『局担』 #2

年末が近づくと、さくらテレビへ向かう電車は、満ち足りた顔つきの家族連れやカップルの姿でいっぱいになった。日没が早まり、地下から地上へと飛び出す瞬間のカタルシスはいくらか失われてしまったものの、代わってクリスマスの到来を告げる電飾が東京湾のあちこちに煌めいて、人びとを待ち受けるようになった。

たくさんの子どもたちが座席から身を乗り出し、さくらテレビの赤いランプを指さして、楽しそうに顔を見あわせていた。恋人たちはきまって二人掛けの席に陣取り、「あれがさくらテレビだよ」「大きいんだね」とささやきあった。駅に着くと、彼らは僕を追い越すようにして降りていった。僕がゆっくりと電車を降りた時には、彼らの幸せそうな声だけが、プラットフォームに口を開けた階段のあたりに残されているのだった。

さくらテレビへの日参は、一時、渋谷と世間話を交わすだけの形式的なものに成り下がった後、再び憂鬱な日課へとその姿を取り戻していた。効きすぎの車内暖房にシャツの袖を捲り上げ、肘のあたりに鞄をぶら下げると、肉に食い込んだ幅広の持ち手が、腕に複雑な痕をつくった。その赤い印は、鞄のなかの大量の資料によって成しえなければならない新たな任務を、僕に思い起こさせるのだった。


先週のことだった。媒体部にいた局担全員に、緊急招集がかかった。先輩たちの後について、これまで足を踏み入れたことのない巨大な会議室に入ると、「ドアを閉めろ」という刺々しい声が飛んできた。顔を上げると、ロの字型に並べられたテーブルの最もドアから遠い一辺に、局長の武田が足を組んで座っていた。武田以外の人間は皆、直立不動の姿勢をとっている。目の前の椅子には目もくれず、ガラスの壁に張り付くように立っているスーツ姿の男たちは、会議の参加者というよりは、有事に備えて目を光らせているボディガードのようだった。僕は音を立てないようにドアノブを落としてドアを閉めると、立ち並ぶ先輩たちの隙間を見つけて、そっと身を潜り込ませた。

武田の隣に控えた相馬が、抑揚のない声色で話しはじめる。

「それで、今日みんなに集まってもらった理由ですが、実はこのたび弊社が〈競合プレゼン〉に勝って、ヤハタ飲料の扱いをもらえることになりました。年間で数十億円の扱いになります。東都のなかでは、一番大きな規模のクライアントになりそうです」

競合プレゼンテーションというのは、あるブランドやキャンペーンの扱いを巡って、クライアントが複数の広告代理店を呼んでプレゼンをさせ、最も優れた提案をした代理店にビジネスの扱いを任せるという、広告業界特有の文化だった。

競合プレゼンで東都通信社が他社に勝利し、有名企業であるヤハタ飲料の扱いを取った。おめでたい話のはずなのに、誰一人身体を動かさない。部屋のなかにいる全員が、不貞腐れたように頬杖をついている武田に注目していた。

「それで、もちろんこれは良い話なのですが、我々媒体部としてやらなければならないことが発生しました。それは」

「相馬、いい。俺が話す」

武田が不意に上体を起こすと、何人かの肩がぴくりと跳ねた。

「まあ、お前らもわかってんだろう。俺たちバイイング部隊としてやんなきゃいけねえことだ。扱いを取るために、これまでの代理店のコストを叩いて、かつ良枠に流すって条件を、クライアントと握ってきた。具体的には土日タテの枠だ」

早口で話す武田に追い付くべく、僕は必死に情報を頭のなかで整理する。競合プレゼンに勝つために、ヤハタ飲料のこれまでの広告料金を値下げして、さらには広告価値の高い土日に流す広告の本数を増やすことを、クライアントに約束した。そこまではいい。だけど、いったい誰が、そんな無謀な交渉を請け負うんだ……?

高音のノイズのような、嫌な緊張感が室内に満ちていく。武田は二の句をためらわなかった。

「この交渉を、お前らに任せたい。期限は来年の二月半ばまでだ。受けたくない奴は手を挙げろ。今すぐ異動させてやる」

え、という驚きが、つい表情に出てしまっていたのだろう。武田が僕を睨む。

「お前、なんだ」

僕は間髪を入れず「いえ、何でもありません」と答えた。嫌だなどとは、到底言い出せない雰囲気だった。無意識に、肘のあたりでスーツの上から脇腹を撫でていた。何でもないと口に出した瞬間から、フタバのスポット案で垣内と揉めた時と同じ感覚が、腹のあたりにわだかまりはじめていた。近い未来に板挟みとなり、自らの無能さを再び思い知らされることになるであろう、絶望の感覚だった。

武田は僕を黙らせると、深い沈黙に覆われている会議室を、ゆっくりと眺め回した。微動だにせず立ちつくす局担たちは、壁に沿って等間隔に打ち込まれた黒い杭のようだった。武田は作品の出来栄えに満足したかのように頷いた。

「お前らの働きには期待している」

世の中には激励の形を借りた命令の言葉が存在することを、その時以上に痛感したことはなかった。


車窓からさくらテレビを眺めながら、武田の狂信的とも言える表情を思い出すと、横腹に鈍い痛みが走った。痛みは末期の虫歯のように、日々その強さを増していた。僕は痛みを抑えようと、少しずつ深いところまで息を吐いた。肺の中の酸素を一つ残らず外に出してしまえば、体内の澱んだ空気を養分にして育つストレス性の疼痛は、一時的に根絶できる気がしていた。

相馬から託されたヤハタ飲料の料金交渉の資料は、無駄にぶ厚く、重かった。僕たち局担はみな、そうした資料を紙で持ち歩いていた。

テレビ局との情報のやり取りは、ほぼ例外なく、直接の紙の持ち込みか、ファックスによって行われていた。どうしてもパソコンのメールを使用しなければならない場合には、対面か電話で、メールを送る旨を相手に伝えることが求められた。送った後で同様の連絡を要求されることもあった。相手の都合のよい時に送受信ができるというメールの利便性は、ほぼ失われていた。送信ボタンを押すわずかな指の動きにかかる労力と、何キロもの距離を超えて足を運ぶ労力とを比べたら、前者でことを済ませようとするのは失礼に値するという、きわめて非合理的な考え方に基づいたカルチャーだった。

ただ、仮にヤハタ飲料の資料をデータで共有することが許されたとしても、そうした資料の出番はほとんど無かっただろう。なぜなら、渋谷はこの交渉に、まったく耳を貸そうとしなかったからだ。

武田から一方的な命令が下された次の日、僕はわずかな希望を抱いてさくらテレビを訪れ、いつも軽い打ち合わせに使用されている共用のデスクに渋谷を呼んで、交渉用の資料を広げようとした。一度くらい、話の内容を聞いてくれるんじゃないか、そんな気持ちも心のどこかに抱いていた。だが、渋谷は資料に記載されたヤハタ飲料という名前を目にした途端、「あ、その案件は、うちは話聞かないから」と言い放ち、席を立った。彼はそのまま戻って来なかった。営業部を行き来する人たちが、大量の資料を前にして呆けたように座り続ける僕をじろじろと見た。

考えてみれば、当たり前のことだった。別の代理店で平和にお金を落としてくれていたクライアントの扱いを、うちの会社が強引に奪い、もっと安い料金で、もっと良い枠に広告を流せと言い立ててくる。僕が渋谷の立場であっても、馬鹿にするなと言うに違いなかった。

来る日も来る日も、僕は渋谷のもとに出かけ、ヤハタ飲料の話を持ち出そうとして、拒絶されるのだった。何度目かに訪ねた時には、渋谷は投げやりに「また相馬さんに頼めばいいじゃん」と言った。相馬でも事態が収まらなければ、今度は武田が出ていくことになるのだった。この頑強なピラミッド型の世界のなかで、僕は取るに足らないちっぽけな存在だった。優等生でありたいという、胸に燻るプライドだけが、僕の足をさくらテレビへと運ばせるのだった。

(*)

年内の最終営業日は、テレビ広告業界では納会の日にあてられていた。局担たちが担当しているテレビ局を回り、局員たちと酒を飲みながら、仕事納めの挨拶をする一日だった。僕は朝からさくらテレビへと向かった。

営業部に入ると、フロアの床のあちこちに、大きなクーラーボックスが置かれていた。ボックスのなかは冷水で満たされ、ビールとチューハイが山と冷えていた。僕は缶ビールを一本取り、渋谷の席に向かった。

東都通信社が無茶をしてヤハタ飲料の扱いを取ったという事実は、営業部じゅうに広まっているようだった。城ケ崎は、年納めの挨拶をした僕に向かって、ニヤニヤしながら、帰れ、と言った。他の営業部員の何名かがそれに呼応して、帰れ、帰れ、と叫んだ。明らかに、彼らは面白がっていた。僕は曖昧な笑い方をして缶ビールに口をつけ、それから渋谷の姿を探した。

渋谷は、営業部の喫煙室のなかで、他の代理店の局担と話し込んでいた。僕は外で彼が出てくるのを待つことにした。渋谷は煙草を吸わない。喫煙室には、単なる付き合いで入っているはずだった。出てきた時に渡してやろうと思って、近くのクーラーボックスから缶ビールを一本手に取った。

だが、渋谷はなかなか出てこなかった。右手に握りしめた缶ビールは、出番の無いまま、少しずつ温くなった。喫煙室には、賑やかな人の往来があった。部屋に充満する白い煙が、談笑する渋谷を覆い、丸い顔を見えなくさせた。ガラスに遮られた笑い声が、遠く微かに聞こえてきた。

僕がここにいることは、渋谷も気付いているはずだった。それでも出てこないということは、話をしたくないという意思表示なのだろう。城ケ崎が通りかかり、ぼんやりと喫煙室を眺めている僕を見て、馬鹿にしたような手まねをした。さくらテレビには、味方は誰も見当たらなかった。僕は諦め、すっかり温くなってしまった余計な一缶分のビールを飲み干して、さくらテレビを後にした。


担当している地方局の東京支社が点在するオフィス街で電車を降りると、身体にまとわりついた車内の暖気は、雪混じりの風にたちまち叩き落とされた。夏冬兼用のスーツの裾が捲れ上がって、腰のあたりから冷気が潜り込んできた。

僕はコートを着ていなかった。暑いだの寒いだのといった弱みを媒体社に見せていては、まとまる交渉もまとまらなくなる。武田は冗談とも本気ともつかない顔で、局担たちにそう語っていた。寒さを和らげるために、ネクタイを強く締め直し、傍らに駐車されていた小さな車の窓に胸元を映した。ディンプルを保ったまま、きれいに結び目を作ることができるようになったのは、ここ最近のことだった。

地方局の人たちはとても優しかった。長崎の局では鍋のなかで五島うどんが湯気を上げていたし、新潟の局では白く輝く握り飯がテーブルを埋め尽くしていた。僕は諸手を挙げて迎え入れられ、飲み食いをして、次の局へと送り出された。振る舞われる地酒の杯が温かかった。人を麻痺させる酒ではなく、柔らかくする酒だった。むきになって喉の奥に放り込む必要のない酒だった。

オフィスから街に出るたびに、あたりは暗くなっていった。酒のせいなのかもしれなかったし、強まっていた雪のせいなのかもしれなかった。静岡の局で借りた傘を差すと、透明なビニールの上に積もった雪はすぐに溶けて、小さな湖のような幾何学模様を作った。硬い革靴の下に凍りはじめたアスファルトを感じた。人の行き来の途絶えた路地裏をネズミが走り、ビルとビルの隙間に飛び込んでいった。途切れ途切れになってゆく意識のなかで、上手くいかないさくらテレビとの交渉を思った。東京の真ん中で、僕は行き倒れかかっていた。ただひたすら、足に馴染んだ道を命綱のように辿って、担当局を訪ね歩いた。

最後の局は広島だった。僕は倒れ込むようにして営業部に入っていった。「おお、田上!待っとったど!」「死にそうな顔しとるの」「ソファに寝かせちゃれえや」手近な椅子にがっくりと腰掛けながら、耳に入ってくる広島弁が心地よかった。天井の灯りが眩しくて目を閉じていると、誰かが僕のネクタイを緩めてくれた。「広島が最後だったんで、絶対に回ろうと思ってたんで」とうわごとのように呟くと、「宴会に参加できん身体で来てもろうてもしかたないが、よう来てくれたのう」と肩を叩かれた。

焼けるように熱いお茶を入れてもらい、ひんやりとした応接室のソファに横たわりながら、窓から外を眺めた。猛吹雪が向かいのビルの姿をかき消していたけれど、風の音も雪の冷たさも、静まった部屋のなかまでは、届いて来なかった。毛布をかぶって目を瞑ると、激しい風に微かに揺れるビルの振動が、身体に伝わってきた。

結局、広島の局で行われていた宴会には、僕は参加できずに過ごした。面倒見のいい弓削という年配の局員が、東都通信社まで送ると言って聞かなかった。僕はありがたくその申し出を受けることにした。依然として酔いは回っていた。弓削の後からタクシーに乗り込み、ドアを閉めた。窓に頭を持たせかけると、冷えきったガラスに触れる額が気持ちよかった。

「お前、大丈夫なんか。最近、あんまり顔を見せとらんかったし、心配しとったんじゃ」

タクシーが発進して間もなく、弓削がぽつりと口にした。

「そうですね。正直、参っています」

大きな雪の切片が、窓ガラスに張り付いた途端に水滴に変わり、横断歩道の信号の赤色がぐにゃりと歪んだ。潜水艇のようなタクシーから眺める年末のオフィス街は、深海底のように煙っていた。運転手は、まるで呼吸を止めてしまったかのように、物音一つ立てなかった。弓削と僕は、別々の部屋で供述を始めた二人の容疑者のように、前を見つめながら交互に口を開いた。

「僕がこの仕事をやっている意味ってあるんだろうかって、最近は思ってます」

「お前はようやっとると思うが、なんかさくらで難しい案件でも抱えとるんじゃろう」

「さくらに行って話すのは、僕じゃなくていいんです。僕なんかより、上司が行けばいい。上司が行って交渉がまとまるんだったら、全部上司がやればいいんです」

涙が頬を伝いはじめた。さっきまで静かに整っていた車内の風景が、ガラス越しの街と同じように歪んでゆく。僕はなぜ局担をやっているのか。その答えをずっと追い求めていて、だけど誰も教えてくれないのだった。テレビ局に気に入られるような一芸も、交渉の場で相手に冷や汗をかかせるような鋭さも、僕は持ち合わせていなかった。

ぼやけた弓削のシルエットは、僕の涙にも微動だにしなかった。

「お前の上司、相馬さんじゃったよのう。わしは昔、あの人と一緒に仕事しとったよ。御社の窓口しとった時、あいつがうちの局担じゃったんよ」

「……そうだったんですか」

「相馬も昔、お前と同じようなことを言っとったわ。自分の価値はなんじゃろって。わしからしたら、ようやっとるよ。お前じゃけえ、やったりたい思うことはたくさんある。相馬にもその時そう言うた」

弓削は意地でもこちらを見ないようにしているかのようだった。その口調は、いつもオフィスで僕と相対している時と変わらなかった。

広島の局に関する難しい交渉ごとが発生すると、弓削はいつも落ち着いて僕の話を聴き、解決策を探ってくれるのだった。強面ではあるものの、童話に出てくる木こりのような朗らかさを持ち合わせるこの弓削という男に、僕は何度救われたかわからなかった。広島は、僕が一番大切にしたい局の一つだった。

「お前はええ人間よ。真面目で、一所懸命で。そうじゃなかったら、お前じゃない。田上修一じゃないんよ」

タクシーが都心を駆け抜けてゆく。弓削の言葉が頭のなかを満たして、何度も何度も、心の一番熱い場所で繰り返された。さっき緩めてもらったネクタイの胴に、涙が落ちた。涙はすぐには染み込まずに、露のような丸い姿をひと時見せて、それからすっと生地に溶け込んでいった。

東都通信社が近づいてくると、弓削は思い出したように呟いた。

「局のことがわからんようになったらな、スポット案を見てみいや。そこに全部書いてある」

謎掛けのような言葉が終わるか終わらないうちに、タクシーが停まり、ぱっかりとドアが開いた。僕は押し出されるように車を降りた。

外はひどい風だった。お礼を言おうと振り返ると、弓削と初めて目が合った。弓削は頷いて、風の音に負けないように声を張った。

「お前はお前じゃ。お前にしかできんことは、絶対あるんじゃ。それを忘れんな」

僕が何かを口にする前に、風が大きな音を立ててドアを閉めた。タクシーはすぐに灰色の道路に馴染んで見えなくなった。

僕はどこまで行っても僕でしかない。温かみの残るネクタイを締め直し、媒体部に続く階段を駆け上がりながら、僕はいつまでもその言葉について考えていた。

(*)

冬休みに、実家に帰った。新幹線は、別の世界への旅客機のように僕を乗せて走った。はしゃいで出迎える家族との挨拶もそこそこに、かつての自室に向かった。

ドアを開けると、懐かしい匂いがした。旅行鞄を部屋の隅に放り投げて、母親が敷いてくれていた布団に、大の字になって寝転んだ。窓の外から、馴染みのある灯油販売の呼び込みの口上が聞こえてくる。ここは静かで、何もかもが夢だったように感じられた。首すじのあたりで毛布の感触を楽しんでいると、傍らの机に足が触れた。

小学生の頃から使っていた勉強机は、思っていたよりも小さく、椅子に座ると太股がつかえて足が入らなかった。低い椅子に行儀よく深く腰を掛け、目の前の本棚に並ぶ参考書を見渡した。数学、英語、理科……。脳みそにこすりつけるようにして様々な知識を覚え込んでいたあの日々は、そう遠くない過去のように思えた。局担という仕事が世の中に存在するなどとは、想像だにしなかった時代のことだった。

僕は決して、要領のよい優等生ではなかった。問題を一瞥しただけで稲妻のように解が降りてくるタイプの天才ではなかった。何度も何度も、同じ問題を繰り返すことで、その問題から引き出せるかぎりの要素を抽出し、同様の構造をした別の問題にその要素を当てはめていくタイプだった。一言でいえば、愚直な努力家だった。模擬試験で合格圏の判定を出したことは一度も無かったし、僕が志望の大学に受かるとは、親ですら考えていなかったはずだ。何度敗北しても、最後に一度だけ勝てばいいんだと、僕は自分に言い聞かせていた。

もしかしたら、仕事も同じなのかもしれなかった。弓削の言うとおり、僕は僕でしかなかった。かつてこの机に座って、おちゃらけた連中に負けるわけにはいかないと、死にもの狂いで勉強していたのが僕だった。そうした真面目で不器用な自分自身を、僕は認める必要があった。相馬のようにはなれなかったし、芸達者な他の代理店の局担たちのようにもなれなかった。局担になっても、僕という人間は変わることがなかった。変わるはずがなかった。

部屋の隅に転がった鞄のなかから、フタバ製菓のスポット案を取り出した。帰省するにあたって、一枚だけ持ってきていたのだ。何人もの手に渡り、鞄に仕舞われ持ち運ばれてくたくたになったスポット案は、僕がつまみあげた途端に柔らかくその身を開いた。

縦長の、A三サイズの紙だった。縦に七つ、列が引かれていて、それぞれの列は月曜日から日曜日までの曜日に対応していた。列を切り分けている行の左端には、一時間刻みの時刻が記載されていた。新聞のテレビ欄と同じ形をしたこの長方形の箱はタイムテーブルと呼ばれ、その行列のあちらこちらに、広告のオンエアを示す横や斜めの線が散りばめられていた。横線の〈ステーションブレイク〉はステブレと略され、番組と番組の間に流れる広告枠を表していた。斜めの線は〈パーティシペーション〉、通称PTと呼ばれている、番組の最中にオンエアされる広告枠のことだった。

案のなかには、過密な都市に立つビル群のように広告枠が集中している部分もあれば、砂漠のような空白が認められる箇所もあった。その濃淡にはきっと多くの意味が潜んでいるのだろうと、僕は推測した。

スポット案から視線を上げると、英語の問題集が目についた。埃の積もった天の部分に指を掛けると、問題集は錆びついた車輪のようにぎこちなく動いた。時間の経過による劣化とは別に、ある時期、集中的に人の手に触れられたことによって生じた背表紙の破れが、受験生の頃の自分の存在を示していた。

問題集をめくっていると、柔らかく滑らかに送られてゆくページと、固くこわばったまま数枚がいちどきに剥がれてゆくページがあった。何度も読み返したページは手垢が付いて湿り気を帯び、重くなっているはずなのに、実際は絹のように柔らかく、極限まで紙の厚さがすり減ってしまったように感じられた。そうしたページにはたいてい、かつての自分が呪文のように書き連ねた長い解説を、見つけることができた。シャープペンシルによって刻まれた黒鉛は、対向するページとの度重なる接触によってかすんでしまっていたけれども、ところどころでページを穿つほど押し込まれ銀色に光る轍のようになっている箇所も見受けられた。強い筆圧で書かれたそのような解説は、まったく歯が立たない問題に対して叫ばれた復讐の予告でもあった。絶対に次は許さないという、優等生のプライドがそこに刻まれていた。

食事だと呼ぶ家族の声も放置して、僕は次々に問題集を開いていった。めくれたページや消えかかった蛍光ペン、シャープペンシルの芯の匂い、そのすべてが懐かしかった。卓上ランプがじりじりと唸り、夢中になって問題集のページを追う僕の姿を照らし出した。時折、机の上に置いたスポット案に目を落とした。僕はまだ、この紙の中身について何もわかっていない。四角い紙面のひと隅が折れ、電灯の加減で机の上に小さな三角の影を作ったスポット案は、息を潜めて僕の動向を見守っているようだった。

(*)

相馬に教えられた資料室は、東都通信社のビルの二階と三階のあいだの踊り場に面していた。ドアを開けると、古い紙の匂いがした。扉の脇のスイッチは固く、指に力を入れて押し込むと、電灯は思い出したように何度か瞬き、それから波が広がってゆくみたいに室内を照らし出した。図書館の書架のような棚にそれぞれのメディアの名前が記載されていた。「テレビスポット」という名札の掲げられた大所帯な一角の前で僕は立ち止まり、「関東エリア」とラベルの貼られた段ボールを、一番下の棚から引きずり出した。降り積もった埃の海のなかを茶色い箱は気重そうに滑り、あとには灰色の轍が残った。段ボールからファイルを取り出すと、長いあいだ箱の底で沈殿していた空気がかき混ぜられ、古い紙の匂いがいっそう強くなった。「十年連続視聴率三冠達成記念」という派手な装飾がかすれつつあるファイルだった。ここ数年分のさくらテレビのスポット案を胸に抱えて、僕は資料室を後にした。

年明けからオフィスに居残っている人の数はまばらだった。僕は空になった隣のデスクにかけて、大きくテレビスポットの案を広げた。はためく洗濯物のように連なったスポット案は伸び伸びとして、段ボールのなかでもみくちゃにされながらできた無数の折り目は、明るい電灯の下で誇らしげに見えた。

クライアントの名前と線の引き方を確認しながら、案を一つずつ見ていった。広げた一列を見終わると、すぐに次の列を並べた。とにかく枚数を見ることだ、と僕は思った。一問をバカ丁寧に解くよりも、多くのイメージを頭のなかに入れ込んで、全体像と傾向を掴むことだ。東都通信社の持つテレビスポットの案件数は多くなかった。持ち出してきた紙の束はじきに無くなり、僕は資料室と媒体部を往復することになった。何度目かに階段に出た時に、そこにわだかまっている空気の冷たさが、額に滲んだ汗を気付かせた。

何日か、そうした試みを続けた。考古学者が古代の遺跡に刻まれた暗号に目を凝らすように、僕は縦長のタイムテーブルに描かれた広告枠の線を追った。大学時代の古生物学の実習で、教授から言われた言葉を思い出した

「化石というのものは、あると思わなければ見つからないのです」と、その教授はのんびりとした口調で学生たちに語っていた。きっと十年後も同じことを話すのだろうと思わせる口ぶりだった。僕がその実習で小さな巻貝の化石を見つけると、教授は満足そうに頷いたものだった。

最初に見つけたのは、渋谷の残したわずかな痕跡だった。広告料金の安いクライアントに対して、視聴率の低い深夜の広告枠が、より多くあてがわれていることに気付いたのだ。初めてその傾向を見出したとき、僕は熱い興奮が胸に湧き上がってくるのを感じた。

一つ符丁がわかってくれば、あとは芋づる式だった。さくらテレビがライバル局よりも多くの発注金額をもらっている優良クライアントに対しては、シーズンごとにオンエアされる人気番組のピークタイムに、しっかりと枠が取られていた。年間を通じて安定的に出稿してくれるクライアントに対しては、一つのキャンペーンで偏った線の引き方がされたとしても、別のキャンペーンのスポット案はバランスの良いものになるように配慮されていた。すべての線に意味があった。渋谷の引いた線を辿りながら、僕は感心するばかりだった。

スポット案は、いわばテレビ局からクライアントへのメッセージだった。何の理由も無しにひどい線の引き方がなされることはありえなかったし、偶然に素晴らしい案が出てくることも決してなかった。そこには必ず、さくらテレビの意志があった。お前の意志はなんなんだよと渋谷に言われたことを、僕は思い出した。

窓際に置かれたファックスが唸りはじめると、僕は神妙な気持ちでそのおんぼろの機械の前に立ち、ご託宣でも受け取るかのように、渋谷が送ってきたメッセージを読むのだった。刷りたてのスポット案は資料室のなかで干からびていたそれとは違い、トースターから飛び出した食パンのように温かくて、電気で動く機械の匂いが染みついていた。紙から放たれる余熱を頬に感じながら、僕はスポット案に顔を埋めて、広告枠の行方をくまなく眺めた。特に渋谷のメッセージが濃厚に感じられる部分には丸を付けて、翌日のさくらテレビ訪問の際にフィードバックするようにした。これ人気ドラマの最終回じゃん、取るの難しかったでしょとか、この日は祝日だから昼の視聴率が上がると踏んで入れてくれたんだよなとか、そういった声を掛けると、渋谷はまあなと言って鼻の下をこすった。ヤハタ飲料の料金交渉はいっこうに進む気配が見えなかったけれども、案の内容について話すときには、渋谷は嬉しそうな顔をするのだった。

改案もひっきりなしに発生していた。渋谷は依頼のほとんどを撥ねつけていたが、一度だけ、希望どおりの改案をしてくれたことがあった。それはティーンエイジャー向けのフタバ製菓のキャンペーンで、垣内からは日曜日の朝の青少年向けアニメの枠がどうしても欲しいと要請されていたものの、三十分の番組の持つ広告枠の本数は限られていて、最初にさくらから届いた案には、当然のようにそのアニメ枠は入っていなかった。僕は二日ほど頭を抱えたあとで、渋谷をそのアニメの主人公に見立て、「シブヤ様の必殺の改案でフタバの平和は守られた!」とナレーターが金切り声を上げている、下手くそな漫画を描いて持って行った。建設的な考えが何一つ出ないなかで、苦しまぎれに打った手ではあったけれども、城ケ崎がその漫画を妙に気に入り、僕にアニメの枠を譲ってやれと言いだした。「お前には敵わねえな」と渋谷は小さな声で呟いてコンピューターを操作し、大手の代理店のクライアントのために取っていたアニメの枠のうちの一本を、フタバの枠に付け替えてくれた。僕はこの一件から、渋谷を動かすためには城ケ崎にうんと言ってもらわなければならないことを、なんとなく理解した。たった十五秒の広告枠のたかが一本、スポット案の絵柄のほんの数センチの変化だったけれども、僕はその改案を心から誇らしく思った。

僕が案のことを理解しはじめ、その線の奥にさくらテレビの意図を読み解けるようになってくると、渋谷は次第に上機嫌になっていった。局で、あるいは深夜の電話口で、渋谷は事あるごとに「いいじゃん、田上」と僕を褒めた。渋谷にそう言われると、僕はいつも高校時代の球技大会を思い出すのだった。

硬式野球部の補欠部員だった僕は、各クラスから代表者を選出して行われる球技大会で、最後の一人に入るかどうかというラインの選手だった。大会の種目は、たいていドッジボールだった。もちろん試合の中心となって活躍するのは、サッカー部やバスケットボール部で鳴らした運動神経抜群の奴らだったけれど、自陣のメンバーが減り劣勢となった試合の終盤で、敵の油断から出たイージーなボールをしっかりと胸にかき抱いた時には、そうした一軍の連中から気まぐれな喝采を浴びたものだった。

「いいじゃん、田上」と彼らは口にした。悔しいことに、僕にはその言葉が嬉しかった。もちろん、そのままボールを投げることはありえなかった。ボールを投げる人間というのは常に決まっていた。僕は複雑な心境で、ボールを一軍の人間に明け渡した。修学旅行のバスの最後部座席や、ファミレスのボックスシートを占領できる人種と、球技大会で最優先にプレーできる人種は同じだった。渋谷はきっと、そちら側の人間だった。

僕はひたすらスポット案の解読に熱中した。悔しさと誇らしさの入り混じった感情が、毎晩のように僕をタイムテーブルに向かわせた。渋谷はいよいよ喜び、「お前ほど俺の案をわかってる奴はいねえ」とまで言うようになった。僕が理解したいのは、スポット案などではなかった。僕が理解したいのは、渋谷という人間だった。彼の向こう側にいる、一軍という人種のすべてだった。

(*)

時計の針が深夜零時を回ると、激務を誇る東都通信社のオフィスにも、さすがに人影が少なくなってくる。媒体部の入口近くの壁に取り付けられた六台のテレビは、既に電源を消されて黙り込んでいた。フロアを端まで見渡すと、人のいないデスクに残されたパソコンの灰色が、奥の白い壁に浮き上がって見えた。日中は賑わっているこの建物も、結局は人を容れる器にすぎないのだと実感できるこの時間帯が、僕は好きだった。

目の前のパソコンのキーボードの上に、渋谷から送られてきたスポット案が置かれてあった。ニチリュウという、全国にスーパーマーケットを展開するクライアントの案だった。流通系のクライアントは総じて広告料金が安く、さくらテレビが好まない業種の一つだった。そうした条件の良くないクライアントは、しばしば枠取りを後回しにされ、案の内容が崩れることも多かった。

今回は特にひどかった。二月の第三週から三月の第二週まで続く四週間のキャンペーンの広告枠は、ごっそりと二月に寄せられており、どの週にもバランスよく広告枠を入れてほしいという僕の依頼は、あっけなく無視されていた。ゴールデンタイムに入った広告の本数は通常よりもわずかに多かったものの、その枠取りは特定の番組に集中していた。スポット案の中央やや下のあたり、魚の小骨のように身を寄せ合っている数本の線に、渋谷の苦い表情が透けて見えていた。僕は想像上の渋谷と睨み合い、腕を組んだ。

「えらく難しい顔をしているけど、大丈夫?」

突然後ろから投げ掛けられた太い声に、思わずびくりと肩が震えた。邪気のない馬のように頭を突き出して、相馬が案を覗き込んでいた。

「またフタバのときみたいな案が来たのか」

冗談交じりに、相馬は口にした。言葉が出てこなかった。相馬に案を見られたくなかった。垣内が激怒したあの一件のように、また僕が何もできない人間だと思われてしまうのが嫌だった。

ちょっと見せて、と言う相馬に、僕はしらふで裸身を晒すような恥ずかしさを覚えながら、スポット案を手渡した。そんなにひどくないと思いますよ、と、覆いかぶせるように声を上げた。相馬は頷きながら案をひととおり眺めると、僕に質問してきた。

「お前は、さくらがどうしてこういう案をつくってきたと思う」

相馬がこの案をどう思っているのか、彼の表情からは読み取れなかった。クライアントに納品するに足るクオリティだと考えてくれたのなら、問題は無かった。だが、この案ではダメだ、改案させろと言われることは避けたかった。改案は非常に難しいことだったし、勝ち目なくさくらテレビに立ち向かって、ふたたび惨めな姿を晒すのは耐えがたかった。かと言って、送られてきた案を何も考えずに営業に納品する無能な局担だとも思われたくなかった。

この案に込められた渋谷の意図を、相馬に語りきってみせることだ。そうすれば、相馬が僕に改案を指示することもないし、何も考えていない人間だと思われることも避けられる。

隣のデスクの椅子を勧めると、相馬はどっかりと深く腰を掛けた。語りかける的は大きく、静かに話しはじめたつもりだったが、想像以上に声が張った。

「そもそもなんですが、さくらにとってこのニチリュウは要らないクライアントなのだと思います。広告料金が安いし、ライバル局に比べて発注金額も少ない」

要らないクライアント、という言葉にも、相馬の顔色は変わらなかった。自分の口調が次第に滑らかになっていく。

「しかも、これは繁忙期の三月に掛かるキャンペーンです。この期間なら、もっと良い条件で枠を買ってくれるクライアントがたくさんいる。繁忙期の枠は優良クライアントに残しておきたいから、ニチリュウの広告枠の大部分が、二月に寄せられてしまっている」

お前のとこのクライアント以外にも、うちの枠を買いたいクライアントは山ほどいるんだ。機嫌の良い時にも悪い時にも、渋谷は同じ言葉を繰り返し吐いた。それは今や宗教の口伝のように僕のなかに染み込んでいた。

渋谷は、お前ほど俺の案をわかってる奴はいないと言ってくれたんだ。不意に胸が熱くなった。僕は僕のプライドのためにも、さくらテレビがこの案に込めたメッセージを、語り尽くせなければならなかった。

「垣内さんの時のようなトラブルがあって、ニチリュウの発注が無くなったとしても、さくらとしては痛くも痒くもないといったところだと思いますね」

僕が興奮気味に話を終えると、相馬が問いかけてきた。

「じゃあ、お前はさくらテレビの総意として、ニチリュウの発注が無くなっていいと、そう思ってるってことだね」

僕が頷くと、相馬はゆっくりと手を伸ばして、珍しい化石を見つけ出した古生物学の教授のように、案の一部を指差した。タイムテーブルの中央やや下、広告枠が四本固まっている部分だった。

「この〈二一〇〇(ニイイチマルマル)〉のドラマのPTに毎週一本ずつ入ってるけど、何のために入れてると思う」

二一〇〇(ニイイチマルマル)とは、二十一時ゼロゼロ分スタートの番組、もしくはその番組に流れる広告枠のことだった。僕たち局担はしばしば、タイムテーブル上の特定の枠を指すのに、そうした符丁を用いた。

「あんまり視聴率の良くない番組で、枠も余ってるから、入れちゃえと思ってやってるんだと思います」

「お前はこのドラマを観たことがあるか」

頬が熱くなるのを感じながら、首を横に振った。相馬の声は淡々としていて、だからこそ、彼が次にどんな言葉を放ってくるのか、予測できない不気味さがあった。

「じゃあ、このキャンペーンのCMで起用されている女優が誰か、わかるか」

そこまで言われてあっと気付いた。そのドラマの主演俳優は、クライアントがCMに起用している俳優その人だった。

相馬の言葉が続いてゆく。

「お前の言うとおり、さくらテレビの営業部全体で考えれば、ニチリュウに好意的な感情は持っていないだろう。特に上層部は、銘柄の名前と発注規模と広告料金の高低しか見ていないからね」

さくらのお偉方の顔が頭に浮かぶ。大きな交渉の時に、相馬の後についてさくらテレビに乗り込むと、彼らはしかめ面でテーブルにつき、黙々と煙草を吸った。そんな条件でうちの枠を買えるわけないでしょ、というのが、彼らの口癖だった。

「だけど現場の渋谷は、なるべくこの案件を残しておきたいと思ってるんじゃないかな。おおかた、枠取りの比率は二月を厚めにする代わりに、CMのタレントが出ているドラマには集中して引かせてほしいと、城ケ崎あたりに談判したんだと思う。渋谷自身も要らないと思っているクライアントなら、こういう不自然な線の引き方はありえないからね」

相馬は、まるで渋谷が案を作っている現場に居合わせていたかのように、スポット案に込められた意図を分析していった。僕よりも圧倒的に深い読みだった。

「あと、期間比が前に厚いってことだけど、ニチリュウは二月末にセールをやるんでしょ? 渋谷は、二月に厚くなる分にはクライアントも怒らないと思ってるんじゃないかな。仮に、あいつがそんなこと考えもしないで馬鹿みたいに二月に入れているんだとしたら、逆にお前は、この案をクライアントに通すための理屈を見つけてやらないといけない。セール時期の広告投下を強化しました、と言えば、クライアントだって悪い気はしないよ」

相馬の言葉の一つひとつに僕は打ちのめされていた。局担になって、うっすらと心に感じていたこの世界の不条理さが、いま改めて自分のなかに言語化されつつあった。

広告代理店のバイイング部門は、板挟みの極致のような場所だった。広告枠を少しでも安く買いたいクライアントと、少しでも高く売りたい媒体社。良い枠に広告を流したいクライアントと、劣悪な枠を売りさばきたい媒体社。利害の相反する両者の狭間に立ちながら、それぞれが納得する取引を成立させることが、媒体担当の使命だった。

それは、僕のように誰にでもいい顔をしたい人間にとっては、地獄のような環境だった。なにしろ、クライアントの言葉をテレビ局に伝えただけで、ひどく邪険な扱いを受けるのだ。局担たちはまるでピンポン玉のように、局に行っては罵倒され、会社に戻っては怒鳴りつけられるのだった。そのうちに、自分までもが局の人間になったつもりで、このクライアントは案の内容についてうるさいとか、安すぎて要らない案件だとか、そういった言葉を平気で口にするようになる。その方が圧倒的に楽だからだ。局の肩を持ってさえいれば、交渉が上手くいかなかった時にも、局のせいにすることができた。垣内の改案の一件のように、上からの圧力で無理やり代理店が意向を通した時には、局担と営業局員は一緒になって「あいつらはわかってねえよな」と喫煙室でくだを巻いた。

だが、そうした言葉を口にする権利は、本当はテレビ局の人間にしか無いはずなのだ。広告代理店の人間は、局の現場にそう思わせるような取引しか成立させられなかったことを、恥じるべきなのだ。

相馬との問答で、僕はさくらテレビの側に立つことで自分の身を守ろうとしていたことを自覚しつつあった。板挟みのなかで、フリッパーに身を任せるピンボールのように無責任に跳ね回っていれば、傷つくことを回避することができた。しかしそれは、プロとしてあるべき姿勢では無かった。

「どれだけ局の奴らが要らないと言ったって、お前だけは、そう思っちゃいけない。ましてや、渋谷はお前が営業に語れる武器をくれているんだ。お前が先に諦めてどうする。局担の言い方次第で、この紙切れ一枚の価値は、高くも安くもなるんだよ」

立ち上がった相馬の声が遠くなる。二一〇〇(ニイイチマルマル)に引かれた四本のPTを見つめる。城ケ崎やらその上の部長連中やらにあれこれ難癖をつけられながら、この線を並べてきた渋谷の顔が思い浮かぶ。眉をしかめてはいたものの、その表情は、決して苦々しいものではなかった。上気し、充実した顔だった。

あいつの意志を、受け止めることができなかった。僕にはそれが何よりも堪えた。

この仕事を任されて初めて、悔しいという感情が心に湧いていた。僕は誰よりも渋谷のことを理解できていなければならなかった。スポット案という戦えそうなフィールドをようやく見つけたのに、僕はそれを簡単に投げ捨てようとした。そんな自分が許せなかった。

そして、と僕はさらに先を想像した。もしこの案に営業がうんと言ったとしても、営業がクライアントに通せなかったら、僕はどうすればいいのだろう。結局、改案はできないとクライアントの要望を突き返すのだったら、それは局の側につくことになるんじゃないだろうか。

僕が頭を抱えていると、一度は立ち去りかけた相馬がまた戻ってきた。悩みつづけている僕に対して、のんきそうにしているのに腹が立った。

「お前はさ、広告代理店の価値ってなんだと思う」

相馬の問いに対して、僕は額に手を当てたまま、わかりませんと答えた。そんなもの、無いんじゃないですか、と言ってしまいそうになるのをなんとか押しとどめる。相馬の次の言葉を待ちながら、僕は心もち睨みつけるような目つきをしていたんじゃないかと思う。

「それは、意志だよ」

相馬はまっすぐに僕の方を見てしゃべった。イシ、という言葉は爽やかな音の感覚を伴いながら僕のなかに落ちてきた。

「どこまで言っても、クライアントとメディアは水と油だ。僕たちがマージンやキックバックをもらう理由は、その水と油のあいだに立って、めんどくさい交渉を成立させられるからだ。そういった交渉が成立するために必要なのは、広告代理店で働く人間の意志に他ならない。マーケだってクリエイティブだって、みんなそうだと思うよ。僕たちは、テレビ局にとっての番組や、クライアントにとっての商品といったみたいな売り物を持ってない。こうしたいという意志だけが、広告代理店の価値なんだと僕は思う」

一息に語ったあと、相馬はいまだ反抗的な目を向ける僕を見て、ふふんと笑った。

「その意志とやらはどうやって発揮するんだよ、と言いたそうなお前に、ちょっとしたテクニックを見せてやろう」

「なんですか、それ」

「〈枠回し 〉だよ」

「ワクマワシ……?」

業界用語らしい、どことなく古い感じのする音で構成された言葉をおぼつかなく繰り返すと、相馬は諦めと懐かしさの入り混じったような、不思議な笑い声を上げた。

「僕たちみたいな規模の代理店じゃなかなか出番のない、トラディショナルな時代の産物さ」

(*)

もう一つ案を持ってこい、なるべくお前が改案したいやつだ、と相馬に言われて、僕は二月から三月にかけて広告のオンエアが予定されている、フタバ製菓のスポット案を持っていった。渋谷に宛てて下手くそな漫画を描いた、あの続きのキャンペーンだった。渋谷はバラエティの番組の枠を使いながら、ターゲットであるティーンエイジャーの視聴率を取るべく精一杯の配慮を見せていたが、改案騒動の後、さくらへの案にねちっこく口を出すようになった垣内が、このままの内容の案を受け取ることはないだろうと、僕は懸念していた。

だが、一度は改案を依頼したものの、渋谷は応じてはくれなかった。フタバはもう要らねえよ、お前のとこの営業がまともに仕切れない案件に俺らが付き合う筋合いは無いから、そう言って、渋谷は案を突き返してきていた。納品日は、明日に迫っていた。

フタバの案を手渡すと、相馬は楽しそうに呟いた。

「ふうん、ティーンか。なかなかの難問だ」

僕は相馬の左後方に立ち、二つのスポット案が机の上に並べて置かれるのを見ていた。相馬の肩幅は広く、背筋はしっかりと伸びていた。太い指が引かれた線の上を這ってゆくさまは、熟練した医者の触診を思わせた。

「お前は、フタバの案をどうしたいの」

ぶ厚い肩越しに、不意に投げられたバスケットボールのような、存在感のある声が飛んでくる。

「本当は、ゴールデンタイムや土日のアニメを取りたいところですけど、そこは競争率が高いので、狙い目は金曜日や祝前日の深夜の、中高生が夜ふかしをしている時間帯だと思います」

なるほどね、と言いながら、相馬は抽斗を開け、ボールペンを取り出した。静まりかえったオフィスの空気に、おもちゃの箱をひっくり返したような、賑やかな音が響く。

「さくらの奴らはさあ、なかなか改案してくれないよな。なんでだと思う」

相馬は独り言のように口にした。ボールペンが軽やかに走り出す。僕は、暗く静まったパソコンのスクリーンにぼんやりと映る、相馬の手元を見ていた。

テレビ局を訪れて、改案の依頼を持ち込んでも、さくらの連中がパソコンに向き直って広告枠の状況を確認してくれることは滅多になかった。聞こえないふりをされることもあれば、帰れ帰れ、と言われることもあった。クソみたいな案件でいっちょまえに改案依頼してくんじゃねえよ、と怒鳴られることもあった。そんな時、僕はどうすればいいのかわからなくて、営業部の真ん中で立ちつくした。見知らぬ年配の営業部員が、お前邪魔なんだよ、と言って強い力で僕にぶつかってきた。危うく倒れこみそうになる僕を見て、さくらの連中は笑った。

フロアの向こう側まで聞こえるように、なにとぞお願いします渋谷さんって叫べ、そうしたら改案してやるよ、と城ケ崎から言われたこともある。僕が言われたとおりに声を張り上げると、フロア中からうるさい、黙れ、と怒りのこもった声がこだまのように返ってきた。城ケ崎や他の部員たちは笑いを噛み殺しながらパソコンに向かって知らないふりをしていた。名前を出された渋谷が真っ赤な顔をして僕の胸を突き飛ばした。改案は一本だけしてもらえた。二六三〇(ニイロクサンゼロ)PT、深夜帯に深々と突き刺さった一本を、二十五時台に引き上げる、小さな進歩だった。

「お前は、あいつらが意地悪だと思うか」

相馬の言葉は、濃い色をした泥のような感情が混ざり合ったまま沈殿している僕の心をかき乱した。テレビ局は局担にとって、親鳥のような存在だと思っていた。僕が我慢して済むならそれでいいと、ずっと自分に言い聞かせていた。

だが、へらへらとした振る舞いでやり過ごそうとしても、スポット案の締め切りは途切れることなく発生し、料金交渉は執念ぶかい敵国との戦争のように連綿と続くのだった。心の底で、あいつらは意地悪だ、もっと大目に見てくれたっていいのにと叫んでも、誰も救ってはくれなかった。

何も言えずに俯いた僕に向けられた、相馬の声は優しかった。

「意地悪でわがままな奴らだと思うよね。だけど、彼らのくすぐりどころってのも実際にはあるんだよ」

視線を上げると、相馬はスポット案に何やら書き込んでいるところだった。

「彼らは、営業部内で枠を取り合わなきゃならない。渋谷がお前の持っていった改案を受けるなら、彼は城ケ崎や他の営業部の連中から、枠を融通してもらわなきゃならなくなる。それはそれで、渋谷にとっては大変なことなんだよ」

僕の隣で、僕よりも大きくトッピングの乗ったオムライスを頬張っていた渋谷の横顔を思い浮かべる。城ケ崎が僕の漫画に爆笑していた時の、渋谷のほっとしたような表情を思いだす。営業部で怒鳴り散らされている大きな身体を目にして、あいつも大変だなと月並みな感想を抱くこともあった。渋谷は厳しいけれども良い奴だった。彼には報いたいと僕はいつも思っていた。

相馬の腕の動きが緩やかになっていき、やがて停止した。投げ出されたボールペンがデスクの上を転がった。

「こんなふうに、東都のクライアントどうしで枠をやりくりしてしまえば、渋谷が局内で枠どりの交渉をする必要はなくなるのさ」

相馬が錠前のようにがっちりとした指で摘み上げた二枚のスポット案を、僕は覗き込んだ。ボールペンのきつい赤色は、相馬が元の案に何を書き加えたのかを、わかりやすく教えてくれていた。

ニチリュウに入っていた、二月二十六日金曜日二四五〇(ニイヨンゴーゼロ)ステブレの線にバツが付けられ、代わりに手書きの線で三月二日水曜日一四三〇(イチヨンサンゼロ)PTが書き加えられていた。一方、フタバの案には、ニチリュウの案の上で消された二月二十六日金曜日二四五〇(ニイヨンゴーゼロ)が手書きで入り、元々記載されていた三月二日水曜日一四三〇(イチヨンサンゼロ)PTの線にバツ印が付いていた。

「……これって、それぞれのクライアントの枠を交換するってことですか?」

すぐには事態を飲み込めなくて、おそるおそる相馬に尋ねた。

「そう。当然、僕たちは設計図を描くだけで、実際に交換する作業はさくらの人間に依頼することになる。その時には、それぞれのクライアントに不利益が出ないようにすることはもちろん、あいつらが心を込めて入れてきた枠をぞんざいに扱わないよう、細心の注意を払う必要があるけどね」

僕は再び、相馬の作った案に見入った。ターゲットである主婦たちの観るお昼の情報番組を狙い、かつ三月の枠を増やしたいニチリュウと、ティーンエイジャーが夜更かしをする休前日の深夜が欲しいフタバ製菓の、両方のクライアントのニーズを、相馬の描いたスポット案は満たしていた。よくできたパズルのようなものだった。

「こんなやり方、どうやって思いついたですか」

僕が聞くと、相馬は嬉しそうな、それでいて寂しそうな、奇妙な表情を浮かべた。

「お前も担当している、広島局の弓削さんから、昔教わったんだよ。他店はこういうふうにやってるから、お前も真似してみろってね」

僕には完全にマスターすることはできなかったけどね。二つくらいなら回せるけど、それ以上になると難しい。もっと案件の多い大手でないと、できないこともある。相馬はそう言って、遠くの方を眺めた。相馬にも、悔しくてたまらない過去があったのだろうかと思った。

話が終わったあとも、僕がまだ半信半疑といった表情をしていたのだろう、相馬は携帯電話を取り出すと、ボタンをいくつか操作して、僕の方に突き出した。

「この案のとおりに改案するよう、渋谷に伝えてくれ」

相馬の手のなかで、呼び出し中のサインは瞬時に通話中に切り替わった。逡巡する間もなく、僕は携帯電話を取り上げて耳に当てた。早押しクイズで早口言葉の競争でもしているかのような慌ただしさで、「お疲れ様です渋谷です!」という声がスピーカーから飛び出してきた。

「ああ、夜遅くにごめん、田上だけど」

「ん、なんだお前か。なんで相馬さんの電話で掛けてくんだよ。心臓に悪いだろ」

相馬からの電話ではないとわかって、渋谷は電話口の向こう側であからさまに安堵していた。

「わりい。ちょっと今から言う作業やってくんない?」

おそるおそる、この枠とこの枠を交換したいのだと切り出すと、「お前、妙なことを覚えたな」と訝しみながらも、あっけなく渋谷は了承し、電話は切られた。改案の依頼が受理されたことを伝えると、相馬は頷き、残業もほどほどにしておけよと言い残して帰っていった。僕は相馬の残した二枚のスポット案を見比べながら、渋谷から改案が届くのを待った。

十分ほど経って、古ぼけたファックスが鳴りはじめた。誰もいないフロアに甲高い音を響かせて少しずつ案を吐き出してくるファックスは、宇宙から来た親しみの持てない生き物のように思えた。出てきたスポット案は僕の指の間をすり抜け、床に落ちてから思い出したようにくるくると丸くなった。

ファックスの電熱をまとわりつかせたスポット案の首元を押さえ、再び巻き上がることの無いようにデスクの上にはりつけにしながら、僕は案の内容を確かめた。間違いなく、相馬の描いた線のとおりに、改案が行われていた。
少しずつ、腹の底から興奮が沸きあがってきた。懐かしくて、確信に満ちた感情だった。受験勉強をしていた頃に、何度も味わった感覚だった。このパズルなら、僕にもできる。誰にも迷惑をかけずに、僕が僕である価値を証明することができる。

深夜の誰もいないオフィスのなかを、資料室まで駆けてゆく。古ぼけた電灯に照らし出された段ボールには、いつもと変わらず大量のスポット案が眠っていて、その全部が僕には宝物のように思えた。一枚たりとも無駄にしないと心に誓った。

過去問を解くみたいにして、僕はスポット案どうしを見比べ、相馬がやったような枠回しを試みていった。渋谷のスポット案はさまざまな角度から僕に問いを投げ掛けていた。ニチリュウのように週ごとの広告枠の比率の調整を求める問題があり、フタバのように特定の日時を狙う問題があった。人気番組の一本釣りを狙わせる問題や、平日の同じ時間帯を地引網のように狙い撃ちさせる問題もあった。新たな角度から問題を打ち込まれるたびに、僕は苦悩し、またこの上なく楽しい気分になった。

次々に飛びかかってくる問題に対応するうちに、すべての問題に対して、渋谷の意図を想像することから始める必要のあることに気付いた。物理的に交換可能な枠があったとしても、その交換の対象となる枠に渋谷が格別の思い入れを抱いているのであれば、枠回しは見送らねばならなかった。相馬が言ったように、枠をぞんざいに扱ってはいけなかった。渋谷と案をやり取りした時間は、決して無益なものではなかったのだ。この時の作者の気持ちを想像せよ、かあ。僕はどこかで聞いたようなセリフを呟いて、ふふんと笑った。

頭の隅に、ヤハタ飲料の交渉がちらつきはじめていた。広告料金の割り引きを実現しながら、休日に大量の枠を積むことが、与えられた課題だった。当たり前のことだが、広告料金と案のクオリティはトレードオフの関係にあって、両方を満たすことは基本的に不可能だった。相馬から渡された交渉用の資料のなかから、東都の扱いになる前のヤハタ飲料のスポット案を引っ張り出す。何の変哲もない、凡庸で、そして素晴らしくバランスの取れたタイムテーブルが、そこには広がっていた。どこかの番組に線が偏ったり、悪意をまとった線の羅列で深夜帯がぐしゃぐしゃに塗りつぶされていたりすることのない、のどかなスポット案だった。その案は僕に、数頭の牛が点在している平和な牧草地を思い起こさせた。この時の条件のまま、以前の代理店で扱いが継続されていれば、僕も渋谷も苦しむことは無かっただろう。

だが、そうしたありもしない未来に思いを馳せるのは、終わりにしなければいけなかった。僕はヤハタの交渉が成立した後のスポット案を頭のなかにイメージした。活きの良い魚が漁港に大量に水揚げされた時みたいに、土日に無数の枠が氾濫している様子を想像した。そうした週末の枠と等価で回せる枠は何か、そうした枠を持っているクライアントはどれかを考えた。思考には際限がなかった。眠くならないまま、その日は明け方近くに会社を後にした。

再び、案を眺める日々が始まった。ファックスから出てくるスポット案を受け取りながら、来る日も来る日も、僕は渋谷の案に込められた意図を考えつづけた。交換できる枠があれば、積極的に枠回しを試みた。そうした作業に着手できるのは、たいてい陽のすっかり落ちきった夜のことだった。冬の弱い陽光は、東都通信社の周りの背の高いビルに遮られて、夕方の早いうちから、ビルの二階に位置する媒体部のフロアには届かなくなってしまうのだった。人工的な光に満ちた冷たい夜に、僕はシマのデスクを埋め尽くすくらいに案を並べて、枠を回しつづけた。交換可能なペアを見つけるたびに、僕のなかのわだかまりが氷解して、消えてゆく心もちがした。誰もいないオフィスのなかで、雪が降るみたいに少しずつ静かに、心のなかが満たされていった。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?