今日の可哀想は美味しいか?(1)
覚えていない。
失言をして辞めた大臣。震度四の小さな地震。学校でいじめられていた同級生の名前。
忘れていく。
テレビの中のテロリズム。かつて見た映画の主人公。三日前の晩御飯。
消えない。
あの凄惨な事件。白昼夢のような一瞬の出来事。奪われた未来。
ずっと。
仲島洋一は電気もつけずに、キッチンに一人立っていた。
卵を割って溶かし、玉子焼き機に垂らす。熱されたステンレスに触れた卵は、パチパチと泡を立て、黄色を薄めていく。皿に盛られた玉子焼きからは、柔らかな湯気が立ち上っていた。
キャベツを千切りにしてボウルに入れる。輪切りにしたキュウリに、半分に切ったミニトマト。ただ具材を切って載せただけの簡易的なサラダが、二人の朝の定番メニューだった。
炊飯器が鳴る。少し混ぜて冷ました後に、誇らしげな白米を茶碗によそう。冷蔵庫から昨日のセールでまとめ買いした納豆を出すと、パックの底から細やかな冷たさが伝わってきた。
「祐二ー、起きろー。飯できたぞー」
向かいのドアに話しかけてみるが反応はない。仕方なくドアを開ける。
部屋の中では仲島祐二が布団の中ですやすやと寝息を立てていた。枕元の目覚まし時計は十時にセットされている。
白い布団に手をかけて勢いよく剥がすと、彼はすぐに目を開け、そして屈んだ。誰だって熱を逃がしたくはない。
「うーん…。うわっ。寒っ」
右向きで寝ていた祐二は寝返りを打った。洋一の姿を視界に捉えたようで、目を何度もこすっている。
「さっさと起きてこいよ。早くしないと飯冷めちまうぞ」
「はーい」
リビングに向かって歩く後を、祐二が重たい足取りでついていく。祐二は席に座る前に、壁のスイッチを押して、電気をつけた。無理強いをしない光が、朝の盛り上がらない心にはありがたい。
祐二は、いただきますを言う前に、テレビのリモコンに手を伸ばし、赤い電源ボタンを押した。
『おはようございます。時刻は八時になりました。『あさテレ』のお時間です。最近は寒さも和らいで、コートもいらないくらいの陽気。桜の木にも小さな蕾が見られます。お花見が楽しみですね。さて、今日のラインナップはこちらです。東京では…』
二人は冷め始めた朝食へと向かう。洋一はテーブルに手をかけて、コーヒーブラウンの椅子に座ろうとする。祐二はテーブルの上を軽く見回して、
「兄ちゃん、マヨネーズどこ?」
と何の憂いもなく言った。その言葉があまりにも投げやりで、思わず呆れてしまう。
「冷蔵庫にあんだろ。」
「えー、出すの面倒くさい。兄ちゃん最初から出してくれればよかったのに」
不承不承といった様子で、冷蔵庫へと近づく祐二。銀色の冷蔵庫は、二メートルというその高さ以上に圧迫感を与えてくる。
オレンジ色の光に照らされて、祐二は冷蔵室を見渡すが、目当てのボトルは見当たらない。
「マヨネーズないよ」
豆腐に向かって言う。
「いやあるだろ。三段目の右の奥。ジャムの後ろにない?」
祐二がトーストを食べたいと言って買ってきたはいいものの、二回使っただけで飽きてしまった、イチゴとブルーベリーのジャム。その二つを除けると、楕円形のボトルが姿を現した。
黄色がかった白を手に取り、祐二は冷蔵室の扉を閉める。ジャムの二缶を戻しもせずに。
そのまま先程よりも大きな歩幅でテーブルに戻ると、祐二は赤いキャップを捻った。やがて、キャベツもトマトもキュウリも白に覆いつくされていく。
さらに、祐二は玉子焼きにも絞り口を向ける。
「おい、玉子焼きにかけるなら、小皿に自分の分をよそってそれからかけろよ。お前だけの玉子焼きじゃないんだぞ」
まるで年端もいかない子供に言うかのように注意をする。祐二は、今日は大人しくそのアドバイスに従ってくれるようで、キッチンから真っ白で底の浅い小皿を取り出した。
玉子焼きを小皿にとりわけ、出しすぎなくらいのマヨネーズをかける。
最近かける量がますます増えてきたように思える。
極めつけに祐二は納豆のパックを勢いよく開けて、そこにもマヨネーズをかけ始めた。茶色い粒々が、マヨネーズの黄色がかった白でコーティングされていき、光沢を放っていく様は、異様と呼べるものだった。
毎回の光景だが、その度にゾッとした寒気を覚える。
「なぁ、お前マヨネーズ摂り過ぎじゃないか。今にブクブク太っちまうぞ。油を摂り過ぎると血管が詰まって危険だし、塩分も高いし高血圧になるんじゃないか。ちょっと控えたらどうだ」
キツめに注意する。しかし祐二はその度に、
「いいのいいの。これカロリーハーフだから。塩分もカットされてるし、ちょっとぐらいかけすぎても大丈夫だよ。それにマヨネーズっていうのは、植物由来だからヘルシーだし、なにより食べたいものを食べないで我慢する方が体に毒じゃん。
というか兄ちゃんもマヨネーズかけなよ。納豆マヨネーズ美味しいよ。これを知らないのじゃ人生半分くらい損してるわー」
などと言って気にもかえさない。流石に閉口する。最近では気遣うのも無駄な気がして、まあ自己責任だしと放っておこうと思うくらいだ。
幸せそうに納豆マヨネーズご飯を頬張る祐二を見ながら、玉子焼きを口に運ぶ。砂糖の甘さの中に、どこか酸っぱさが紛れ込んでいる感じがした。
『さあ、ここからは仕事に輝く人々を紹介する『シゴトビト』のコーナーです。本日のゲストは、俳優の神戸昴さんです。よろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
テレビではまだ幼さの残る俳優が、出演する映画の見どころを語っている。男二人の女一人の、三角関係のストーリーらしい。いかにも少女漫画原作といった様子だ。
それでも祐二は無邪気に身を乗り出している。
「うっわ、この人最近ポカリのCMに出てる人じゃん。兄ちゃん知ってる?女の子に『一緒に飲もう』ってポカリ渡してる人だよ。」
「CMは知ってるよ。名前は今日初めて知ったけど」
祐二の調子に押されて、ぎこちない笑いが出た。ご飯をかき込んだら、少しむせてしまった。
「でも、この人CMでは茶髪だったんだよねー。黒にしたのかな。でもやっぱかっこいいわ。なんだろう、もう骨格からして違うよね。神様が隅の隅まで注意して組み上げた感じ。ずるいなあ」
祐二の声には嫉妬が全く含まれていない。
「そうだな。俺たちとは大違いだ。で、お前この映画観に行くの?」
「うーん、どうしようかな。やっぱ男だと少女漫画っていうのは、なかなかハードルが高いものがあるし。難しいよね。でも、ヒロインの女の子も結構可愛いっぽいんだよね。等身大っていうの。クラスにいそうな範囲に収まってる。まあ暇があったら、観に行くよ」
食べ終わった食器を、キッチンの流し台に持っていき水に浸す。蛇口を捻ったら、勢いよく溢れ出た水が陶器の表面に跳ね返って水を少し被ってしまった。
幸い祐二はテレビに夢中なようで助かったが、見られていたらまた茶化されるところだ。
『では、神戸さんが『シゴトビト』として、やりがいを感じる瞬間というのはどのような時でしょうか』
『来ましたね、その質問。いつも『あさテレ』見てますから来ると思ってましたよ。
そうですね…。朝からこんな話していいか分からないんですけど、僕たちって、死んだら無くなってしまうじゃないですか。記憶もいつかは薄れてしまいますし。
でも、作品というのは、死んだ後も残ってくれるんですよ。自分が生きた証を残せるというか。なので、カメラが回っている時でも、そうでない時でも、『ああ自分は今生きている証を残してるんだ。生きているんだ』って。そう思えることがやりがいですね』
八時四十五分。家を出る時間。革靴を履いて玄関に立つ。後ろを振り向くと祐二は、神妙な面持ちでテレビを眺めていた。
口が少し開いていて、微かに震えている。一口が小さくなっていた。
「じゃあ、行ってくるわ。洗い物頼むな。あと、洗濯もん取り込んどいて。隅のバケットに入れてくれればいいから」
祐二はこちらを見ず、うん、とだけ言った。癪に障るというわけではないが、いつもよりそっけない態度に、他人行儀のような距離が感じられる。
ドアを開けて外に出ると、空は視界に収まりきらないほどの水色で、心地よい暖かさが全身を包んだ。雨の心配はなさそうだが、もう十日も降っていないので、寂しい感じもする。
最寄り駅に向かって歩き出すと、大学生が楽しそうに笑いあいながら過ぎていった。
テレビの中の俳優が、したり顔で人生論を語っている。
朝食を食べ終え、キッチンに食器を持っていく。水に浸すだけで洗いはしない。
外から聞こえてくる大学生の笑い声が、窓を通り抜けて部屋に響く。
リモコンを手に取って、再び赤いボタンを押す。物言わなくなったテレビ画面には、灰色のスウェットが映っていた。
黒いカーボンのケースに入ったスマートフォンを持って、再び自分の部屋に戻る。
誰もいなくなったリビングで、蛍光灯だけが瞬きを続ける。
「おい、仲島。ちょっとこっち来い」
窓に背を向ける席から、宮本正好の低い声がした。髪を触りながら、窓の前の席に向かう。
やや背を屈めながら、どうしましたか、と尋ねると、宮本は眉を少し上げ、紙の右下を指さした。
「お前が昨日出した見積りだけど、ここの数字が違ってるぞ。これだと桁が一つ少ないんだ」
確かに、取引先から提示された額とは乖離している。昨日、退社間際に慌てて仕上げたのが、いけなかったのか。
「とりあえず、直した見積りを午前中に出す。そうすればまだ間に合うから。新規の案件もあるだろうけど、一番に手をつけてくれよ」
眼鏡の奥の宮本の目は笑ってはいなかった。
「はい、分かりました。早めに終わらせます」
明るく取り繕った返事をして、ゆっくりと席に戻る。
ストライプのネクタイをした同僚が目を細めながら、こちらを横目で見ていた。視線を向けると彼女は顔を背けて、マグカップを持ち、自分の席に戻っていった。
コンピューターの電源を入れる。青と水色のグラデーションに曲線が波打つログイン画面。パスワードを入力して、一日を再起動する。
「でさー、レッツ滝行の福森がグラドルの砂田ひかりを口説いたらしいんだよ。確かに砂田はおっぱいもでかいし、いい女だとは思うけど、そこいくかって感じだよねー」
祐二からの、どうでもいいとしか思えない話に曖昧に頷く。テレビが疎かに瞬いている。映っているのは、量産型のトークバラエティ。ひな壇から太った白いシャツの芸人が、ガヤを飛ばしていた。
食器を洗おう。椅子から立ち上がってキッチンへと移動する。
その間も祐二は胡坐をかきながら床に座って、楽しそうに喋っていた。
「ていうか、兄ちゃんレタキ知ってる?去年、M-1で準決勝まで行ってたんだけど。敗者復活戦は惜しかったよなあ」
スポンジに洗剤を含ませて皿を洗う。泡がみるみるうちにオレンジに変わっていく。
「お前、どこからそういう情報仕入れてるの?まさか一日中動画見てたんじゃないだろうな」
キッチンから声を投げかける。
「だって、他にすることないんだもん」
祐二はあけすけにそう言った。何の含意もないその台詞に、体の力が抜ける。
食器の水を切ってトレーに置く。プラスティックに水がポツリとこぼれた。
「なあ、お前いつまでここにいるつもりだよ。大学を中退してからもう二年も経つじゃないか。周りは必死に就活しているのに、お前は一日中動画ばっかり見て」
テーブルの上のリモコンを手に取り、テレビを消す。鈍重な空気が立ち込める。
「何?俺が邪魔だっていうの?」
祐二がこちらを睨みつける。迫力はあまりない。
「いや、別に邪魔なわけではないんだけど。そろそろ働いてもらわないと困るんだよ。俺もまだ二年目だし、そんなに手取り多いわけじゃないから。母さんから月三万仕送りを貰ってるとはいえ、なかなかに厳しいからさ」
「しょうがないじゃん、まだやりたいことが見つからないんだからさー。俺はやるときはやる男なの。今はやりたいことを探している段階。充電期間だよ」
こういうことを悪びれもせずに言えるのが、祐二が祐二である理由である。
「じゃあ、お前いつも動画見てんだから、Youtuberになればいいじゃん。動画さえアップしていれば、好きな時間に起きれるし、好きな時間に寝れるだろ。それで広告収入も入ってくるし、いいこと尽くめじゃないか」
「うーん、Youtuberはパス。だって、機材買うのにお金かかるし、編集も時間かかるし。それに毎日コツコツ上げなきゃいけないでしょ。正直、面倒くさいんだよね。広告も一万再生とかでやっとお金になるみたいだし。見るだけでいいよ」
祐二は立ち上がって、再びテレビのリモコンに、手を伸ばした。嫌いな食べ物を最後に残す小学生みたいに、苦い顔をしながら。テレビの画面には、天気予報が流れている。明日は午後から雨が降るらしい。
漫画がぎっしり詰まった、黄緑色の棚に近づく。棚の上は郵便の一時保管所になっている。今日届いた郵便物の中から、茶封筒を一通取り出す。
「え、何この封筒?」
「母さんからの郵便」
そこには華奢な字で、アパートの住所と「仲島祐二様」と宛名が書かれていた。もちろん裏に描かれているのは実家の住所だ。電車で二駅しか離れていない実家の。
それを目にして、祐二の口角は下がった。
「えー、また母ちゃんからー。もうなんだか分かるよ」
祐二がこちらを見る。口を閉ざす。
「分かったよ。開ければいいんでしょ。開ければ」
糊付けされた先端部分を、祐二が爪を立てて剥がす。中から三重に折り重なった、白い紙が見えた。
「ほら、やっぱり求人票だよ。俺、こんなデスクワークの仕事興味ないっていうのによー。しかも契約社員で、給料十六万くらいじゃん。こんな薄給じゃやってらんねえよ」
「俺の給料もあまり変わらないけどな」
「あ、ごめん」
蛍光灯が点滅する。
「それはともかく、母さんはお前を心配して、送ってくれてるんだ。そろそろ働いたらどうかって、気が気じゃないんだよ」
「いや、それは分かるんだけど、やりたくない仕事を、無理してやりたいとは思わないんだよなー」
ドラマの中の役者がぎこちなく笑う。暗い夜のシーンだった。
「いいか。お前は母さんだけじゃなくて、父さんにも心配かけてるんだぞ。父さんだってお前のことを…」
「アイツは関係ないだろ!」
語気が強くなった。時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。吐き捨てるかのように、続けられる。
「アイツは俺が中退する時にも、『勝手にしろ』としか言わなかったんだぜ。そもそもアイツが可愛がってたのは、兄ちゃんだけじゃないかよ。アイツは俺なんて、どうだっていいんだよ」
返す言葉が見当たらなかった。父親が自分を偏愛しているのは、自分でも強く感じていたから。褒められる自分に向けられる祐二の視線は、いつだって痛かった。褒められたくなくて、わざとテストの点数を落としたりもした。あまり効果はなかったが。
祐二は自らの部屋に向かって歩き出し、何も言わずにドアを閉めた。何の音もしなくなった部屋。本棚の上のテディベアの黒い瞳に、自分の姿が映る。青と黒のチェックが、不気味に歪んでいた。
蔦の巻き付いた石垣。ひどく規則的な踏切の音。淡い黄色に塗られた電車が、線路脇を走る赤い自転車を追い抜いていく。
座席は全て埋まっていて、電車の中で洋一と祐二の二人は吊り革を持って立っていた。白髪の混じった老婦人が文庫本を読んでいる。
顔を上げると目の前には藍色の海が見えた。
言い出したのは祐二だった。
急に「海に行きたいんだけど」と、歯を磨いている洋一に話しかけてきたのだ。
どうやら例の俳優が出演した映画に、海でのシーンがあったようだ。舞台は少し寂れたところのある港町で、主人公とヒロインとライバルの三人は、事あるごとに海に行っていたらしい。夕陽が翳る中、主人公がヒロインに告白をしたラストシーンが、とにかく綺麗だったと、祐二は興奮気味に語っていた。
喧嘩したことなどまるでなかったかのように。
電車のドアが、軽やかなベルの音とともに開く。ホームに降り立ってみると、潮の抜けるような匂いが、鼻腔に飛び込んできた。頬に当たる風も、どこか湿っぽくて嫌いではない。
ただ、祐二は海の気配を味わうこともなく、改札口の側にいて、「早くしてよ」とこちらを急かしている。
駅前の道路を青い車が横切っていく。
駅を出て、砂がぽつぽつと浮かぶ階段を降りると砂浜に出た。少し灰色がかっていている砂浜に、ピンクのサンダルが落ちて砂を被っている。
四月の海には家族連れも、ナンパにしか興味がないような空っぽの連中もいない。いるのはサーファーが数人。それも年季の入ったベテランだけ。脇腹に灰色の曲線が入った黒いウェットスーツを着て、波をかき分けている。
二人は、そのまま砂浜に腰を下ろした。重みでゆっくりと砂が沈んでいく。
波の音だけが、静かに響いている。
「海っていいよね。こうでっかくてさ。些細な悩み事なんて、どうでもよくなってくるよ」
「そうだな。落ち着くな」
「特に波の音がいいよね。癒されるよ。そうだ、兄ちゃん。どうして波の音を聞いてると、癒されるか知ってる?」
祐二は得意そうに顎を少し上げている。
「1/fのゆらぎだろ。人間に心地のいい揺らぎが、波の音には含まれてるんだって」
「えー、なんで知ってるの?自慢しようと思ったのに」
「職場にヒーリングミュージックばっかり聴いている人がいて、その人から聞いたんだよ。お前だってどうせ映画で知ったんだろ?」
祐二は分かりやすく目を反らす。こめかみから汗が一粒滴り落ちていた。
「まあ、それはともかく。俺は、兄ちゃんにリラックスしてほしくて、ここに来たんだよ。ほら、兄ちゃんいつも仕事大変そうじゃん?たまには、寛げる時間だって必要だよ。糸だって張りつめてたら、いつか切れちゃうでしょ」
「いつも寛いでいるお前に言われたくないけどな」
どれくらい時間が経ったのだろう。ホームに電車が入ってくる音が何度も繰り返された。人々のざわめきも少ない。空は相変わらず厚い雲に覆われている。
「そろそろ帰るか」
立ち上がって祐二に話しかける。反応はない。
「寒くなってきたし、雨も降り出しそう」
実際、雲は憑りつかれたぐらいの灰色を垂らしていて、雨が降らないのが、不思議なほどだった。
「俺はまだいるよ。夕日を見に来たんだ。見なきゃ帰れない」
「夕日なんて見えるはずないだろ。こんなに曇ってんだぜ。それが掃除機をかけたみたいに晴れるとでも思ってるのか。今日の天気予報だって一日中曇りの予報だったし…」
「信じないんだ」
その言葉があまりにも唐突で、え、と聞き返す。
「晴れる、って信じないんだ」
「だってこんなに曇っていて、あと一時間かそこらで、急に晴れるわけないだろ」
「誰が決めたのそんなこと。これから風がとても強く吹いて、この雲を吹き飛ばしてくれるかもしれないじゃん。そして、オレンジを濃くした太陽が、水平線に沈んでいくんだ。藍色が塗り替えられて、綺麗なんだろうな。帰りたければ帰れば。俺は残るよ」
その言葉通り、祐二は胡坐をかいたまま動こうとせず、視線は水平線の彼方を見つめていた。揺るぎのない表情を持って。
ここで祐二を置いて帰ったならば、心の片隅が、締め付けられるように痛むだろう。兄としてそれはできない。どこか寂しげなその横顔を見ながら、もう一度砂浜に座り直す。
顔を上げると海猫が二羽飛び去っていくのが見えた。
結局、夕日は見られなかった。霧よりも濃い雲に覆われて、光の一筋さえ差さなかった。
頭にまで靄がかかってしまったかのように感じる。地球に果てはなくて、遥か上空の飛行機は、今日も見えない壁にぶつかっているのだろうか。
サーファーはもう引き上げていて、世界には二人しかいなかった。
「俺って何なんだろうな」
祐二が小さく呟いた。わざと聞こえる音量で。
「ねぇ、兄ちゃん。俺がいなくなったら、悲しい?」
「そりゃ、悲しいに決まってんだろ」
祐二は、顔をこちらに向ける。見上げる瞳は黒い。
「うん、そうだよね。でも、世界はそうじゃないんだ。俺がいなくなって悲しんでくれるのなんて、アイツと母さん、それに兄ちゃん。じいちゃんに、あとは高校時代の友達が数人と…。ミキはどうだろう。あいつも今頃は、新しい男でも作ってんのかな」
「急にどうしたんだよ。そんな悲観的なこと言いだして」
「海を見て思ったんだ。『ああ俺って小っちゃな存在だな』って。
俺みたいなのがいなくなっても、地球の自転は止まらないし、波は相変わらず打ち続ける。夏にはこの砂浜も賑わって、黄色い声が飛び交うんだよな。
俺はこの世界に一体何を残せるんだろう。死んで、焼かれて、骨になって、墓に収まって。きっと、地上には何も残らないんだろうな」
何も言えなかった。言えるはずがなかった。
自分もそう変わらないことを、心のどこかで知っていたから。
「テレビで、神戸が『自分は今生きている証を残してる』って、言ってたじゃん。
俺が生きている証なんて、どこにもないんだよ。卒業アルバムに写っているのは、『仲島祐二』であって俺じゃない。あんなのは虚像だよ。
今だって、一日中家にいて動画見て。クソみたいじゃん。生きているのか死んでるのか分からないよ」
「そんなことねぇよ!」
波の音が聞こえなくなった。吹く風にも感触がない。
「お前は生きてる!誰も悲しんでくれない?生きている証がない?それがどうしたって言うんだ!
お前と過ごした記憶は、俺の中にちゃんとある!お前が死んだら、俺が泣いてやるよ!流れる涙の一粒一粒がお前の生きた証だ!だから、お前は一人じゃないんだよ!」
言い切った後、吐く息は荒かった。立て直そうと息を吸うごとに、潮の香りが、より強烈に感じられた。
「うん、ありがとう。俺、働いてみようかと思うんだ。どんな仕事だっていい。向いてないことだって、頑張ってみる。人との関わりを、増やしていこうと思うんだ。自分が生きた証を多くの人に残せるように。
今日は付き合ってくれて、ありがとね。さ、行こう。もう電車来ちゃうよ」
祐二は立ち上がり、駅に向かって歩き始めた。途中、振り返って、立ち止まっているこちらに手を振る。カーディガンの裾が、少しだけ揺れていた。
海へまとまらない言葉を投げかけて、祐二の元へ歩いていく。波が静かにさざめいている。星空も今日は見えない。
電車が二人を乗せて動き出す。動かない水平線が二人の時を、確かに留めていた。
続く
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