人の怨念どうすりゃええねん
愚痴を聞くのが苦手だ。モテる男はいくらでも聞いてくれるモノらしいが、すぐに正論やトンチをこく俺にはそんな修験道は歩めそうになく、モテの才能は諦めざるをえなさそうだ。
最近後輩の愚痴話を聞く機会が多い。そういう時は大抵、他部署の人間の無能っぷりの話で、さんざん聞かされているうちに俺は閉口ぎみになっていく。毎日出勤していた頃とは違って、人と話す機会が限定されているから、どうしても話の質や方向が偏りがちで、結果、自分というものが狭くなって行きそうで警戒している。
こんな事を書いたら怒られそうだが、実際その後輩も話題の彩りに欠けていて、会社の人間関係のパワーバランス話とか、誰がやらかしたとか誰が甘い汁を吸ってるだとか必罰感情に端を発した話題ばかりで、どうして俺は友人からYAHOOニュースを聞かなきゃいけないんだ、という気持ちになる。そんなゴシップ好きならライターをやれ。適材適所因果応報。
しかし一方でこの”愚痴”というものを簡単にコケにできないのは、世間的な会話というのはこの類のものが7割強を締めているように感じるからだ。”愚痴”とジャンル分けされると”当てつけのストレス発散”のイメージが強いけれど、実際には”愚痴る人”が”愚痴られた人”に印象操作をやっている側面が強い。それは一種の政治だ。イメージ戦略だ。よほど入念な組織構造や、とんでもなく冴えた人がいない場合、その組織内イメージに基づいて物事は判断処理されていくので、現実として”愚痴”の政治的効用は高い。それはどれだけ嫌いでも認めざるを得ない。クソったれコンチクショウが。
俺は東京と広島が繋がっていることを確かめるために自転車で帰郷したりするタイプの人間なので、そういう印象操作みたいな事をサラリと受け流す度量も技術もなく、「だったら直に喧嘩売れや」と思ってしまう。(実際に喧嘩を売ってしまって不穏な関係になった過去は都合よく忘れて)
どれだけ都会に来た所で、そういう”愚痴”な人達はいなくならないのを鑑みれば、人間とは元々そうやって「組織内で些細な政治活動を繰り返すのが当たり前」な生き物なんだなあと思わされ、地元を離れた理由が一つ無に帰したりして、うっすら哀しくなったりする。”愚痴”は環境依存より性質依存に端を発した特性だったという話で。
これだけ”愚痴”を嫌っておいて、自分が”愚痴”マンだったら恥ずかしいなと直近の会話を思い返してみて気付いた。結局”愚痴”になるかならないかは、話し方の繋ぎ方とか、演出次第じゃないか?どんな話も自分の中で適度なオチをつければ”漫談”になるし、聞き手を楽しませるように話せば”エピソードトーク”くらいの軽さになる。
中学生の時、異常に躾の厳しい親と事あるごとに衝突を繰り返していて、毎日が憂鬱だった。毎朝お袋の金切り声で起こされ、飯を食う間中罵声を浴びせられては、仕返しに車のナンバープレートを思いきり蹴りつけてから登校するという毎日だった(強く蹴りすぎて足の傷が今でも痛む)。ある時、登校途中電車内で一緒になる友達に、その親子喧嘩の模様を話すとバカ受けし、それから毎朝親子喧嘩の様子を面白おかしく話すようになった。どの順番で話すと面白いか、どれくらいの温度で話すと面白いか、なんて事を考えていると、不思議と怒りを脇に置いて物事を考えれるようになった。いつしかそれが当時の生き甲斐になっていた。
親子喧嘩の事を友達に話している所だけ切り取れば、これも”愚痴”になるかもしれないが、当時俺も友達もそういうネガティブな”愚痴”としてこの話の一連を楽しんでいる訳じゃ無かったと思う。だって友達が笑いすぎて動けなくなったりするのを見て、俺は素直に嬉しくなったりしていたから。
そんな事を振り返ると、俺は”愚痴”が嫌いな訳じゃないのかもしれない。自分の怨念を「怨念」という形のままで人に伝えるのは、やっぱりつまらない。それだけの話しなのかもしれない。
面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。