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三ツ星スラムマーケットで私に関するエッセイを書いてもらったので掲載。しかもこれで未完…


本文

坂をのぼる

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2021/03/10 09:33
男は、味のないリンゴをかじっていた。かろうじてリンゴという名前を冠するにふさわしいだけの水分を含んだスポンジのような果実であった。男は味を気にも留めることがなかった。ほんのり緑がかった黄色に男の歯形が刻まれていく。男はリンゴの中に隠されていた世界を見ていた。一口かじるごとに露わになっていく世界は男に何物をももたらさなかった。男にとってまあるい果実は結実した生命、あるいは自然の恵みなどはなく、ただのスポンジだった。男はリンゴを種だけにして世界を食い尽くしてしまうと、席を立ち手を洗った。

窓から射し込む光は西に傾いており、もうすぐ夕暮れになろうとしていた。

自分についての絶望、自分につながれて存在するという苦悩が全身を満たしているが、外に溢れ出ず、自分の存在を優しさ、恐怖、苦痛、悲しみにする。
説明できないそれほど過度のばかげた苦悩、それほど悲しく、それほど孤立した、それほど形而上的に自分のものである苦痛、
男は口に残ったわずかばかりの甘味を舌で押しのけてつぶやいた。窓から見える景色はどこかに夕暮れの気配を隠し持っているようだった。遠く離れた異国の何者になることも選ばなかった詩人の言葉が埃と一緒に部屋の中を舞っている。男は身動きすることなく、じっと埃と吐き出した詩人の言葉が棚に積もっていくのを見ていた。ふと、誰かに見られているような心地がして後ろを振り向くも、そこには自分の影があるだけだった。男は服を着替えて町に出ようと思い立った。

「どこに行くの?」
着替えた自分を見て問いかけた母親の声に聞こえないふりをした。もうすぐ31歳になる男に出かけるのに行き先をたずねるなど、母親はいつまで経ってもどこか自分のことを子供のままだと思っているらしい。とはいえ、実家に住み続けている自分もいつまでたっても親離れができていない、そう言われてしまえばそれまでだった。

服を着替え、パソコンの画面に目をやる。ちょうど一年ほど前だろうか、オンラインサロンの体裁をとったインターネットコミュニティに参加した。そこでは、社会的な関係にない老若男女が集い、とるにたりない話をしたり、なにがしか研究と称して世の有象無象について議論されていた。

自分には友人が少なかった。もともと社交的でない上に、数少ない友人も結婚して、気がつけば疎遠になっていた。友人の顔は見る度に、社会的な責任を背負った一人の男の顔にかわっていった。自分に対しての気遣いか、馴染んだ旧知の振る舞いか、友人の態度こそ変わらないものの、滲み出る雰囲気にどこか異郷を感じ、次第に息苦しさを感じるようになった。その息苦しさは時折、自分だけがどこか知らない地へ迷い込んでしまったのではないかと惑わせた。自分は会社員としてどこかの会社に所属し、きまった生活習慣の中で生活しているわけではなく、フリーターをしていた。友人が家庭を持ち、あるいは社会的な地位を手にしていく傍らで、自分も知らない間に思っている以上に歳をとっていたようだ。純粋な全能感によって育まれた孤独が、荒び寂寞を伴うようになってきたのだろうか。孤独とありあまった時間を紛らわすようにオンラインサロンにのめり込んだ。

未読の発言に目を通し、リアクションをした。実生活とインターネットコミュニティの間には肉体の大きな隔たりがあるが、そのコミュニティでは健康であることを志向されている。奇妙な話である。少し前の時代の人々だったら、自分の、この時代の、虚構との接し方はどのようにうつるだろうか。虚しく感じるだろうか。自分にとっては虚しさを感じるよりも飽きることの方が早く訪れた客人であった。昔から興味のあることや、目新しいこと、情報や知識は目についたものを片っ端から調べていく癖が身に染みついている。自分に情報をもたらすもの、問題解決の糸口を指し示す存在が極端に少なかったせいかもしれない。自分で情報を集めて、ひとりであらゆる問題に対処していくうちに身に染みついていった。気がつけば人を必要としない体になっていた。それでも、人と出会うことの喜びや興奮をまったく感じないというわけではなかった。フェルナンド・ペソアを知っている人物と出会ったのもこのインターネットコミュニティだった。自分はフェルナンド・ペソアの言葉を好んだ。彼の言葉には、郷愁じみたものを感じるのだ。

午後4時のチャイムが鳴る。日常にそぐわぬほど人工的な音色は、自分の日常を機械的に世間とつなぐ役割を担っていた。男はパソコンの画面を閉じて町へ出る。チャイムは夕焼け小焼けのメロディだった。日が暮れるより早く夜の支度をしている町に響いている。幾度となく聞いている音色に安心と寂寞を感じずにはいられない。自分とはなんなのか。町が自分の居場所を抱えている。自分が詩人の想念を頼りに、この街を離れ、思念の旅へ、詩人の故郷を訪れようとも、必ずやこのメロディが自分の意識をこの町へ引き戻すのだった。それは、自分にとって帰属意識であり、つながりであった。


小台駅にちょうど路面電車が来ていた。乗客の何人かが下車している様子が見えた。腰の曲がった老婆が手押し車を押しながら、ホームから路地へのわずかばかりの傾斜の坂を下っていく。老婆とすれ違うように小学生の群れが乗車した。男がちょうど停車している路面電車のすぐ脇を通りかかる時に、路面電車は、軌道に乗ったまま滑るように車の群れの中を切り進んでいった。

男は目的を定めずに、ぶらぶらと街を歩いている。男には散歩の習慣があった。かつて肉体労働をしていた際に体を動かすことが習慣となり、どうもまったく体を動かさないと血の巡りが悪くなるように感じられてしまったのきっかけで習慣となった。

男は小台駅から田端駅に向かって歩いていた。商店街とは名ばかりの寂れた商店街を通り抜ける。ちょうど、日が暮れようとしていた。男はどうやら田端駅の南口に向かって歩いているようだった。男は田端駅の南口のちょっと行ったところから、フェンス越しに夜に向かって忙しなく動いている人々の群れを見るのを好んだ。

落日を見て、それ以外何も要らないと言う者がいるとするなら、幸福者と呼ぶ他になんと呼んだらいいのだろう。自分は坂の上から、ホームを、それから赤く染まっている遠いビル群を見ていた。何故人はこうも落日に惹かれるものだろう。自分もまた落日に惹かれるうちの一人であったが、それは平穏と安らぎを満たすだけの幸福の象徴としてではなく、自分の人生には何かが足りていないというような漠然とした欠如感を伴っていた。自分の人生に幸福と呼べるひと時があったのだろうか。

男は落日の中に、自らにとって幸福とはなんであるのかを問うていた。男は自身の生涯に不満はなかった。しかし、男は自らの生涯に何かが欠けているのを感じずにはいられなかった。その欠如感は突然に忍び寄る。細長く伸びていた影が突然にメリメリとひそやかに、地面を離れて、立ち上がり男にそっと耳打ちするようだった。「これでいいのか?」と囁く影の声は自分の声そのものだった。男はその度に耳を塞ぎ、まとわりついた男の声を振り払うように頭をかぶりふった。夕暮れに赤く染まっていたビル群も輪郭がぼやけいき、あたりは大きな夕闇に包まれようとしていた。

カツカツカツ、何者かの足音が聞こえて男は後ろを振り向いた。男はとりわけ耳が良いというわけではなかったが、背後の物音には敏感で、時たま大きな音がなるとひどく驚いてみせた。夕闇の中、沈んで行く太陽をそのまま目に宿したような赤い目の女がこちらへ向かっているように見えた。男はその赤に惹きつけられるようにしてじっと見込んだ。女もその視線に気づいたのか、ふたりは目があった。女もまた男から少し離れたところから、この夕暮れの街並みを見渡しているようだった。男は見知らぬ女とのふたりの空気にたじろぎ、そそくさとその場を立ち去った。

男が帰宅すると、夕食が用意されていた。男と母親はそれぞれの所定の椅子に座り、食事を共にした。素っ気ない時間がふたりの間に流れていた。男は母親とずっと一緒に暮らしてきた。ふたりの間にある素っ気ない時間は無関心によるものだった。母親は手持ち無沙汰になると、意味もなく退屈を紛らわせるかのように男に話しかけた。男の家では、無関心が礼節となってお互いの過干渉を防いでいた。この礼節が関係の不和を遠ざけるための砦であったことは、家庭を知るものなら、理解いただけるであろう。

男は食事を済ませると、席を立ち自室に向かい、パソコンを立ち上げた。現在、男の関心の大部分を占めるのは、折に触れて目に入る未知の情報とこのパソコンが繋げているインターネットコミュニティであった。男はこのコミュニティ内では古くからの馴染みであった。いわゆるアクティブユーザーである。男は未読の投稿を読み進めていた。今日は結婚という話題で盛り上がっているようだった。男も書き込む。

「結婚はしたくないな」

「あなたの”結婚”のイメージは何か?」

人々の問いかけによって男はまた思索への扉を開けた。男の父母は毎日のように喧嘩をしており、喧騒と無関心に満ちた家の空気に馴染んできた男にとって家庭の持つ温かみというものは幻想だった。なぜ、喧嘩ばかりするふたりが結婚という形で関係を半ば強制的に結ばれているのか分からなかった。それから、男は到底自分が人を養うという事ができるとは思ってもいなかった。また、そのために遮二無二働くということも想像もつかなかった。

男は自分の結婚に対するイメージを、婚活チャンネルマスターjunkoに打ち明けた。婚活マスターjunkoは、さすが婚活マスターjunkoである、男のイメージを手に取るように問いを使いながら男の結婚観を掘り、提案していった。

1、あなたが家事をやることに対して抵抗がないのなら、主夫になるのはどうだろう。
2、相手に寄り添うことができるのなら、キャリアウーマンやかまって欲しがりの女性など、精神的に癒しを必要としている人と結婚するのも良さそうだ。
3、区役所に行き婚姻届を手に入れ、誰でもよいのでノリで結婚してみるのはどうだろう。


男は自分がjunkoの提案をもとに結婚したとして、家庭でどのように振る舞っているのか想像しようと試みたが、全く想像できなかった。男には10もいかない頃におよそ恋愛と呼べないような淡い恋心を抱いたきり、恋愛というものに縁がなかった。

男は布団の中で天井を見上げていた。ふと、寝たまま枕元にあるペソアに手を伸ばす。男はこここのところ、時間さえあればペソアを手にしていた。

わたしは想像した落日で自分を黄金色に染めるが、想像したことは想像のなかで生きている。わたしは想像上の微風を喜ぶが、想像されること生きる。わたしは様々な家庭を通して心を持つが、そうした仮定がそれ自身の心を持ち、したがって持っている心をわたしにくれる。


自分は結婚というまるで想像できない。夕暮れ時に襲ってきた途方のない人生の欠如感も、もしかしたらこれに通じているのではないだろうか。

男はひとたび、本を閉じると思索に耽った。男は喪失や依存が怖かった。一度、恋というものを知ってしまったら。その悦びを知ってしまったら、それを喪失したときにどのようにして自分を保っていけばいいのだろうか。男は不安を抱えながらも、結婚という未知に興味関心が沸くのを胸の内のどこかで感じていた。男は今までにもこうして未知や自分の前に立ちはだかる壁のようなものに挑み続けていた。自身の感覚の破壊こそが男にとっての醍醐味を感じる唯一の生であったともいうことができるだろうか。男は未知と自身の限界に接しながら、呑まれそうな人生という膨大な時間の束から逃れようと、喪失や消失の恐怖を払拭しようとしていた。その自らの壁の破壊活動の慰めとしてペソアの不安の書を好んだ。

近いうちに時間のある時に役所に行って婚姻届をとりに行ってみよう。自分は想像でも結婚ができないのだから、ひょっとして夜が自分に結婚の夢でも見させればいいのに。

男は目を閉じて眠りについた。

その日は雨だった。役所に婚姻届を取りにいきがてら町を彷徨い歩いていると、男はまたも田端駅に自然と足が田端駅に向かっていた。田端駅はかつて芸術家や、芥川龍之介を初め文豪の住む街として知られていた。至るところに案内があり、また最近ではアニメ『天気の子』のヒロインの住む街として登場し、ラストシーンも田端駅だった。山手線の最北端の駅であり、台地と低地の間にある坂の多い街だ。男は高所恐怖症であった。一段一段が高い階段を恐る恐る降っていく。男の少し先にも青いパステルカラーの傘をさした一人の女が恐る恐る階段を降りているようだった。

「きゃっ」

短い悲鳴と共に女が足元を滑らせた。女の握っていた傘が緩やかに残り数段の階段を落ちていった。かろうじて手すりを握っていたから特に事故にはならなかったが、男は驚いた。放り出された傘は、雨に濡れた黒いアスファルトに逆さまになって雨を受けながら、持ち主が来るのを待っていた。

「大丈夫ですか。」

男はビニール傘を階段に座り込んだままの女に持たせると、女の傘を取りにいき、女に手渡した。女は滑った衝撃の中にまだいるらしい。男から自分の青い傘を手渡され、その手からするりとビニール傘が抜き取られた時に、思い出したかのように言葉を発した。

「あの、ありがとうございます。」

「怪我はないですか、立てますか」

男はその大きな体躯には似合わないほど優しい声色をしていた。

「大丈夫です。すみません。」

男は立ったままだった。濡れた階段の手すりにぶら下がっている滴が街灯の光を反射して、光っていた。男は言葉を探していたが、何も出てこなかった。ぼんやりと女を見たまま張り付いたように身動きができないままだった。

「すみません。もう大丈夫なので行ってください。ありがとうございます。」

女の声で我に帰った男は最後の残りの一段を降りて、雨の中に消えていった。雨音にかき消されて男の足音は聞こえなかった。

男は机の上にある婚姻届を前に、茶を啜っていた。婚姻届を手にしても男は結婚が身近になったとは到底思えなかったし、その紙が結婚の手続き、儀式に欠かせないものであるのに、まるで結婚を感じさせることのないただ無機質な紙であることは男にとって結婚との距離に等しかった。

男はパソコンを立ちあげ、インターネットコミュニティにその日の日記めいた投稿をした。男の日常に突如現れた異性の存在にコミュニティ住民も浮足だった。しかし、男の頭にはひとつの懸念があった。

怖がられたのではないか?

男はその大きな体躯と、予測不能な動き、歯に絹着せぬ物言いから人に無遠慮な視線を受けることが多々あった。

男はその問いをくくりに、日記を書き終えると布団に寝転がり目を閉じた。

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