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somosomo

そもそもどうして日記なんぞ書こうかと思ったのかと言えば、(若林がどうたらこうたら書きはしたが結局それは後から都合つけた話で)無表現生活を続けることで、生活に支障が出始めたからだ。もう少し具体的に言えば、あまりの怒りで仕事に手が付かなくなったからだ。

アニメの各カットのアングルを決めるための3Dレイアウト出しを、ここ二年ほどやっているが(もう1000cutぐらいやってると思う)、この半年まるで上手くいっていない。技量が下がったとかじゃない。モチベーションはもとからそんなにない。コンテを見てると、設定を見ていると、もう腹が立って腹が立ってしょうがないのだ。どうしてこんな演出をするのか、どうしてこんなアングルを選ぶのか。怒りが沸々湧いてきて、手もおぼつかない有様である。そうして今や実作業の1/3はその怒りを抑えるのに使っている。

社屋で仕事してた頃は、奴隷仕事(制作進行)をやってる未来ある後輩と話したり、昼休憩に一人で井の頭公園を何周もぶらついたり、趣味のお茶を淹れたりして、どうにかこうにか誤魔化せていた。それでも作業中はやはりMADな気分になってしまうから(癪に触る素材群と惨めな自分と向き合わなきゃいけないから)イヤホンを両耳深くねじ込んでFutureFunkを爆音で流して、それでギリギリ。ギリギリアウトだった。

それが在宅勤務になると人の目が無いもんだから、もうどうしようもない。どう誤魔化そうとしても、自分自身の傲慢さがその誤魔化し自体をあざ笑ってしまう。何の意味があるんだよと。

結局、生きたい生き方と現実の生き方にギャップがありすぎるし、その差を縮める俺に合ったやり方が見つかっていないから、この感情はその問題が解決されるまで一生湧いてくるもので。ハナから誤魔化せる訳は無かったんだよな。(生きたい生き方って認識が幻想だよって話は、また今度)

だからこういう感情を中和させたり、消したりするのはもう諦めて、一種の表現として、記録としてここに留めて置くことが肝要なんじゃないかと思ったんだよ。もちろん、本業にしたい脚本も書きはするけど。

そうでもしないとホントに人として腐っちゃうんじゃないかと思う。誰もそこには触れちゃくれないけど。それこそアイデンティティの見浦みたいにさ。

俺はそうなってしまう事の方が怖い。道端に内臓ぶちまけて死ぬことより。そういう「そもそも」です。

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。