今日の可哀想は美味しいか?(3)
「ねぇねぇ、マイ。今月のGENGAR買った?」
「そりゃ買いましたとも。今月の表紙は、香耶ちゃんだからね。ほら、前までドラマに出てたじゃん」
「えー、いいなー。私、今月ピンチだから買えてないわー」
「八〇〇円の雑誌が買えないって…。あんたどんだけ金ないのよ」
「いいでしょ。そんなこと。で、どうだったのよ。今月のGENGAR」
「ふふ、実は今日持ってきてるんだー。一緒に見よ」
「本当!?マジありがと。やっぱ、持つべきものは友達だわ」
木目調のパネルに彩られた壁。カウンターにはコーヒー豆が透明なボックスに入って飾られている。緑のエプロンを着た店員がレジの向こうで忙しそうに動き回っていた。
「え、なにこれやばっ。超かっこいいんですけど」
ページの中のモデルは、黒いカットソーを着ていた。露出された肩から、きめの細かい肌が見える。パンツもヒールも黒で固めていて、白のバッグが際立っていた。
「うん、香耶ちゃんいいよね。スタイルが良くて何着ても似合うもん」
「『私は、私らしく生きる』だって。え、マジヤバい。私も、こんなスタイルのいい女に生まれてかったなぁ」
「でも、サナけっこうかわいくない?この前だって、駅前歩いてたらナンパされてたし」
「いやいや、私なんて大したことないですよ。本当、その辺の石ころみたいな存在です」
「うん、そうだね」
「いや、そこは否定してよー!恥ずかしいじゃん!」
二人は顔を見合わせて笑う。テーブルの一席から混じりけのない笑い声が発信される。失礼します、と店員が言って、二人の前にカップを置いた。
二人は、詳細の掴めない長い名前の飲料を口にしながら、ファッション雑誌に目を通す。カフェは全席が埋まって、レジには十人ほどの列ができていた。
スマートフォンを見やる。時刻は十一時三〇分になっていた。
「ていうか、そろそろ時間じゃない?」
「え、うそ?もうそんな時間」
「うん、そろそろ出かけないと十二時に間に合わないよ」
飲み終わったカップをもって席を立つ。カップを捨てて外に出ると、空は残酷なくらいに晴れ渡っていて、遠くに入道雲が浮かび上がるのが見えた。
駅から斎場へは五分もなかった。コンビニエンスストアの角を曲がると、視界が一気に開けて、直線的なデザインの建物が見えた。式場のある二階の廊下の壁は、ガラス張りになっていて、外からでも中の様子をある程度窺うことができる。
「へー、最近の葬式場ってこんななってるんだ」
「なんか思ったよりもずっと明るいね。開放感ある。ここでならいいお別れができそう」
「でもさ、めちゃくちゃ人いない?」
二人は斎場に向かって歩く途中、何人かに追い越されていた。
喪服にスーツ、モノトーンのティシャツに黒いスキニー。ネイビーのトップスにポンチスカート。黒だけでもこれだけの種類があるのかと驚かされる。日光を吸収して見るからに蒸していそうで、若干の気持ちの悪さも感じられた。
案内状を持っていない人間は外で待機するしかない。タイルが張られた広い歩道は半分ほどまで埋まっていて、入り口はもう見えない。車道との間には白黒のカラーコーンとバーが置かれていた。こんなところまで葬式仕様だ。
あちらこちらから数珠の擦れる音が聞こえる。こんな乾いた音で本当に成仏なんてできるのか。そう考える麻衣佳の頭は直射日光を浴びて、熱く火照っていた。
ふと上を見ると、喪服を着た人影がこちらを見ていた。ポケットに手を入れて、ぼさぼさの髪の毛を垂れ下げて、動きを止めている。
「本当、悲しいよね。今まで普通に暮らしてきた人が突然命を奪われるなんて」
「今日も今日が当たり前に続く喜びを奪われたってことだもんね。気の毒」
「でも、こうしてたくさんの人がさ、葬式に来て悼んでるんだから、天国で頷いてくれてるんじゃないかな」
「そうだね。私たちの気持ちは届いてるよ。きっと」
取って付けられた哀悼を捧げる二人を、その周りの同類たちを、盛夏の太陽は強く、容赦なく照らしている。
ざわめきを裂くような長いクラクションが鳴った。気配を察知して、人々の群れは車道へと動き出す。入り込める隙間がないくらい人々が押し合っていて、耳を塞ぎたくなるような強い言葉も飛び交っている。
聞こえるのはシャッター音のオーケストラ。確認してみると、スマートフォンの画面は大部分を黒い頭が占めていた。上部にわずかに白のワンボックスカーが見切れている。
霊柩車ってもっと大々的な装飾がなされてるんじゃないの、と早苗は一人不思議がっていた。
霊柩車が出発した途端、顔のない人々が移動していく。糸に操られているかのように、一斉に同じ方向を目指して。
白のカラーコーンは倒され、バーは踏みつけられる。クラクションの音が喧しい。
ワイシャツを着てカメラを持った男が、逃げるように道端に避けていた。
「大事だな、これは」
宮本がガラスの壁の前に近づいてきた。不惑を越えた彼は、喪服を自分のものとして、着こなしている。
「課長。来てくれたんですね。昨日に続いてありがとうございます」
「まあ大人としてな。この度は誠にご愁傷様です」
宮本は下に目をやる。
「いや、しかし凄い人数だな。千人はいるんじゃないのか」
「この人たち何しに来たんですかね」
「そりゃあ、故人を偲びに来たんだろう。とてもそんな風には思えないけどな」
ガラス越しでも聞こえてくるシャッター音と罵る声。反吐が出そうだ。
「どうしてこんなに人が来てるか、知ってるか」
「いえ、そこまでは」
宮本は左のポケットから、スマートフォンを取り出した。覗き込むと水色が眩しい。宮本は画面をこちらに向けた。
ヒロ@hirohiro485
【拡散希望】
先日の無差別殺傷事件の被害者の一人、仲島祐二さんの葬儀が以下の日程で執り行われます。
8月3日12:00~
××区××台××―××―×
二ツ木セレモニーホール 紅梅の間
私たちにできることは故人を偲ぶこと。多くの人が見送ることで祐二さんも救われると思います。一緒に冥福を祈りましょう
3.5万件のリツイート 5.2万件のいいね
「何ですか、これ」
「SNSの投稿だよ。三.五万リツイートということは、どう少なく見積もってもその三倍。十万人以上が見てるだろうな」
遠くに目をやると、まだまだ人が増えていく様子が見えた。喪服はおろか黒い服すら来ていない輩が大半だ。
「誰が漏らしたんですか。これ」
「さあな。ただ言えることは、こいつらの大部分はこの投稿を見て集まってきたってことだ」
傍で腕を組む宮本に反して、自分の腕は、手錠で繋がれたかのように上がらない。
「こいつらが本当に、祐二さんを偲びに来てくれたら、よかったのにな」
刺のある言葉を吐き捨て、宮本は去っていった。頭の中でその言葉が大きさを増していく。
下でスマートフォンを構えている奴らは、もし祐二が老衰で死んでも来てくれただろうか。
こいつらは捕食者だ。悲しみの外側だけを食い物にして、内臓には目もくれず去っていく。一過性の悲嘆を捧げることで生きている、薄ら笑いが張り付いた生命体。
細胞の一つ一つが、酸素を求めて、もがいている。
斎場の自動ドアを出ると、間髪入れずにフラッシュが浴びせられた。
目まぐるしい閃光に思わず顔を手で覆う。指の間から覗き見るカメラマン、記者、レポーターはスーツを着ている人もいれば、よれよれのシャツに穴の開いたジーンズもいる。
右を見ると、霊柩車に乗って火葬場に向かった康利の代わりに、佳美が取材を受けていた。これほどのカメラとマイク、レコーダーに囲まれる経験は彼女の五十五年の人生で初めてに違いない。
「息子さんはどんな方でしたか」
「息子さんに今なんと言いたいですか」
「加害者のことはどう思いますか」
容赦なく浴びせかけられる質問の数々。
佳美が泣いていたのは祐二を思ってだけではなく、数多の興味が、自分に向けられている恐怖もあったのだろう。
「祐二はとても優しい子でした。困っている人を見かけたら、放っておいてはいられない、人のいい子でした。どうして祐二だったのかと、やりきれない気持ちでいっぱいです。
祐二の、私たちの未来を奪った加害者は、決して許すことはできません。刑務所の中で、一生罪を償ってほしいと思います」
記者たちがまさに欲してそうな、お誂え向きのコメントを佳美はしていた。駆け寄って手を引いて、好奇の目から引き離したくなる。
ただ、すぐに自分の元にも、使命感の覆面を被った者たちが押し寄せてきた。後方のドア以外の三方を囲まれて逃げ場がない。
「仲島祐二さんのお兄さんの、仲島洋一さんですよね」
「はい、そうですけど」
「私、××テレビの浅木と申します。この度は本当にご愁傷様でした」
そう名乗ったのは、スーツに身を包んだ女性。くっきりとした目鼻立ちは美人だが、どこか機械的な印象も与える。
左耳につけられたピアスが、日光を反射して目映く光っていた。
「では、いくつか質問をさせていただきたいと思います。まず、祐二さんは洋一さんから見て、どのような方でしたか」
「そうですね…。祐二はいい奴で、いつも明るく振舞っていました。その明るさに、今までどれだけ救われたか分かりません。なぜ祐二が、死ななければならなかったのか。今でも受け入れられないです」
下を向くとカメラのフラッシュが一斉に焚かれた。無機質な音が鼓膜に響く。奥のカメラマンが満足そうに頷いている。
「いや、違います。あいつはどうしようもない奴でした。働かないわ、家事は手伝わないわ、ずっと家で動画を見ているような情けない人間でした。ただ一人の兄弟とはいえ、心の底から好きと思えたかどうかは、正直自信がないです」
真摯な顔を取り繕っていた記者たちも、顔を見合わせている。
「ってこんなことなんて、あなたたちにとってはどうでもいいですよね。あなたたちが欲しいのは『無差別事件の被害者・仲島祐二』であって、『人間・仲島祐二』ではないですもんね。祐二のことを実像のない人形としてしか見ていないんじゃないですか。
生きていても何も報道しないで、死んでから初めて報道する。『死』はただのコンテンツですか。あなた方の料理の一材料ですか」
ひりつくような空気が、温度を失っていくのを感じた。それでも、レコーダーは無慈悲に向けられている。
「今こうやって私のことを撮っているのも、泣いている顔が欲しいからですよね。沈痛な面持ちが見たいんですよね。遺族が泣いている画が、人々の同情を誘うから、欲しいんですよね。
そうやってニュースやワイドショーで消費するネタにするんじゃないですか。表面だけ悲しみを浮かべて、知ったような顔をしたコメンテーターの餌にしたいんですよね」
佳美の取材は終わったようで報道陣の数はさらに増えていた。水晶体のない目がこちらを睨みつける。反発するように言葉は強くなる。
「報道されるのだって加害者のことばかりじゃないですか。どういう凶器を使ったとか、生い立ちはどうだとか。被害者のことなんて目もくれない。そうやって『殺された』という事実は消費されて、色味を失って捨てられていく。被害者にだって人生があったんですよ。あなた方が目を向けもしないところで、確かに生きていたんです」
「だからこうやって取材してるんじゃないか」
奥から反論する声がした。人の合間から皺だらけのシャツと、色の褪せたジーンズが見えた。年季の入ったボイスレコーダーを、片手に持っている。
「そうですね。メディアの情報を伝える力には、私も助けられてきました。ただ、あなたのその恰好は何ですか。これから近くの酒屋にでも行くんですか。
あなたに話すほど、祐二の過ごした人生は安くないです。あなたのような方に消費されるくらいなら、私は祐二の人生を話しません」
隣にいるレポーターは固まっていて目をキョロキョロさせていたが、申し訳なさは微塵も感じなかった。
もはや、許し難い敵のようにしか見えない。
「今回、祐二のことは報道しないでください。母のインタビューも、私のインタビューも使わないでください。祐二を悼むのは、私たち家族と限られた知人だけで十分です。他の見ず知らずの人間にまで、仮初めの同情を向けられたくはないので。どうかお願いします」
頭を下げずに真正面を向いて言う。レポーターが遠慮がちに、ありがとうございました、と言ってから質問をする者はいなかった。
なんだよ、偉そうにしやがって、という声。聞こえるようになされた舌打ち。報道陣は蜘蛛の子を散らすように引いていった。
集ってきた人の形をしたものを避けるように端を通りながら、道路に止めてあるマイクロバスに向かう。
遠くで蝉の声が止めどなく鳴っていた。飛びぬけて純真な音だった。
輪郭のない空間に、静けさが溢れている。テレビも冷蔵庫も給湯器も黙って、地蔵のように鎮座している。色彩もなく、滞留するのは暗闇と、床に落ちた漫画雑誌のみ。
微小な音とともに、空間は彩度を取り返し、しじまは剥ぎ取られた。部屋を構成する全ての要素が頭を垂れ、彼にかしづく。彼の思い通りになる時間と空間。
何をするかは、彼とテレビの奥だけが知っている。
彼は膨らんだコンビニエンスストアの袋を、テーブルに置いた。一部分が角張っていて、取り出すと、袋の内側に小さな傷がついた。赤いフィルムを剥ぎ取ると、細々とした気泡が迎える。敏感になった彼の手先が、四方の道筋をスロウになぞる。
蜜月を保っていた両者が、抗えない力によって分かたれる。顔を表したのは、栗皮色の従者たち。梔子色の手足が互いを離すまいと、強く結ばれている。
淡黄の木棒を突き刺し、力の限り揺り動かすと、手足が無数に生えて、結びつきはさらに強固になった。
欲望の捌け口を、粘性の軍隊に向ける。圧迫すると、堪えきれずに弾性を持った液体が押し出され、盾で防ぎきれない攻撃に、形勢が変化していく。侵略を行うのは神である彼の手。定められた蹂躙を進めていくと、両者は融和したのか、透き通る膜が鎧のように、一人一人を覆った。
彼は、介入する権利を右手に握ったまま、動きを止めた。目の前の異体を見つめる。川底に生える苔を触った時のような、芋虫を石で潰した瞬間の臭いのような気持ち悪さ。しばらく朧げな瞳で凝視していると、今日の光景が彼の頭に飛来した。
歩道に殺到してスマートフォンを構える羽虫たち。一歩出た瞬間に我先にと取り囲む烏の群れ。暴発した自分の憤怒。
どれもが厭らしく、唾を吐きかけたくなる。一年草のように黒々とした思いが育っていく。
嫌悪。
解体して、差し出すことができたなら。
手の中で、薄ら笑いが折られていった。ささくれた断面が、不可逆を告げている。冷ややかな金属板が開けられて、投げやりに閉められた。
対象のない束縛が残穢のように留まっている。テーブルには彼らの残骸が虚しく、懐かしい記憶が漂っていた。
高い天井に機械音が漏れている。人々の話し声。赤い値引きシール。煌々と光り続ける白熱灯。入って左奥。数多の主張が誰に聞かれるでもなく、広がりを求めている。
『では、次のニュースです。昨日午後十二時、先の無差別殺傷事件で亡くなられた被害者の告別式が営まれました』
『やりきれないですよね。どんな言葉をかけたらいいか』
『祐二はとても優しい子でした。どうして祐二だったのかとやりきれない気持ちでいっぱいです』
『では、次のニュースです。本日の国会で…』
液晶は変わらぬ調子で、乾いた悲喜劇を上演している。足を止める者はいない。
「おい、仲島。お前にお客さんが来てるぞ」
宮本が電話を置いて言った。
心当たりといえば、あの葬儀業者。告別式の情報が漏洩したお詫びにやってきたのだろうか。当然、気乗りはしない。許すつもりもないのに、深々と頭を下げられても迷惑なだけだ。でも、ここで行かなかったら、あの葬儀業者は一時間でも二時間でも待つに違いない。それはそれで気が引ける。
階段を下りて、猫の額ほどのロビーで佇んでいたのは、若い女性だった。
アイラインが二重に引かれていて、チークも存在感を放っている。口紅もピンクが強調されていて、小柄な見た目よりも大きく見えた。葬儀会社の落ち着いた雰囲気の、子供が二人いると言っていた、女性スタッフとは似ても似つかない。
「すいません」
記憶の中の女性像を虱潰しにしている途中に、彼女が話しかけてきて思考は中断された。
「仲島洋一さんですよね?」
はい、としか答えることができなかった。
「この度はご愁傷様でした」
彼女が由々しく頭を下げた。銀色のヘアクリップが揺れる。
「あの。初めまして、ですよね。本日はどうなされたんですか」
真っすぐ顔を見ようとすると、大きな瞳に吸い込まれそうな気がして、思わず目を反らす。夏の熱気に、行き場を失くした沈黙が混ざり、首筋に汗が滴る。
彼女はタイルの壁を、その向こうの青空を思い浮かべるように、見つめていた。
「今日も暑いですね」
「あ、はい、確かに暑いですね。最高気温は三十六度でしたっけ。早く涼しくなってほしいですよね」
電車の通り過ぎる音が二人の中を通過していく。
「友里も連れてきてあげたかったな。でも、今の友里には太陽の光は眩しすぎるか。目を細めて、手を額に当てて。日傘も差してあげたいな」
「友里さんというのは…」
彼女の黒目の明度が一段階下がった、ような気がした。
「友里は私の妹です。私は春日侑希といいます。仲島さん、この度は妹が大変お世話になりました」
「言っている意味が…」
「先日の無差別殺傷事件。友里は最初に刺されました。腹部から血が大量に流れ出て、あと三〇秒遅ければ助からなかっただろう、って病院の先生に言われたんです。通報してくれた人のおかげだよ、とも」
「それってもしかして…」
「通報してくれた人の名前を知ったのは、翌日のニュースでした。心のある方が友里に駆け寄ってくれた。おかげで友里は助かったんです。感謝してもしきれません。
でも、助けてくれた方が亡くなったのを知ったのも、そのニュースでした。ショックでした。友里が助かったのに、祐二さんは助からなかった。神様なんていないんだ、と思いました」
「あの、友里さんは今どうされてるんですか」
恐る恐る聞いてみる。返ってくる言葉は分かっていても。
「手術を終えて療養した後、一昨日退院しました。出血は酷かったものの、傷は幸いにして浅かったようです。車椅子に座って、病院の外に出てから家に帰るまで、ずっと小刻みに震えていました。帰ってくるなり、自分の部屋に行きたいと言い出して。それからはほとんど部屋から出てきていません」
伏した目に涙が光る彼女に、どのような言葉をかければいいか分からない。メッキで派手に固められたくせに、中身は空っぽな言葉たちが浮かんでは消えていく。
「どうして友里を助けたんですか。あんなに悲しむ友里の姿なんて見たくなかった。友里にはいつも笑ってほしかった。友里が生きているだけで、私は何より幸せだっていうのに。それでも。ねえ、どうして」
侑希が胸に縋りつくように飛び込んできて、声を上げて泣いた。ドラマのように、頭に手を回して抱きしめることができない惨めな男がいた。宙に放り出された両手が、力なくぶら下がっている。
何もできない情けなさを感じながら、それでも時間は二人を連れて、変わることのない時を流れを刻んでいた。
シンクに雑多に盛られた食器。色の褪せたリュック。床に投げ捨てられた充電器。残り四枚のカレンダー。殺気をも帯びた生活感が支配する空間。
『では、最初のニュースです。先日、不適切な発言をしたとして野党から追及を受けていた葛西農林水産大臣が、先ほど辞職する意向を示しました』
『続いてのニュースです。昨日、神奈川県の東名高速道路、高木IC付近でトラックと乗用車三台が絡む事故がありました』
『続いてのニュースです』
『続いてのニュースです』
『続いての…』
ドアが閉められる。
駅を出ると高層ビルの大群が待ち構えていた。過ぎ行く人間を罠にでも嵌めようとしているかのような不規則さだ。横断歩道が青になるのを待つ。遠くでクラクションが鳴ると、大部分が振り返った。
信号を二つほど越えた交差点。その歩道の車道に近い場所。ガードレールの真ん前に、茶色がかった簡易テント。その下に白い台が設置されていた。
いや、白と思しき台が二段。その上に、菊、カーネーション、向日葵、ガーベラ、トルコギキョウ、他にも名も知らぬ花たちが、シーツを隠すようにぎっしりと並べられていた。花束が重なっているところも見える。
テントの骨組みには七色の千羽鶴が吊られ、手前には天然水のペットボトルが不格好に置かれている。たまに、カートを押した白髪の老婆が手を合わせていくだけで、立ち止まる者は、見られなかった。横目で見ては、すぐに視線を逸らすだけだ。
見渡す限りの花、花、花。それは無関係な人々の、心からの供養の証。分かっている。それでも、脳裏に思い出されるのは告別式の風景。殺到する野次馬。飛び交う怒声。スマートフォンから見える黒頭。熱されたアスファルト。Tシャツ。ジーンズ。
目の前の花々に目が宿った。口が浮かんだ。横に伸ばされた目に、上がる口角。覗く歯は黒々しく、誇大された自我が口を開けて待っている。
拭い取ろうと右手を振り払う。花びらが数枚舞う。いくつかの花束が、花束と花束の間を転がり落ちた。
左手をかざして、一気にどける。白いシーツが現れた。全てを漂白するかのような純白だ。一束を持って地面に叩きつける。黄色いリボンがふわりと地面を撫でた。気に入らない。
「あんた、何やってるんだ」
見れば、分かるだろ。
「いいから、元に戻せよ。可哀想だろ」
カワイソウ?
「ここは、先月の通り魔事件の犠牲者のための献花台なんだ。あんた、亡くなった人のことを何だと思ってるんだ。人の純粋な弔意を踏みにじるなんて、最低だぞ」
最低なのは、誰だよ。
「いいから、戻せよ。戻せ!!」
地面には散らばった花々。晩夏の日差しを受けて、枯れ始めているものもある。しばし見つめた後、振り返って歩き出す。太陽が再び顔を出し、薄い影を作る。
「おい、待てって」
投げかけられた悪意のない声が背中を刺す。痛みは感じない。信号はもうすぐ赤になりそうだ。歩くスピードを速める。
陳腐な靴音が繁華街にいたずらに繰り返される。
泡沫の人混みに、空虚な意識が少しずつ溶けていく。
完
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