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生きる意味などの思索

昔から何をするにしても「なぜこれやってるんだろう」という問いがあった。さらに深掘りすると、根っこにあるのは(これをやってる)自分とは何だ」という問いである。

思春期の中学生みたいだが、ここ最近ずっと考えている。考えが発散し、note記事を色々書いた。本noteではまとめてみたい。

まず根っこの問い、「自分とは何か」。
「自分とは他者である」と考えている。

自分の内側にある源泉から湧き出るような「自分らしさ」を否定し、自分は他者(ここでいう他者は自分以外の外部のもの全て)から構築されていることを説明した。つまり「自分らしさ」は様々な他者の組み合わせである。私たちは、幼少期は特に親の影響を受け、学校では先生や同級生、それから兄弟、読んだ本など、様々な影響を受け、自分を構築している。私たちは、自分らしさは内部から湧き出るもののように感じているが、それは外部に存在するのだ。

「自分は他者」。
でも、自分の行動は自分の意志で操っているように私たちは思っている。これは何なのだろうか。他者?
2つ目の問い「自分の意志とは何なのだろうか」

この答えは、17世紀のオランダの哲学者スピノザから。「自分の意志は存在しない。」
スピノザは「自分の行動は自分の意志で操っている」とする考え方、これはデカルトの心身二元論ともいう、を否定する。
スピノザは「行動には原因があって、原因は私たち自身にある。その原因は私たち自身にある必然性であり、それにしたがっているだけである」と考える。こう考えると、意志は不要である。なぜ意志があるように感じるかというと、人間はこの「原因」は知覚せず「結果」だけ知覚するので、結果(=行動)を操っているものとして意志があると錯覚していると説明している。意志は幻想なのだ。
なるほど、、、納得です。

ここまでまとめると、「自分は他者に構築され、かつ、自分の意志もない」
であれば、意志があるように錯覚している私たちは何のために生きるのか。ただの生物「人間」を後世に進めるための駒でしかないのか。私の人生は無駄なのか。
そして3つ目の問い「何のために生きているのだろう」

人が生きる理由、この絶対的な理由は見つからない。これは私たちが思考できる範囲の内部にはないからだ。となると、この答えは思考できる範囲の外側にあるか、そもそもそんな答えは存在しないとなる。
でも私たちは答えを知りたいのである。これは「無限の解から答えを見つける」そういう試みである。
どうしたら良いのか。それは「何かを無理やり信じること」だと思う。何かを信仰すること。
どうやったら信じられるのか。それは絶対的な根拠のない何かをあえて信じることであり、無限の可能性から、考えられる他の可能性を排除して選ぶことである。これは有限化である。そして、この有限化する方法のことを情熱と呼ぶのだと思う。またはなのかもしれない。

以上、ここまでの考えをざっとまとめてみました。簡潔に書きすぎて、伝わるか少し心配ですが、濃い内容は各noteリンクに書いてます。

また書きます。

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