『局担』 #1

普段は打ち合わせに使われている、フロアの真ん中を占めるオープンスペースは、テレビ局から贈られた嵩の高い花束で左右を囲まれ、今日はその内側を覗き込むのが困難なほどだった。

コーヒーを片手に打ち合わせに興じている、クリエイティブやマーケティングの部署の人間たちをよそに、胡蝶蘭の鉢々で描かれた白線の内側には、濃色のスーツに身を包んだ男たちが、厳かに集いつつあった。オープンスペース奥のスクリーンに向かって左側、ちょうど花の香りが鼻をくすぐるあたりに位置する僕の席からは、花と花の隙間を通して、その境界の内部を窺い知ることができた。

やがて、参列者たちの前に一人の男が進み出る。武田さんだ、と列から声が上がる。白髪の下に穏やかな表情を浮かべているものの、一瞬たりとも気を抜くことを許さない冬山のような雰囲気を、武田はまとっていた。

「みなさま、今日はわが東都通信社の新オフィスのお披露目会に集まっていただき、ありがとうございます。これだけのテレビ局の方々にお越しいただいて、嬉しく思います」

静まりかえったオープンスペースの空気が並べられた花束の間から染み出して、フロア全体に広がってゆく。談笑していた人たちが、きまり悪そうに声を落とす。決して背が高くはない武田の影は、実際よりもはるかに大きく、背後の真っ白なスクリーンに映し出されていた。

「スマートフォンが世の中に溢れ、アイオーティーとか、人工知能とか、そういった言葉が飛び交っておりますけども、我々は何十年も前からマスメディアの方々と仕事をしてきました。こんな風にきれいで新しいオフィスになりましたけど、そうした古くからの関係性を、我々としては引き続き、大事にしていきたいと思っております」

白い花々に囲まれ、黒や紺のスーツを着て直立不動で前を向く男たちの姿に、僕は思わず葬式を連想してしまう。数年前までは、自分もあの列に加わっていたのだ。それは、広告代理店の〈局担〉と呼ばれるポジションで、終わりの見えない戦いに明け暮れた日々だった。

「私が入社して最初に任された仕事は、みなさまもご存じのとおり、局担でした。毎日のように局さんに通って、広告料金や枠取りについて喧々諤々の議論をさせてもらったあの日々が、サラリーマンとしての私の土台になっております」

挨拶に少しだけ間が空いて、列席者の咳払いの音が大きく響いた。

「どれだけ世の中が変わり、デジタル化が進もうとも、メディアバイイングという仕事が消えることは無いと私は信じています。我々の運命は媒体社のみなさまとともにあります。お互いのビジネスを素晴らしいものにするために、これからも力を貸してください。よろしくお願いいたします」

深々と頭を下げた武田に大きな拍手が降り注ぐ。淡々と語られた挨拶の最後の部分に、わずかだけ血のような悲痛さが混じったように感じたのは、僕の気のせいだったのかもしれなかった。


しかし、抜けない棘のような違和感は、甘ったるい花の香りとともに、セレモニーが終わった後もフロアのなかを漂っていた。それらは凍結され、触れてはいけない禁忌のマークが貼られていたけれど、僕はそれについて考えざるをえなかった。

局担は、いつか滅びる仕事なのではないか。

僕が局担をやっていたあの頃よりも近くに、死の足音は迫っているのではないだろうか。

今日中にクライアントに提出しなければならない、テレビ広告の分析資料を作成しながら、僕はゆっくりと過去を振り返りはじめていた。

あの頃、僕はどんな気持ちで、局担をやっていたのだろう。

パソコンに入っているシステムが唸りを上げて、大量のデータを吐き出してくる。数万行にわたる数字の羅列は、今日も日本のどこかの街を飛び回っている局担たちが命を懸けて買い付けてきた広告枠の、無機質な集積だった。僕はその情報の塊を、機械的なマウスの動きで処理しやすい形に整え、インストールされたデータ分析ソフトに投入していった。

僕が局担をやっていた意味って、何だったんだろう。

ぽん、と音がしたように思った。デジタル画面をはみ出して上下左右にどこまでも続く数字の列から浮かび上がった、データ分析の完了を告げるポップアップが、視界のなかでぼんやりと霞んでいた。

書き残しておかなければ、いけない気がした。

たとえいつか滅びてしまう旧式の世界だったとしても、それは僕という人間の価値を、うねりつづける渦潮のなかで絶えることなく問いかけてくれた、掛けがえのない時間だったのだから。


(**)


「田上ってさ、いる意味あんの?」

タクシーの後ろに飛び去る街灯の影が、暗赤色に染まった渋谷の横顔の上を、規則正しいリズムで滑ってゆく。追い越した車の、幅の広い四角い影が、時折その列を乱した。大きなトラックが後方へと流れ去った後には、東京湾の上空を染める冬の初めの夕暮れが、ひときわくっきりと車内を照らし出すようだった。

さくらテレビの屋上で点滅する真っ赤なランプは、冷たい大気を貫いて、ずいぶん遠い地点から僕たちの目的地を指し示していた。衣ずれのような走行音に覆われた車内に、渋谷の粘ついた声はよく響いた。

「たぶん城ケ崎さんはやってくれねえぞ。このタイミングで〈案〉を出せとか、殺されるよ」

「わかってる。すまん。お前がうちに来てる時に話せてよかった」

営業の言うことママ受けてんじゃねえよ、と、ほとんど息だけの呟きが隣から聞こえる。

タクシーが大きな橋を渡ってゆく。遠目からだと長方形の白く眩しい塊に過ぎなかった社屋の灯りが、次第にフロアごとの輪郭を持ちはじめる。十二階。スポット営業部からは今日も、決然とした面持ちの光が外に漏れ出していた。

さくらテレビにタクシーを横付けしてドアを開けると、湾岸を巡回する強い海風が吹き付けてきた。人口の島に潮の匂いは絶望的に不釣り合いだ。ビルの根元にあたるこの位置からでは屋上の赤いランプは見えず、代わって営業局のフロアの白っぽい灯りが大きくせり出して見えた。年末の特番のポスターがべたべたと貼られた柱の間をすり抜けてゆく渋谷の巨体に続いて、僕もエントランスに入る。エレベーターの壁にもたれると、鞄を抱きしめ、目を閉じた。

厳しい夜になりそうだった。


胃の裏側のあたりから突き上がってくる不快で自然な欲求に従えば、どれだけ楽になれるだろう。そんな考えが頭をよぎるたび、僕は意志の力でそれを握り潰した。意志そのものをこれほどまでに意識したことは初めてだった。

目の前の皿に、こぶし三つ分ほどの大きさのオムライスが残されていた。運ばれてきた時には小さな枕ほどもあった巨大な黄色の塊の大部分はすでに腹のなかに収めたものの、その残党はここにきて水を吸ったように存在感を増していた。皿の左側に残された明太子ソースはすでに乾燥を始めている。この料理が配膳されたのがいつだったか、飛びそうな意識のなかでは時間の感覚を明瞭に保つことができない。

「おい、絶対に吐くなよ」

渋谷のかすれた声が右耳に届いた。彼の前にも大きな皿が置かれていた。小さなハンバーグを王冠のように乗せたオムライスは、テーブルの縁に腹が接するほど膨らんだ渋谷の身体によく似合った。

僕の目の前で、スポット営業部チーフの城ケ崎が煙草に火をつけている。灰の落ちていくあたりに置かれた皿は、ソースの僅かな痕跡を残してすでに空になっていた。三百グラムのステーキを乗せた巨大なオムライスをものの十分で胃袋に流し込む芸当は、アメフトの大学選抜選手だった渋谷でさえ、真似のできるものではなかった。

「しかし今日納品してほしいって、お前バカなの?死んだ方がいいよ?」

城ケ崎の口から発せられた言葉の意味を理解しようとすると、ひっきりなしに出るげっぷに乗じて、まだ消化液に浸かっていない柔らかな食物が、喉から飛び出してきそうになる。思考も視覚も嗅覚も、衣服を感じる触覚さえ邪魔だった。右手のスプーンに乗る物体を、食べ物だと認識してはいけなかった。これはただの腕の上下運動だ、前に進むために足を交互に出すのと同じ部類の行為なのだ、そう念じながらオムライスを食道に放り込む。二度目の投入で食道から胃に繋がるハッチが閉まらなくなり、白米と卵黄が顔を覗かせたように感じて、僕は重力の助けを借りるべく天を仰いだ。

「渋谷もさあ、こんな奴さっさと追い払ってこいよ。今忙しいのわかってんだろ?」

上長の言葉に、渋谷の身体がわずかに揺れる。人間が死んでいく時に聴覚だけは最後まで残るという言葉の意味が間近にあった。目の前の皿からようやくハンバーグを片付けた渋谷は酸欠の金魚のように口を開け、残されたオムライスを表情の消えた顔で凝視していた。

さくらテレビから道路を挟んだ向かい側に位置する洋食屋チェーンには、家族連れの姿がちらほらと見えていたが、透明のガラスの衝立を隔てた奥側の喫煙席に座る客はまばらだった。僕たちは縦に長い長方形をした店の左上の頂点を占めるテーブルにつき、城ヶ崎が長方形の短辺側を背にしたソファ席に座って、店内を睨みつけていた。気の早いクリスマスソングが流れるレストランのなかで、黒いスーツを着こんだ男たちが脂汗を滴らせている姿は異様だったが、店員にとっては見慣れた光景なのか、オーダー時の「全部特大で」という渋谷の消え入りそうな声にサイズ感を念押しされることもなく、接客は粛々と行われていた。

僕は顎を突き出したまま、横目で窓の外を見やる。十二階の灯りはさっきタクシーで乗りつけた時よりも強くなっていた。煌々とした、満月のような灯りだった。案を出してくれとすがりついた僕に、城ケ崎がにやつきながら、晩メシでも食いながら話すか、と持ちかけてきた時から、こうなることは覚悟していた。限りある広告枠に自社のクライアントの広告を入れてもらうために、局担は自分の腹にメシを収めてみせるんだ――。先輩から冗談混じりで聞かされていた〈食ハラ〉というカルチャーを、こんなところで味わう羽目になることは、思いもよらなかった。

残りのオムライスを食べやすいように割ると、スプーンからはみ出るほどの塊が六つできた。口当たりを変えるために卓上の七味唐辛子を振りかけて、兎のように口のなかに詰め込んだ。消化管の奥から突き返されぬよう、少しずつ飲みくだしてゆく。最後のひと塊を食道に落とすと、もはや腹に溜まった内容物を吐き戻すこと以外は何も考えられなくなっていた。隣で渋谷も完食していた。「城ケ崎さん、ハンバーグ乗せはキツいっす」と泣き声を上げている。城ケ崎はぽんぽんとおざなりな拍手をして、ゆっくりと立ちあがった。人が限界を超えて食べさせられた時にどうされると辛いのか、熟知しているとしか思えない緩慢な動きだった。

満員電車で立ちながら腹痛を我慢するのが耐えがたいのと同じで、立ち止まるとすぐに吐き気が込み上げてくる。僕は城ケ崎と渋谷の先に立ち、幼児が両親を先導するように、さくらテレビへと戻る陸橋を渡っていった。一番きついのは直立を強いられるエレベーターだった。操作パネルの前に立った瞬間、足が震えているのがわかった。数十秒かそこら立ちつづけるうちに、震えが身体の下の方から這い上がってきて頭蓋骨を揺らした。背後の城ケ崎に気取られないように必死で振動を抑えつけると、脳のなかの血管が何本かぱちぱちとショートしたように感じた。

十二階の営業部に入ってゆく。城ケ崎がパソコンを立ちあげ、乱暴な動作でいくつかキーボードを叩くと、〈スポット案〉と呼ばれる広告のオンエア予定表が、プリンターから出力されてきた。ほらよと差し出された案を手に取ると、吐き気で視界は霞んでいても、厳しい内容であることがすぐにわかった。同じ曜日や時間帯に、テレビCMのオンエアを示す線が集中している。ひどいところでは同じ番組に七本もCMが流れることになっていた。

城ケ崎は僕の反応を見て楽しんでいるようだった。

「クソ案なのはしかたないでしょ? 別に、返してくれてもいいんだよ?」

僕にはそれ以上、案の内容について考えている余裕は無かった。顔を動かさずに目線だけを紙から上げると、見据えられた城ケ崎はたじろいだ表情を浮かべた。今、自分はどんな顔をしているのだろう。ろれつの回らない舌でなんとか、ありがとうございました、と告げ、城ケ崎の顔を見ないまま踵を返した。

渋谷が入り口近くのデスクに突っ伏していた。大きな背中が苦しそうに上下している。いつもは辛辣な言葉を投げかけてくる渋谷も、こんなふうに動けなくなることがあるのだ。そう思った瞬間、これまで身体の下の方に押し込んでいた吐き気が一気に胸のあたりに充満してくるのがわかった。僕は局員に怪しまれない程度の早足で、必死にトイレを探した。なるべく十二階から離れたフロアのトイレに駆け込みたかったけれど、一つ下のフロアが限界だった。乱暴に便座を押し上げてひざまずく。スポット案が濡れないよう頭の上に捧げ持ちながら、吐いた。押しとどめようのない、官能的な嘔吐だった。吐くものが無くなっても、身体の痙攣はしばらく止まらなかった。救いがたい心地よさが身を包んでいた。

おそらく数分間はその拝むような姿勢でいたのだろう。やがて、便座に置いていた肘の感覚が戻り、意識のピントが少しずつ合っていくのを感じた。正座に近い格好をしていたためか、足が強く痺れていた。目の前の水面は真っ黄色に染まり、嘔吐物が唇に糸を引いていた。

――俺は何をしているのだろう。

営業にもその向こう側にいるクライアントにも、渋谷にも城ケ崎にも、これと言って文句があるわけではなかった。ただ自分はこの仕事を全うできているのかが知りたかった。これが局担の仕事なんだろうか。これが自分の価値なんだろうか。苦手な飲み会で誰にも受けない一発芸を無理やり披露させられるよりは、吐くほど食わされる方がまだマシだった。両手に残ったスポット案をぼんやりと眺める。ひとまずはこれが戦利品だ。そう思うことにした。

トイレを出る時に鏡を見た。目が血走り、瞼が腫れあがったひどい顔だった。局長の武田から無理やり観せられた任侠もの映画に出てくる、傷だらけの身体で抗争相手に突撃するヤクザのようだった。さっき城ケ崎はこの顔に怯んだのだろう。そう思うとおかしさが込み上げてきて、僕は一人で鏡に向かってにやりとした。鏡のなかの男は、泣きはらしたような瞼の下で、少し目を細めただけだった。

(*)

入社したての頃は無我夢中だった通勤の道も、力の入れどころさえ掴んでしまえば退屈なゲームに成りさがる。たとえばそれは降車地点からオフィスまで最短で到達できる車両の選定であり、人の往来のないドア横の空間のいち早い占拠であり、向かってくる人波を最小限の動きでかわすフットワークの習得であった。降車駅の上りエスカレーターで小休止する僕の右側は、一刻も早く会社に辿り着こうとする人たちの、途切れることのない列で覆われていた。

地下鉄としての歴史の浅いこの路線は、有刺鉄線のように張り巡らされた古参の路線たちを頭上にやりすごすべく地中深くに潜っており、地上まで昇るためにはかなりの時間が必要だった。会社の高度が近づいてくるにつれ、僕はさくらテレビからもらった案のクオリティが、じわじわと気がかりになっていた。

昨日、会社に戻ると、営業の垣内は既に退社していた。僕は「明日お話しさせてください」と書いた付箋を案に貼り、垣内のデスクに置いて帰った。通常の納品スケジュールを無視して案をもらう以上、ひどい内容になってしまうことはわかりきっていた。事情を説明して、それでも理解してもらえなかったらどうしようか。自分より二回りも年齢が上の垣内の、たわんだところを見たことがない細く鋭い目を思い浮かべて、僕は暗い気持ちになった。

地上出口から吐き出され、大きな国道沿いに数分歩けば、もう東都通信社だった。かつて、このあたりにはだだっぴろい空き地が点在し、近隣で最も高い建物だった東都通信社の自社ビルの最上階からは、目の前を走る国道が滑走路のように地平線まで抜けていくのを、眺めることができたという。今やその自慢の社屋は、IT企業ばかりが入る背の高いオフィスビルに囲まれており、当時の面影は、僕が今しがた通り抜けてきた地下鉄の通路の脇に飾られた、数枚の古い航空写真に残されているのみだった。

会社の玄関の掲示板に貼り付けられた業界紙のページに、「テクノロジーは広告を変えるか? 人工知能が決定する未来の広告の投資配分」という見出しが踊っていた。この前、先輩の高橋が、広告業界の若手社員の参加するプレゼンテーションのトーナメントで優勝した時のテーマだった。僕ははにかむ高橋の写真に見つめられながらエントランスを通り抜け、階段を駆け上がって二階の媒体部に入っていった。

デスクにつくと、上司の相馬がのっそりと近づいてきた。首や腕、さらには胴まわりが太く、動作ものんびりとしている割に、媒体社との交渉の場では的確に急所を突いて相手をやりこめる相馬は、どことなく歴戦の潜水艦を思わせた。

「田上、垣内さんが七階まで来いって呼んでたぞ。なんか怒ってたみたいだけど」

やっぱりか。僕が顔をしかめたのを見て、相馬は手を差し伸べる必要があると考えたのか、じわりと距離を詰めてきた。太くて固そうな腹が座っている僕の目の前に迫ってくる。

「大丈夫?垣内さんの案件で何かあったら危ないからさ」

垣内の持つフタバ製菓は、中堅どころの代理店である東都通信社において、非常に大きな額の広告出稿を誇っていた。広告代理店の収益の生命線である、出稿金額の多寡に応じて配当されるマージンやキックバックは、こうした巨大スポンサーの広告投下に、大きく依存していた。

相馬に事情を説明すれば、事態を収拾してくれるのは間違いなかった。だけど、僕が取ってきた案のことは、僕が解決したかった。

「大丈夫です。一人で行きます」

僕は早足でエレベーターホールに向かった。通常の納期より一週間も早く案を納品したのだ、そこまでひどい叱られ方はないだろうとたかを括ってはいたものの、エレベーターの階数表示が七階に近づいていくのに合わせて、心臓は嫌な脈を打ちはじめていた。

営業部に足を踏み入れた瞬間、垣内の大声が落雷のように空気を震わせた。

「田上! お前、何やってんだよ!」

僕は慌ててフロアを見渡し、素知らぬふりでデスクに向かいつづける好奇な背中の連なりの向こうに、案を握りしめて仁王立ちしている垣内の姿を見つけた。大したことではないのだと周囲に弁明するかのように、ゆっくりと垣内のもとに向かう。営業部にいるすべての人間が、距離を縮めていく僕と垣内に注目しているようだった。

「お前さあ、何か言うことねえのかよ!」

僕が近づくと、垣内は右手で鷲掴みにしていた案をデスクに叩きつけた。昨日の夜、祈るような気持ちで貼りつけた付箋が衝撃で外れ、床に舞った。

「付箋にも書きましたが、このタイミングで案を出すと、どうしてもこういう枠取りになってしまって……」

「お前はこの案見てなんとも思わねえのかよ! クライアントにプレゼンする方の気持ちになってみろ!」

「ですから、急きょプレゼンが組まれてしまった事情を考慮して、厳しいスケジュールのなかで出してもらった案なんです」

垣内は僕の持ってまわったような抗弁を聞き、確かめるように唇を舐めた。

「そうか。んじゃいいよ。フタバの案件、これからさくらには絶対に発注しねえから」

これだ。最後は必ず、こう言われてしまう。僕は何も言えずに、デスクに叩きつけられて奇妙な角度に折れ曲がったスポット案を見つめた。

フタバ製菓のような大口のクライアントが発注を止めることは、毎年さくらテレビから鷹揚に振り込まれる巨額のキックバックが、もらえなくなってしまうことを意味していた。もちろんそれは、東都通信社の経営に関わる大きな問題となり、営業部と媒体部のマネージャーたちが、苦々しい顔で解決策を話し合うことになるだろう。だからこそ、そうした非常の事態を起こさせてはならなかった。

僕たち局担は、媒体社や社内の営業から罵られながらも、泥まみれになってボールを抱くゴールキーパーのように、局への発注を確保しているのだった。札束でできた巨大な機械が万力のように人を押しつぶし、流れ出た体液の分だけ組織が潤ってゆく。それが広告代理店のバイイングビジネスの仕組みだった。

本当は、垣内にわかってほしかった。昨日、嘔吐物にまみれながら、この案をさくらテレビから奪ってきたことを。その一部始終を、城ケ崎からぶつけられた雑言の数々を、ビデオに録って見せてやりたかった。だが、そんなことをしても、フタバの案のクオリティが改善するわけではない。僕は俯いたまま、くしゃくしゃになった案を折り直しながら、垣内が望んでいるであろう言葉を絞りだした。

「今日もう一度さくらに行って、〈改案〉してもらいます」

改案とは、スポット案を局に差し戻して、内容をより良いものに変えてもらうことだった。これだけ無理を言って出してもらった案の場合、改案できる見込みはまず無かった。それでも、僕にはその言葉を口に出す以外の選択肢は、許されていなかった。

やるなら最初からそう言え、と垣内は毒づいた。

「夕方までにまともな案にならなかったら、出稿は止めるから」

判決を下すように言い放った垣内はパソコンに向きなおり、そのまま二度と僕の方を見なかった。スクリーンに映るこわばった顔からは、怒り以外のどのような感情も、読み取ることができなかった。


うなだれて下りのエレベーターに乗り込み、閉ボタンを押す気力もなく立ちつくしていると、ドアが閉まるまぎわにマーケティング部の高橋が走り込んできた。色鮮やかに刷り上がったプレゼン資料を何部か抱えている。僕の二年先輩である高橋は、業界の人間なら誰もが知るような広告賞を総なめにしており、いまや東都通信社を代表するスタープレーヤーの一人だった。

操作パネルに覆い被さるように立ち位置を変え、汚く折り目のついた案を胸に抱いていると、高橋がひとり言のように呟いた。

「局担ってのも大変だね」

僕は恥ずかしくなった。

「見てたんですか」

「さっき営業部で打ち合わせをしててね。会議室に入ってたんだけど、垣内さんの声はガラス越しでもよく聞こえる」

高橋は心から同情してくれているようだった。

「田上さ、マーケとかクリエイティブとか興味ないの? 局担なんて、枠買い付けてくるだけだし付加価値もないし、人工知能にでもやらせた方がマシだよ」

息が詰まった僕に、じゃ、と言い残して、高橋は四階で降りていった。空いた扉はなかなか閉まらなかった。エレベーターが再び降下を始めた後も、高橋の言葉はずっと耳に残っていた。

媒体部に戻ると、僕は壁に掛かる行動予定表のステータスを「外出」に替えて、階段を降りた。踊り場を折り返したところで、玄関から入ってきた風が勢いよく頬を撫でた。十二月の浮かれた街から地下鉄へと潜るエスカレーターは、いつにもまして長い時間、僕を乗せているように感じられた。


都心を潜行してきた地下鉄は、東京湾に差し掛かる手前で地上へと姿を現し、上昇する線路に乗ってそのまま上空へ飛び出してゆく。ガラスの向こうの暗闇に映っていた自分の顔が突如として後退し、代わって白っぽい湾岸線の風景が前面に現れる。飛行機の離陸にも似た高揚感に車内が包まれるこの瞬間は、僕にとってはつかの間の休息の終わりを告げる合図でしかなかった。

――もうすぐさくらか。

眼下では無数のタクシーとトラックが、蟻の行列のように橋の上を行き交っていた。昨日、渋谷とこの橋を渡ってさくらテレビに向かったのだった。大先輩から伝え聞くバブルの頃の広告代理店の華やぎは失われつつあり、僕のような現場の担当がタクシーに乗る機会は、依然として力を保ちつづけているテレビ局の人間と行動を共にする時くらいしかなかった。

目を前方に転じる。橋を渡り、線路が大きく右にカーブしたあたりが、さくらテレビの最寄り駅だった。それは、慣れない空中を心細げに伝ってきた地下鉄の車両が、ひと時だけ羽を休める休憩所のように見えた。

吸い込まれるようにドアから出てゆく学生や家族連れの姿に続いて、僕はホームに降りた。

駅から歩いて五分ほどで、さくらテレビのエントランスだった。警備員に目礼し、駅の改札に似た機械にアイディーパスをこすりつける。局担に配属され、上司の相馬から、これでお前も業界人だ、とおどけてパスを渡された時、僕はちっとも嬉しいと思えなかった。もともと、テレビ的などんちゃん騒ぎには興味のない人間なのだ。芸能人が数多く往来し、誰もが知る有名番組の制作スタッフが楽しそうに駆けずりまわっている、そんなさくらテレビに身を置いていると、僕はいつも息の詰まる思いがした。

十二階でエレベーターを降りると、営業部から軽いざわめきが流れてきた。まだ昼過ぎなのに、社内でパーティーでもやっているのだろうか。鞄から案を取り出して、改案を切りだす言い回しを頭のなかで復唱すると、営業部に入った。渋谷が上機嫌でいることを、心から願った。

昨夜、渋谷が机に突っ伏していたあたりに差し掛かって、足が止まった。聞き覚えのあるリズミカルな音楽と、引きも切らない笑い声が、僕の耳に届いてきた。

さくらテレビの営業部の面々が、半円を描いて椅子に腰かけ、前のめりになって何かを見物していた。城ケ崎が二列目に陣取っている。渋谷もいた。椅子の数が足りないのか、後方のデスクに大きな尻を半分だけ乗せて座っている。

半円の中心で、見覚えのある業界最大手の広告代理店の局担が、テレビでよく見かける女芸人の真似をしておどけていた。床に置かれたスピーカーからは、芸人の登場シーンに使われるバックミュージックが流れている。服装やかつらはもちろんのこと、特徴のある太い眉まで念入りに化粧で再現した、クオリティの高いモノマネだった。

「やっべえ、クソおもしれえ!」

城ケ崎が腹を抱えて爆笑している。渋谷が壊れたおもちゃのように手を叩いている。見たことのない笑顔が、半円のそこここで花開いていた。僕は少し後ずさりして、柱の陰に身を隠した。右手に持った案をもう一度広げて、そこに見入っているふりをしたけれど、頭のなかは耳から入ってくる楽しそうな笑い声に埋めつくされていた。局担は、お前には決してできない仕事なんだ――。そう言われている気がして、僕の両手は知らぬ間に案を強く握りしめていた。

ようやく音楽が止まって、誕生日祝いを頂きありがとうございました、と弾んだ声がした。どうやら今日は、先ほど芸を披露していた局担の誕生日らしかった。車座からは大きな拍手が起こり、椅子の引かれる断続的な音とともに「いやあ、芸のクオリティがさすがだわ」「俺も今度やろうかな」「似合わねえよ」といった声が上がっている。

そうした声の一つひとつを振り払うように、僕は弾みをつけて物陰から歩き出した。あたかも今来たばかりのように周囲を見渡して、渋谷のもとに向かう。先ほどの出し物についての感想を述べあっていたのだろうか、営業部の同期と朗らかに談笑していた渋谷は、僕の姿を認めるとあからさまに不快そうな顔をした。渋谷が不機嫌になればなるほど、僕は機嫌を取る犬のように、自分の顔が情けなく緩まるのを感じた。俺だってやれるはずだとどれだけ言い聞かせても、さっきの爆笑と興奮を目撃した後には、自分の価値なんてどこにも無いのだとささやく声が、頭のなかにこだましてしまうのだった。

「何?」

「いや、昨日もらった案のことでちょっと相談がさ……」

頼りなくへつらう声色を、城ケ崎が乱暴に断ち切った。

「あれ、お前なんでいるの? 昨日もう来んなって言わなかったっけ」

マフラーを首に巻いた城ケ崎は、先ほど大喝采を浴びていた局担を隣に伴っていた。

「渋谷、今からコイツと昼飯行くから、そんな奴ほっといて来いよ」

「渋谷さん、早く来てください! お待ちしてます!」

僕には目もくれずに甲高い声を張りあげたその局担は、テレビ局の人間が好みそうな、嫌みがなくて本能のままに振る舞えるようなタイプに見えた。自分が一生かかってもなれないタイプだった。渋谷が、うす、すぐ行きます、と答えると、城ケ崎たちはふざけあいながらフロアを出ていった。彼らがフロアのあちこちで営業部員たちから声を掛けられているのを目の当たりにして、僕は自分の浮かべた笑みが水分を失い、顔にへばりついたように感じた。

「んで、案がなんだって?」

聞くだけは聞いてやるという様子で反り返った渋谷に、僕は神妙な口調で語りかけた。本当に営業はバカだとか、城ケ崎さんがキツいなかで出してくれた案だってのは俺はよくわかってるとか、そういった緩衝材を挟みながら、なんとか改案してもらえないか、フタバ製菓の発注が出なくなるとお前らも困るだろうからという言葉を、会話の終わりに滑り込ませた。子どもに対して「お前のためだ」とうそぶきながら保身に走る親のようだった。心のなかでは、お願いだから案を直してくれと手を合わせていた。

僕が話し終えると、渋谷は「それで終わり?」と念を押して、椅子から立ち上がった。鞄から財布を取り出して城ケ崎たちを追おうとする渋谷に、僕は追いすがった。もう、お前らのためだから、なんて取り繕っている余裕はなかった。

「ちょっと待てって。マジでヤバいんだ。今話したじゃん。発注出なくなるよ」

渋谷は少しだけ、憐れみのような表情を浮かべていた。

「お前がヤバいのはよくわかったよ。まあ、がんばってねって感じ。発注、無くなってもいいよ。こんなに納品日が早くて案の内容にうるさいクライアントなんて、うちもいらない。城ケ崎さんも同じこと言うよ」

あ、ちょっとどいて、と、渋谷は僕を押しのけ、机の引き出しを開けた。ライターを取り出してしゅこしゅこと着火の具合を確かめている渋谷に、僕は我を忘れて言葉を投げつけた。

「お前のとことうちとの関係はどうなるんだよ」

口に出すべきでない言葉であることはわかっていた。営業部に流れていた猥雑な空気が、一瞬その動きを止めた。渋谷はライターを机に置いてこちらを向いた。明らかな怒りの表情を浮かべていた。

「こんなにキツいクライアントばっかり持ってこられるんだったら、俺らがお前らに払ってるマージンとかキックバックに何のメリットがあるんだよ! 条件の良い取引持ってくるからそういうのやってんだろ。文句あるなら偉い人同士で話させろよ。現場はこんな案件いらねえんだよ!」

僕が渋谷に語れる言葉はもう残っていなかった。営業の垣内が上司の相馬に怒鳴りこみ、クライアントに土下座している自分の姿が脳裏に浮かんだ。がくりと頭を垂れた僕のうなじのあたりに、渋谷の昂った声が、銃弾のように突き刺さった。

「お前さあ、伝書鳩なんだよ! 人の言ってることママ持ってくんじゃねえよ。営業の言ったこととか、会社が決めたこととかじゃなくて、お前の意志はなんなんだよ! じゃないとお前が局担やってる意味なんてねえんだよ」

かさり、とライターを取る音がした。憤然とした足どりで、渋谷が横を通り過ぎていく。僕は顔を上げられなかった。デスクに置かれた女性もののかつらと衣装が、視界のなかで少しずつ滲んでゆくのも、僕にはどうにも止めようがなかった。

(*)

僕は子どもの頃から、極上の優等生だった。小学校低学年の時には、母親に向かって得意げに「僕は先生から好かれるんだ」と語っていたそうだ。人から褒められることが嬉しかったし、よくできたねと言われることが嬉しかった。そして、優等生たるもの、人を嫌ってはいけないし、課されたテストには全力で挑まねばならないし、任された仕事は果たさねばならないと信じていた。

僕の親は二人とも教師だった。彼らはよく、生徒たちをどのように扱えばいいのかについて、居間のテーブル越しに意見を交換しあっていた。なんとなく点いているテレビから流れる流行歌のように、ものごころつく前から先生たちにとっての子どもの理想像を聞かされていた僕は、いつの間にか、優等生でいつづけることを自らの生涯の目標として掲げるようになったのだと思う。

中学校に上がると、僕の優等生ぶりにはさらなる磨きがかかっていった。定期テストでは百点を取り、運動部ではキャプテンを務め、教師から頼まれれば生徒会長もやった。自分の所属している場所で、誰からも認められるような人間になることが、優等生である僕にとっての至上命題だった。そしてその使命は、生徒の数の少ない田舎の中学校では、勉学で圧倒的な成績を収めさえすれば、容易に果たすことのできるものでもあった。

高校に入って初めて、僕はそうした自分の存在が脅かされるのを感じた。受験を経て選抜されたクラスメートたちは、僕と同じかそれ以上に勉強のできる人間ばかりであり、そのなかで一目置かれるためには、学力以外の何かを持ちあわせていなければならなかった。多感な高校生の時期において、それはノリのよい馴れ合いの力、仲間意識を感じさせるようなコミュニケーションの力だった。そうした技巧に優れた連中は、学校では〈一軍〉と呼ばれていた。

僕は必死になって、一軍のメンバーが観ているテレビドラマを観、聴いている音楽を聴き、彼らがいつも真似をしているお笑い芸人のネタを勉強した。蜘蛛の糸のように降りてくる彼らの気紛れなパスに機敏に対応し、「お前、おもしれえな!」と認められることで、誰とでも話せる優等生という自分の本分が果たせる機会が来ることを、僕は夢見ていた。

ある休み明けの日に、僕はいよいよ努力の成果を示す時が来たと思った。化学の実験の時間に、一軍の連中の二人と同じグループになった。彼らはテーブル越しに、前日にさくらテレビで放送されていたドラマの話に興じていた。ナトリウムの鮮やかな黄色の炎が傾くほどの勢いで身を乗り出して、僕は彼らの会話に割り込んだ。その時自分が何と発言したのかは、もう覚えていない。ただ、恐ろしいほどの沈黙があたりを覆い、冷たい視線がこちらを撫でた後は、何事もなかったかのように二人の会話が続いていったのを覚えている。その後、もう何度か話に入ろうとしたけれど、「わかったから、もう黙ってな」とでも言いたげな浅い笑顔を向けられて、僕は沈黙せざるをえなかった。実験に集中するふりをして、課題として与えられていた金属の炎色反応の色を調べあげ、ろくに授業に参加していなかったその二人に教えてやると、彼らはサンキューと言ってふざけあいながら教室を出ていった。それまでの人生において、完璧な優等生を自負してきた自分の、決定的な敗北だった。

それでも、僕はなんとか態勢を立て直そうとした。一年間の行事予定表には、二学期に合唱コンクールというイベントが記載されていた。ここで主導権を握るんだ。誰もイニシアチブを取らない学級会で、僕はあくまでしぶしぶという体を装いながら、指揮者の候補に手を挙げた。このポジションなら、真面目にやってさえいれば、きっとみんなと話せるようになるはずだと、僕は信じていた。

はたして、指揮者の役目は無事務めあげることができた。良くも悪くもない点数を取り、決勝戦に進むこともなく、僕たちのクラスの出番は終わった。打ち上げ会場のファミリーレストランに向かいながら、みんなからお疲れ様と労ってもらえるだろうと、僕は期待していた。

だが、そんな期待は簡単に打ち砕かれた。自由に決めていいはずのファミレスの席は、既に特定の人間に占拠されていて、近くに座ろうとすると、お前はあっちだ、と追い払われた。僕は手持ち無沙汰を紛らわすため、ひたすらオレンジジュースを飲み、出てきたポテトを食べた。皿に残った揚げものの滓をつまみあげて食べていると、女の子たちがあからさまに嫌そうな顔をした。誰も僕に指揮の話などしなかった。一軍の連中の飲んでいる辛口のジンジャーエールが、とても大人びた飲み物のように感じた。

やがて僕は、「誰とでも話のできる優等生」という理想像を打ち砕いた彼らに、憧れの混じった憎悪の感情を向けるようになった。その複雑な感情は、ハードな受験勉強を大いに推進させた。自分の至らない姿を白日の下に引きずり出してくる天敵たちが、一人もいない場所に行きたかった。僕は、誰もがお前には無理だと口を揃えた難関大学の理系学部に合格することで、彼らに永遠の別れを告げられたと思った。

だが実際のところ、僕は彼らに別れなど告げられていなかったのだ。大学のキャンパスで、髪と眉を茶色に染めて大きな声を発している男たちとすれ違った時、僕は自分が意図的に彼らを避けていることを感じた。食堂の一角を占拠して猫のように戯れている男女の集団を、遠巻きに眺めていることもあった。軽蔑という表向きの感情の下には、原始的な恐怖があった。グロテスクな昆虫を見たり、知らない異国の文字を目にしたりした時に感じるのと、同じ類の恐怖だった。それは、自分には理解できないメカニズムで動いているものへの恐怖だった。

大学生活は楽しかった。生物系の研究室に入った僕は、魚やトカゲやサルたちの生態について学んだ。そうした生き物の行動への好奇心が、人間というより複雑な生物への興味を喚起するのは必然だった。心のどこかには、損なわれた自尊心を回復したいという気持ちもあった。学生時代の自分にはとうとうわかりえなかった人種の気持ちを、なんとかして理解したい。無敗の優等生を誇っていた自分がどうして敗北したのか、その原因を突き止めたい。そうした諸々の感情は混ざりあい、僕をマーケティングの世界、広告の世界に向かわせた。

局担への配属を言い渡されたのは、だから青天の霹靂だった。テレビ局というものは、自分が高校の頃に超えられなかった一軍の連中たちを束ねる権化のようなイメージだった。ぬくぬくとしたオフィスから、データという死んだ標本を眺めながら、傷つくことなく一軍の連中を分析するという目論見は外れた。局担として働くということは、僕にとってはさしずめ、文化人類学者が未踏の島に暮らしながら現地の風習を分析していくような、体当たりの行為だった。


今でも脳裏に焼き付いているのは、配属の翌月に開催された、さくらテレビ恒例のゴルフ旅行の記憶である。

土曜日の朝、ホームを埋め尽くしたさくらテレビの関係者たちは、新幹線のまるまる一車両を占拠して、空席に燃料タンクのように積まれた缶ビールをすさまじい速度で消費しながら、ゴルフコースにほど近い温泉街へと運ばれていった。身体がむずがゆくなる新幹線のシートの臭いに身を沈めながら、未練がましく窓外へと飛び去ってゆく日常の暮らしを眺めていると、休んでんじゃねえよ、と顔にビールの缶を押し付けられた。頬にあてられた金属の表面は冷たく、車両のそこここで鳴るプルトップの開閉音が、銃声のように僕の耳をうっていた。断ることはありえなかった。それは優等生である自分を拒絶する行為だった。おぞましい小旅行への恐怖を打ち消そうと、懸命に僕は酒を喉に流し込み、感覚を麻痺させていった。

目的地に到着し、ドアが開け放たれると、車両のなかからは煮詰められた酒の臭気がどっと流れ出していった。僕は黄色く変色したその空気の流れが目に見えるように思った。乗車待ちの数名の客が顔をそむけている横を、頭から湯気を立てているさくらテレビの関係者たちが、意気揚々と通り過ぎていった。

ゴルフの時だけはアルコール無しで過ごせるはずだ、という僕の読みは甘かった。ホールとホールのあいだに茶屋が現れると、同行者たちは慣れた様子でカウンターに群がっていき、店員が棚から緑色をした瓶を取り出してくると、皆は僕を指さして飲めと囃したてた。直前のホールで最も打数を叩いた罰ゲームとのことだった。もとよりゴルフなどほとんど初体験に近かった僕は、茶屋が現れてくるたびに、その薬のような味の酒を味わう羽目になった。何度目だったか、瓶を捨てようとふらつきながらゴミ箱を覗き込むと、まだ新しいと思われるガラスの瓶が、骨のように粉々になって底の方に散らばっていた。先行する組の仕業に違いなかった。その日、ゴルフ場の茶屋に置いてあった酒のほとんどは、イナゴのように群がったさくらテレビの関係者たちによって、飲み尽くされてしまったのではないかと思う。

そこから先の記憶は、ずいぶん曖昧に霞んでいる。夜の宴会が始まり、三十分ほどで上半身裸になった代理店の局担たちは、乳首に洗濯ばさみを取り付けられ引っ張り合うゲームを強いられた。全身に回った酔いによってずいぶん前から感覚を無くし、痛みを感じなくなっていた僕は、このゲームに圧勝した。あれ、意外とやるじゃんお前、という声とともに、どこからともなく手が伸びてきて、下半身の衣類が剥ぎ取られる。動くと別のところが燃えちまうぜ、という声とともに、たんぱく質の焼ける嫌な臭いが立ち昇った。陰毛が焼かれていた。気が付くと、大広間にいる人間の半分以上が、すでに半裸もしくは全裸の姿になっていた。

世の中では、許されるはずのない行為だとわかっていた。だけど、僕にとっては、目の前の相手を不快にさせないことが、なによりも大切だった。酒は飲めず、ゴルフも下手くそで、笑いを取ることも叶わない僕にとって、いじられることはある種の救済だった。縮れた陰毛は火を当てられると苦しそうに渦を巻き、オレンジ色の一閃を残して焼き切れていった。その鮮やかな色合いは、高校時代のあの炎色反応の実験を思い出させた。呆けたように僕を見やる一軍の連中の表情が脳裏をよぎった。下半身を指さしながら爆笑している人びとの姿は、僕を少しだけ安堵させた。自分だけが傷ついて、それで相手が快くなるのなら、僕はその行為を我慢することができた。

夜の深まりとともに、行為はエスカレートしていった。頭に爪楊枝を刺され、血まみれになりながら水風呂に放り込まれた局担がいた。割り箸を鼻に突っ込まれ、せえのの掛け声とともに掌を下から当てられて、鼻から血を流している営業局員がいた。若手の局員の男性器を局担の口に含ませて喜ぶ上層部の男たちの姿があった。唾液に濡れた男性器は場違いなまでに勃起して、周囲の嘲笑を買っていた。笑い声と喝采がうねりのようにこだまして、僕もいつしかその渦のなかに加わっていた。寝室の掛け軸は破り取られ、温泉の浴槽は栓を抜かれて空になった。すべては酩酊のなかに見た悪夢のようだった。

これが望んだ世界なのだと、僕は何度も自分に言い聞かせた。これがテレビの面白さだ、これが一軍の面白さなのだと、僕は干からびた笑い声を立てて思い込もうとした。酒瓶やら浴衣の帯やらコンドームやらが転がっている部屋の隅に横になっていると、冷たく泡立ったビールを顔面にぶちまけられた。僕はそれを合図のようにして、狂ったようにでたらめな踊りを踊った。一軍の連中が失笑していた。アルコールを飲んで抑圧から解放されることなどなかった。ただ柔らかい感性が、一時的に麻痺するだけだった。それは傷つかないということではなかった。むしろそれよりも性質が悪かった。痛みを感じることなく知らぬ間に付けられた傷は、そのあともずっと、思い出すたびに膿みつづけた。

セパタクローの日本代表だったというとある代理店の局担が、畳に身体を打ちつけながらオーバーヘッドキックを披露して、それが人びとを沸かせていた。僕は生涯、こうはなれないのだった。大して飲めない酒を飲み、自傷しながら幾ばくかの笑いを取ったとしても、決して一軍には届かない。それならば、僕はこのテレビ広告業界で、どうやって生きていけばいいのだろう。楽しくなどなかった。僕は楽しめない自分を強く呪った。さくらテレビの一行はその旅館を出禁となった。それすらも彼らは面白がって、また使える宿が減っちゃったよ、と悪びれない声を上げるだけだった。

それでも、優等生である僕は、仕事を辞めるわけにはいかなかった。与えられた場所で結果を出すことが、優等生の使命だった。高校時代に完膚なきまでに打ちのめされた一軍たちを相手に、僕はもう一度、再戦のチャンスを与えられてしまったのだった。決して退けないリングの上で傷だらけになりながら、僕は立ち往生していた。局担って何なんだ。自分の価値って何なんだ。そう、叫び続けていた。


「お前には意志が無い」と渋谷に突き放された日の午後、帰社した僕の様子を見かねた相馬がすぐさまさくらテレビに乗り込み、垣内の要望どおりの案をさくらテレビに出し直させたことで、この一件は落着となった。

相馬がどんな言葉でさくらテレビに交渉を持ちかけ、改案を成功させたのか、僕にはわからなかった。僕にしかできないやり方ってあるからさ、と、会社に戻ってきた相馬はこともなげに言った。僕には、僕にしかできないやり方など考えられかった。ただこの仕事への無力感だけが心に残った。

(つづく)

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