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嘘とエッセイ#3『シークレットトラック』




 CDを発売していない歌手が、紅白歌合戦に出場するようになった。Tiktokで多用され、ミュージックビデオの再生回数は一億回を超えている。日本人なら一人一回は見ている計算だ。

 再生回数が三桁に乗れば万々歳というYoutuberが大半を占めるこの国で、誰もが見ている動画がどれだけあるか。辺境の辺境にいる私のような人間には異次元の話すぎて、もはや羨望すら湧かない。

 そもそも、こんな塵芥みたいな文章を書いておいてなんだが、小説よりも音楽の方が、心理的ハードルが低いのは確かだ。

 目で追わないと内容が入ってこない小説に対し、音楽は再生ボタンを押しさえすれば、勝手に耳に流れ込んでくれる。機械の故障がない限りは。

 クラシックならともかく、JーPOPなら長くても六分。大体の短編よりも、早く終わる。

 それに何より、別の用事を行いながら聴くことができる。皿を洗いながら、掃除機をかけながら、車窓をぼんやり眺めながら。

 小説はその点、一度読み始めれば目と頭が占有されてしまう。紙の本でも電子書籍でもいい。活字を読みながら、皿を洗える人間がいるだろうか。掃除機をかけられる人間がいるだろうか。

 目が三つあれば可能かもしれないけれど、それはもはや人間ではない。天津飯だ。ドラゴンボールの。天津飯が人間なのかという議論は別に譲るとして、少なくとも私たちは活字を追いながら、何かをすることはできない。

 そうだ。私も音楽をやろう。

 こう見えて、中学高校と音楽の成績はいつも四だったし、高校では軽音楽部にも所属していた。ギターとキーボードは実家の押し入れに眠っているし、教則本を開けば、コードの構造ぐらい載っている。

 ディミニッシュコードとか、サーティーンスとか、難解なことは分からなくていい。ベン・E・キングのかの名曲「スタンド・バイ・ミー」だってC、G、Em、Dというセーハのいらない、簡単な四つのコードしか登場しないというではないか。世の中には二つのコードしか登場しない曲だってある。

 それなら私にだってできるかもしれない。シンプルなものこそ難しいという事実は、とりあえず置いておいて。

 また、以前深夜番組で見たが、今はスマートフォンで曲作りができるアプリがあるという。しかも大部分が無料で。

 YMOが打ち込みをメジャーにしてから、もう半世紀が経った。音を打ち込むなんて、現代は誰でもやっている。一音一音的確な音を見つけることは、気の遠くなる作業ではあるが、そこは二〇二一年。解説本が山ほど出ているはずだ。

 スマートフォンに疎く、Bluetoothが未だによく分かっていない私でも、時間と根気さえあれば、なんとかはなるだろう。やる前なら、どんな楽観的な予測も立て放題だ。

 さて、一ヶ月後になるか、一〇年後になるかは分からないが、曲ができた。歌詞も書いた。面倒な過程は全て省略できるのが、文章の良いところである。

 スマートフォンで歌唱を録音して、Youtubeに動画を投稿する。

 まあ再生回数は伸びないだろうし、私はYoutuberではないから、何万再生されたところで、一銭も入らないけれど。

 当然、私は裕福ではない。給料だけだったら年二百万円を切る、ワーキングプアだ。どうしたってお金は欲しい。 毎日ただいまの代わりに、お金ほしいと言っているくらいだ。

 さすがに五千兆円とまでは望まないけれど、才能には正当な対価が支払われてしかるべきだろう。お金は幸せの必要条件だ。

 そこでだ。現在花盛りのサブスクリプションサービスを使おうと思う。定額で音楽が聴き放題というあれだ。

 プロや音楽事務所しか登録できないと思ったら大間違い。実は、素人でも簡単に登録できるサービスがあるらしい。

 いくばくかの登録料を払えば、売り上げが一〇〇%自分のもとへ入ってくるという。所得税もなしに、給料がそのまま入ってくると考えたら、まさに夢そのものだ。開発者はザッカーバーグなみの天才ではないか。

 登録して、三日後には配信開始。曲名で検索すると、しっかり検索結果に表示された。よかった。ちゃんと存在している。

 たとえ、湖を構成する一滴の水にすぎないとしても、ゼロか一かの違いは大きい。

 バズっている曲は山ほどあるし、固定ファンがついている人気ミュージシャンも、どんどんサブスクに曲を解禁しているこのご時世だ。私の曲が買われる可能性なんて、皆無に等しいのだけれど。一週間が経ったのに、動画の再生回数もまだ三〇回ほどしかないし。

 音楽を投稿している自称ミュージシャンだって、SNSで百人ほどフォローした。私は全員の曲を一曲は聴いたけれど、向こうは全然聴いてくれていない。ハングリーさが足りていない。

 お高くとまって、売れる気はあるのだろうか。

 このまま愚痴や文句なら、あと三千字ぐらいは書けそうだけれど、ひとまずは止めておこう。話を戻したい。

 いきなりだけれど、さらに一ヶ月が経った。

 サブスクでの売り上げは、中性子程度と言っておこう。つまり、目には見えていない。

 せっかくさらにもう二曲配信したというのに、どれもこれも空振り三振、バッターアウト。

 今この瞬間にも、爆発的に増えている曲の銀河の中で、私の曲は完全に埋もれてしまっている。検索結果だけが居場所だ。

 こうなると、本当に存在しているのかどうかすら怪しい。Youtubeの動画も、サブスクでの配信も無形だ。触ったり、舐め回したりすることはできない。

 これでは明日私が死んだとして、棺桶に入れられるのは、花とせいぜい卒業アルバムくらいではないか。そんな平凡すぎる末路を、私は辿りたくない。

 だから、私はCDを出すことにした。インディーズバンドがよく作る自主制作CDだ。

 レコードでもカセットテープでもいいのだけれど、やはり私は、CDがまだまだ幅を利かせていた時代の人間である。はじめて手に取ったCDの質感、ジャケット、レジに出した時の高揚を今でも覚えている。

 今、私が公開している曲は三曲。これをCDにするならば、シングルという形になるだろうか。はじめて作った曲を表題曲にして、あとはカップリング曲扱いにしようか。誰も文句は言わないだろう。

 だけれど、私の心に棲むもう一人の自分が、納得いかないとそそのかしている。

 アルバムだ。六曲入りのミニアルバムでいいから、アルバムを作れとたぶらかしている。

 確かに私が知っている大体のバンドは、たいていミニアルバムからスタートしている気がする。

 だったら、私も残り三曲を拵えて、ミニアルバムを作ってやろうじゃないか。

 メロディは一個も浮かんでいないが、心は躍り、頭に妄想をもたらしている。

 一曲目は、私がはじめて書いた曲にしよう。一番自信のある曲を頭に持ってくるのは、セオリー通りだ。

 二曲目はアップテンポで、少し短めの曲が良い。そこからガツンと、三曲目のキラーチューンにつなげる。四曲目と五曲目はミドルテンポで一旦落ち着かせて、最後の六曲目はロックナンバーで盛り上げて終わろう。

 総時間は二〇分程度。ちょっとした隙間に聴くことができる時間だ。

 未知の曲を当てはめて、躍り狂う私の頭。何の形にもなっていないのに、名盤間違いなしとうそぶいている。

 ただ、もうひとつ要素が欲しい。それはジャケットなどの、アートワークだろうか。

 ただ、私は専門のデザイナーではない。また、白地に黒文字と言う飾らない姿が、かえってセンスがあったりするものだ。

 もちろん文字は楷書体で。たまに手書きのミュージシャンがいるけれど、八割はただ読みづらくしているだけだ。私はそんなことはしない。

 しかし、シンプルすぎるのも考え物だ。何か遊び心がほしい。イラストをつけられたらいいのだが、私は絵が上手くないし、絵が描けそうな友人にも心当たりがない。やはり遊び心を出すなら、CDの中になる。

 そうだ。シークレットトラックを入れるのはどうだろう。

 終わりだと思っていたら、まだ続きがあったというサプライズ。アーモンド入りチョコレートの最後の一粒みたいな快感。

 六曲目を聞き終えても、まだCDは回っている。イヤフォンに流れてくる機械音。無音とは違う。サブスクでは味わうことのできない、胸の高鳴りだ。

 間は大体二分から三分といったところだろうか。アコースティック風の新曲でもいい。八〇年代チックな歌謡曲でもいい。のどかなインストでもいいし、コント仕立てでもいい。「輝きを放て」と言うように、力強いメッセージを伝えてもいい。

 実質ルールはないのだから、なんでもありだ。もしかすると、本編以上に個性が出るかもしれない。

 外では整然としている人が、家ではだらしなくジャージを着て寝転ぶように。無能だと思われていた人が、特定の分野に限っては、大きな力を発揮するように。

 本編とは違った一面を見せることで、鑑賞体験をより印象深くできるだろう。

 それに、シークレットトラックは、サブスクで配信しない。Youtubeに投稿もしない。CDのみの特典にする。たとえ、悪魔に魂を売ってでも、私は最後の一線だけは守り抜くだろう。

 CDをはじめて手に取ったときの高揚感を、もっと味わってほしいなんていうのは、時代遅れの戯言だろうか。もはやCDが役目を終えつつある二〇年代に。

 だけれど、私は時代にうまく乗ることができないストレンジャーだ。シークレットトラックは私そのものだ。社会という本編に居場所がなくて、目の届かないところでひっそりと暮らしている。

 聞かれる前に、気づかれる前に、停止ボタンを押されることもあるだろう。短くはない待ち時間にやきもきされることもあるだろう。

 だけれど、私は確かに存在している。正常に動く社会のおまけとしてでも、音を鳴らして、言葉を紡いでいる。

 もしかしたら、本編よりも好きだと言ってくれる人がいるかもしれない。一緒に時代のスピードに取り残されてくれるかもしれない。

 本編にも負けない輝きを放つかもしれない。

 主役にはなれなくても、名脇役になることができたのなら、CDは静かに再生を止めて、私は喜んで呼吸を続けるだろう。

 シークレットトラックは、CDを有形たらしめるかけがえのない欠片なのだ。

 私は考える。アルバム曲よりも、まず先にシークレットトラックを。

 手に取ってくれる人が、一人でもいると信じて。

 停止ボタンを押さずに、最後まで聴いてくれることを期待して。

 二十二、三分後に、秘密の景色が待っていることを願って。



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