「そうか。お前は五〇メートル走でスタート直後に転んだよな。起き上がってみれば相手は遥か遠くだ。でも、お前は最後まで走り切った。膝を擦りむいて、半べそをかきながら最後まで。
俺はそんなお前の姿をみっともないと思って、ビデオカメラを背けた。昼休憩の時も洋一を労う一方で、『なんで転んだんだ』ってお前を責めたよな」
佳美がテレビのスイッチを消した。そして、静寂。
「中学の時も、高校の時も、俺はお前に何もしてあげられなかった。いや、してあげられることはないと決めつけて、逃げていたんだ。
中退した時は、お前のことを恥だと思ったよ。でも、本当に恥ずかしかったのは俺だったんだ。時間が経てば経つほど、逃げてきたことが重みとなって、襲い掛かってきた。
今更後悔しても遅いけれど、それでも謝らせてくれ。すまなかった」
康利が、テーブルに両手をついて、頭を下げた。旋毛の周りには髪の毛がなくて、寂しく頭皮が浮き出ていた。
「いいよ、頭下げなくて」
茶色い壁掛け時計の針は、変わらず時を刻み続けている。
短針が微かに、それでもはっきりと動いた。
「俺、アルコールが入っている時にだけ本音を言う人って、嫌いなんだよね。酔った勢いで言えることなんて、薄っぺらいよ。もっと素面の時に言ってほしかったかな」
康利の眉が下がる。口は情けなく開いていて、目には透明な雫が見える。
「でも、酔っているのは俺も同じか。それに思っていないと、言葉って出てこないしね」
祐二の赤い頬が微かに動く。
「ありがとう」
張り詰めた空気が、解けていく。
「頑張れよ」
「うん、頑張るよ」
二人の声は、過去の思い出で詰まっていて、ぎこちなかった。テレビの液晶画面が二人を何の効果も入れずにただ映している。
窓には淡い水色のカーテンが両脇に寄せられていて、奥に繊月が見えた。小指一本で覆い隠せそうなほど弱弱しい。
しかし、拭っても消えない光を、地表に向けて放っていた。
見上げる人のことを思いやる、優しい光だった。
電車に乗って、アパートに帰る。電車は二十二時過ぎだというのに、座れる席がなく、祐二はだらんと、椅子の仕切りに寄りかかっていた。
部屋の中はじめじめした湿気が充満していて、電気を点けてすぐ、エアコンの除湿機能をオンにする。排気音が喧しかった。
ぐったりしている祐二の肩を持って、部屋までよこす。布団の上で肩から手を放すと、祐二はそのまま花が萎むように横になった。明日から仕事が始まるというのに、飲み過ぎだ。
「おい、せめて部屋着に着替えてから寝ろよ。あと歯磨け。初日で会社の人に、息臭いって思われたら最悪だぞ」
「はーいはい。分っかりましたー」
祐二はトイレに向かって行った。そのまま残って部屋の片づけをしていると、知らない歌が聞こえてきた。酔っていると英語詞は、完全にカタカナだ。
祐二はバンド名がシンプルに描かれたTシャツに、下は黒いスウェットを着て戻ってきた。額が少し赤かった。そのままベッドに向かって行くと、また、すぐに横になった。自分も支度をして、寝ようとドアに手をかける。
「兄ちゃん。俺、明日大丈夫かな」
祐二はこちらを向いていない。
「仕事をこなせるかどうかも不安だし、残業も嫌だなあ。それに会社の人が、怖い人ばっかりだったらどうしよう」
「あのな、皆働く前はそう思うもんなんだよ。お前だけじゃなくて。でも、いざ始まってみれば大概なんとかなるから。仕事の内容とか残業とかは知らないけど、ちゃんと保険にだって入れてくれるんだろ。それに会社の人だって、そんなに怖い人ばっかりじゃないと思うよ」
「そうかなあ。ちょっとのミスで鬼のように叱られない?」
「そりゃあミスしたら叱られるかもしれないな。でも、最初のうちは多少は大目に見てくれるよ。それに、怖い人ばかりだと思うのはお前が怖がっているからじゃないか」
返事はなかった。その代わりに聞こえてきたのは穏やかな寝息。いったいいつから寝ていたのか。少し笑うと、それをスイッチに体の力が抜けていき、強い眠気に襲われた。目をこすりながら確認すると、目覚まし時計はしっかりと七時半に設定されていた。
安心して電気を消し、部屋から出る。見なれたリビングがいつもより広く感じられた。
「兄ちゃん、起きてってば」
体を揺さぶられ、目が覚める。大きく伸びをしようとすると、ソファからずり落ちてしまい、腰が痛んだ。頭が鉛を含んでいるかのように痛い。
それでも体を起こすと、ソファの向こうに、既にスーツを着た祐二が立っていた。初めて着るビジネススーツはまだ不慣れで、スーツに着られているとはこういうことか、と感じた。
「兄ちゃんがこんな時間まで寝ているなんて珍しいね」
「昨日飲んだからな」
スマートフォンをタップする。液晶に表示された時刻に、一気に目が覚める。
「悪い!こんな時間まで寝てて、朝飯作ってやれなくて」
「いいよいいよ、コンビニで何か買って食べるから」
革靴の靴先には光沢が残っていて、踵もすり減っていない。定番の黒いビジネスバックを持って、祐二は重いドアを開けた。
日光は感じられなかったが、セミの鳴き声がうるさかった。
「いきなり飛ばし過ぎると疲れるから程々にな」
「分かってるって」
祐二はこちらを振り向いて微笑んだ。永遠を閉じ込めるかのような柔らかい表情で。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
祐二と交わした最後の言葉だった。
満員電車から押し出されるようにして、駅のホームに降り立つ。
満員電車はこれまでも乗ったことがあったが、スーツ姿だと、今までとは違って見える。他のスーツの人々に憐憫を感じ、「お疲れ様です」と心の中で挨拶をする。そんな同情がすし詰めにされたのが、満員電車というものなのだろう。
これから毎日乗ることを考えると、少し憂鬱な気分になった。
駅の改札口を出て、街へと歩き出す。
面接で来たときにも思ったが、この街の持つ雰囲気は独特だ。ビルが林立しているのは、他の街と大差ない。しかし、色遣いが決定的に違う。赤に緑に紫に、原色が目立つように、ふんだんに使われ、空の青を妨害している。今日は曇っているが、その派手さは変わりない。
さらに、いくつかのビルには巨大ロボットや四頭身の女性キャラクターが描かれている。街はある種の人々を受け入れ、また、ある種の人々を排除するようにできているが、この街はそれが顕著だ。
まだ、自分はこの街に選ばれてはいない。そう考えると背中が縮こまる思いがした。
道行く人々も特徴的だ。
チェックにチノパンというスタイルが多く、さらに外国人も多い。見渡す限りでも、東アジア系、東南アジア系、ヨーロッパ系にアメリカ系と、洋の東西を問わずに来ている印象を受ける。
初めて日本に来て、どこに行ったらいいか分からない外国人にとって、日本のモダンカルチャーが表出したこの街は、うってつけなのだろう。
様々な人生を持った人々と、立て続けざまにすれ違いながら、会社へと向かう。
八月だというのに黒い帽子に、黒いサングラス、そしてマスクをしている男が目の前を歩いてくる。その男は胸にブランド名がピンポイントであしらわれた、長袖の白いシャツを着ていて、肩からポーチをぶら下げていた。すれ違った時に、緊張を感じた。身長はあまり高くなく、顔も地味だというのに、鋭く尖ったような様相があった。
男はズボンのポケットに手を入れたまま、逆方向へ歩いていく。
振り返ることはしなかった。
「うあああああああああああああああああああああ」
耳をつんざくような奇声が聞こえたのは、少し離れてからだった。
思わず後ろを振り向くと、男はナイフを持って立っていた。いや、ただのナイフではない。それは包丁と呼ぶにはあまりに刃が長く、柄にはシンメトリーの凝った装飾がなされていた。非力な男でもちょっと力を込めれば、深くまで刺すことができそうだった。
刃には血が滴っているが、あまり汚れていない。鋭く光る銀色が、突きたてるような危険を感じさせる。
足元には女性が蹲っていた。リクルートスーツに身を包み、控えめなヒールはストラップがついている。顔が地面にうなだれて、小刻みに震え、涙が頬を落ちる。そして、腹部からは赤黒い血が零れ落ちていて、熱されたタイルの網目からどんどん広がっている。
それは見るからに致死量で、誰かが救急車を呼ばなければ手遅れになりそうだった。
男はしばらく呆然とした様子で立っていた。しかし、首を振り目標を見定めると、悲しいほどの叫び声を発して走り出していった。
逃げ惑う人々がまるで魚群のように見えた。
今、彼女の周りには誰もいない。誰かが手当てをしなければ、彼女は助からない。
それなのに、周囲の人々は我関せずと言った表情で、冷たく無干渉を決め込んでいる。スマートフォンを手にして、カメラを彼女に向けているから関心はあるはずなのだが。
気づいたら彼女に駆け寄っていた。
たった三回数字をタップするだけなのに、手が震えて、なかなか電話をかけることができなかった。近くで見た彼女の状況は惨たらしく、傷口からは内臓が見え、血が流れ続けていた。目は既に閉じられている。
そう遠くはない場所で、また悲鳴が聞こえた。
男女が入り混じった、実に生々しい悲鳴だった。
「あの、警察、ですか。今、人が、刺され、ました。×××、です。すぐ、来て、ください」
相手が何を言っていたのかは定かではない。
だが、そんなことはどうでもよかった。今は目の前にいる彼女の処置の方が先だ。
とっさにカバンの中から、薄黄緑のハンカチを取り出して、傷口に当てる。布地はあっという間に赤く染まり、角からひたひたと、どうしようもなく血がこぼれていった。
「大丈夫、ですか!今、警察と、救急車を、呼びました!もう、少しの、辛抱です!だ、大丈夫!きっと、助かります!だから…」
最初に感じたのは鈍い痛みだった。が、すぐに熱さがそれを上回った。体中の血が沸騰しているかのようだ。
音はしなかった。
ザクリとかグサリとかいう音はフィクションだと知った。知りたくはなかった。
顎からアスファルトに着地する。舌を噛んだ痛みが、一瞬熱さを和らげてくれたが、長くは続かなかった。
また、悲鳴が街に谺した。
どこか遠くで鳴っているかのような、夢のような悲鳴だった。
近づいてくる人は、いない。目の前で、駆け寄った人間が刺されたのだから、当然だ。今、二人に近づくことは、自死を意味している。
シャッターを切る音が聞こえた。やけに現実的な音だった。精魂を振り絞って見上げると、いくつものスマートフォンのカメラが、こちらを見ていた。悪意のない眼だったが、神話の怪物が持つ第三の目のように感じられた。いくつもの目によって強く睨まれて動くことができない。せめてもの抵抗で睨み返そうともしたが、そんな余力はどこにもなかった。
視界が霞み、そして途絶える。熱さもいつの間にか消えて、名前のない心地よさだけが、寄り添っていた。
リノリウムの床に、靴音が跳ね返る。スーツの袖が上下にはためく。陰陰滅滅な空気を和らげるために、窓に飾られている人差しの花が、今は苛立つ。べとついたシャツが気持ち悪い。
途中、点滴を差した患者にぶつかりそうになったが、すんでのところで避けた。湿度を持った視線から離れるように、走る。
エレベーターの前で心電計とすれ違う。それは祐二のいる病室の方角からだった。
三〇二号室に飛び込むと、既に康利と佳美がいた。佳美の下瞼はむくんでいて、辿り着いた自分を見ると、顔に手を当てて泣き出した。
康利の下唇には皺が寄っていて、皮膚は垂れ下がり、威厳が剥がされていた。
「洋一…。祐二が…」
涙でかすれた声で、佳美がこぼす。顔を上げられない佳美の肩に、康利の右手が乗る。ごつごつした手が、目に見えないくらいに震えていた。
祐二はベッドに寝ている。朝に見初めたスーツ姿ではなく、薄い水色の病衣を着て。陽だまりの中で寛ぐかのような穏やかな顔をして。
布団を動かして、病衣を丁寧に捲る。肌には傷一つなく、なめらかで、灰色がかっていた。手を伸ばしてみる。傍に手をやると、体温を吸い取られるようで、躊躇ってしまう。不可視の境界を侵して、胸に手を当ててみる。鼓動が止まっていた。ざらざらした感触。死後硬直が始まっている。禁忌に、触れてはいけないものに触れているようで手を放したかったが、祐二の遺体には引力があった。
「祐二ね、背中を三か所も刺されたらしいの。倒れた後にさらに二回。病院に運ばれてきた時には、もう心臓も肺も止まってたんだって。親より先に死んじゃうなんて、そんなのないじゃない…」
佳美がベッドに崩れ落ちる。涙がシーツに染み込み、灰色に変わっていく。
引力に抗い手を放し、病衣を元に戻し、また布団をかける。唇が震えたが、涙は流れなかった。たぶん、心が正常に働いていなかったのだろう。人間としての営みが遮断され、立ち尽くすしかなかった。
どうして祐二だったのか。どうして、無数ともいえる街を行きかう人々の中から祐二が選ばれたのか。きっと誰でもよかったのだろう。狙いを定めた人の後ろに、悲しむ人がいるかなんて想像もしなかったに違いない。
災害にも似た事件。人格を持った人間が起こした、れっきとした事件。残された人間は、消えない鎖に縛られて、生きていく。被害者も遺族も、そして加害者さえも。
解けない様に固く結ばれた鎖に、もがき苦しみながらも、生きていく。
遺体は、二〇時に霊安室に運ばれるとのことだった。今夜は最後のお別れをなさってください、と白い髭を蓄えた老医者が語っていた。
今、病室にいるのは、祐二と佳美だけだ。佳美は、もう五時間も座ったままでいる。洋一も康利も始めは一緒に座っていたのだが、やがていたたまれなくなって、病室の外に出る時間が増えた。言葉が価値を失くした空間に、絶えず人影はあった。
カーキ色の壁が続く廊下。青い看板に白抜き文字の案内表。病室。ランドリー。売店。
ただ眺めていると康利が近づいてきた。康利は壁に寄りかかる。拠りどころを求めるかのように。
「祐二は…」
絞り出すように康利が口を開く。
「祐二は最後なんて言ったか。お前になんて言って会社に行こうとした」
スーツに身を包み、喜色満面な祐二の顔。ドアを開ける後ろ姿。振り向いて、発せられた言葉。
「覚えてない」
今朝のことなのに思い出すことができない。二千年も昔のことのようで、頭が攪乱されていた。覚えておく必要なんてないと。
「そうか。覚えてないか」
康利は下を向いて、表情を固める。
「なあ、俺達はどうやったら許されるんだろうな」
「許されるって何だよ。祐二は死んだ。むしろこっちが許す側だろ。俺は許さないけどな。絶対に」
「いや、祐二を殺したのは俺たちだ。俺たちは祐二を守ってやれなかった。ちゃんと祐二を見てやればこんなことにはならなかった。俺達じゃない。俺が悪いんだ。」
言葉が浮かんでこない。いや、浮かんできてはいる。口に出すことができないのだ。
誤魔化すように上を見やると、抑えめなはずの蛍光灯が眩しかった。
窓には雨が打ち付けている。横殴りの雨がバチバチと音を立てて叩いている。遠慮を知らない雨音が二人を乱暴に包んでいる。
「そろそろ戻ろうか。あと一時間もないからな」
康利が病室に向かって歩き出す。その後ろ姿を見送ることしかできない自分がいる。拳を握り締める。固まった息を吐き、前を向いて後ろ姿を追う。静かな廊下に乾いた靴音が響く。
風もないのに、白い桔梗の花びらがひらりと揺れた。
続く
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