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『ナイフはコーヒーのために』 #10 最終話

 翌朝に物音が聞こえ、半ば覚醒して音のした居間を見る。柿沼が帰ろうとしているところだった。
「昨日は楽しかったな。後半は寝ちまったけど」彼はバスタオルをたたみながらいった。
「ああ、大騒ぎだった。死ぬほど笑ったよ」
「こういうのは何度でもやりたいもんだ。また呼んでくれるか」
「もちろん」そう答え、柿沼を見送った。
 ほどなく葵も起きてきた。柿沼が帰ったことをいうと残念そうにしていた。
「朝ご飯食べていけばよかったのに」
 バターを塗ったトーストとベーコン、ゆで卵を食べた。久しぶりにコーヒーも淹れてくれた。苦く好ましい味に促され、今日やることに対する覚悟めいた意志を持った。
 お揃いの白いマグカップで同じくコーヒーを飲んでいる葵に、ありがとう、といいかけたが、声にはならなかった。

 出勤のルーチンをいつも通りにやった。倉庫でケースを運ぶのも同じようにした。子供の頃、友達と一緒にチョークで地面に円を描き、その大きな円の上を延々と走り回るような遊びをしたことがある。単調さはかつて快楽だった。その楽しみは何故失われたのだろう。ケースを運び続けることは全くおもしろくない。
 休憩時間になり、作業員たちに混じって食堂に入った。隅の机にアーチーがいたので「やあ」と声をかけた。
「こんにちは。石岡、昨日はいい日だった」
「そうだな。またいつでも来なよ」
「ぷよぷよするか?」
「ああ、やろうぜ」
 彼はコンビニ弁当を広げている。緑茶のペットボトルもあった。立ったままの僕を疑問に思ったらしく、夕食はと訊いてきた。
「やることがあるんだ」
 そう答えて食堂の中央を見た。馬鹿騒ぎをしている一団がある。その中に猿がいて、顔を見ていると気分は荒れた。いつかブチのめしたときよりも尖った、少し苦しいくらいの怒りだ。目が充血したわけでもないだろうが、視界に映るもの全てが赤く色づいた。
 早足で一団に近づく。猿は半分白目を剥いてギャアギャア喋っている。椅子の後ろに立つと、騒いでいた他の連中は僕に気づいて黙った。猿の声だけが止まらない。
「そんでよおおマットあんじゃん? あれで泡踊りな、泡踊り知ってるかあ? ローションでな、もうおっぱいとかプルンプルンでヌルヌル」
 どうやらソープのプレイの話をしているらしい。発情期なのだろう。「あと二回目は、ベッドがあるのな、ベッドでマジ本番ズッコンバッコン」とはしゃぐ猿の髪を後ろから掴んだ。
「ちょっといいか?」
 体を固くし、ようやく黙った。周りの連中が見つめている。怖いのだろうか、猿はビビった声を絞り出す。
「誰……ですか」
「答えろよ、ちょっといいかって訊いてんだよ」
 掴んだ髪を左右に揺り動かす。合わせて頭も揺れる。猿の首の筋肉に力が入っていたからかなり強くやった。抜けた毛が指に絡みつく。不快だ。
 手のひらに猿の後頭部をあて、強く押して顔面を机に叩きつけた。弁当の具が散った。作業着の襟を引くと椅子ごと後ろに倒れ、床から僕を見上げた。
「いてえ……なんすか、石岡さん」
「何が?」
「いや、何がっていうか」
「商品引っかけたよな。僕とアーチーの仕事の邪魔をしたよな。違うか」
 体を起こした猿は怯えきっている。床についていた右手を踏む。コリッという感触が靴の裏から伝わった。短い悲鳴。
「どうなんだよ」
「……すいませんでした」
「でけえ声出せよコラァ!」
 勢いをつけて右手を踏む。せんべいを割るような音がした。今度の悲鳴は長かった。
「ごめんなさい! すみませんでした」
「土下座」
 え、と聞き返してきた。折れた手をグリグリやる。顔を歪めるだけで、もう悲鳴は出なかった。
「謝るなら誠意見せろって、なあ。土下座」
 潰れた手を解放してやる。猿は緩慢に動き、膝をつき、床に両手を揃えた。頭を下げたらサッカーボールのように蹴り飛ばそうと思い、爪先で床をトントン叩いた。
 蹴るのにちょうどいい位置に頭が下り、蹴る体勢をとったときに誰かが叫んだ。
「石岡!」
 どうやらアーチーのようだった。僕のそばまで来て肩に手をかけた。僕は彼の顔を見なかった。
「石岡、これは間違い、だめなこと。僕よく知ってる、人が人を傷つけるは、クメール・ルージュもポル・ポトも間違いだった。石岡も間違うか? あいつらと同じか?」
 静まり返った食堂で、猿が土下座していて、アーチーが説得してくれている。でも僕は薄笑いをしていたかもしれない。
「固いこというなよ。友達だろ?」
 顔を見ないままアーチーにいった。彼は、答えてくれなかった。

 現行犯で捕まるのは初めてではないし、パトカーの中でも僕は平静な気分だった。後部座席の隣で警官が説教をしている。僕は倉庫から離れていく景色を見ていた。
「君みたいなね、世間とか社会とかのルールを軽んじるやつのね、そういうのを相手にしてるっていうのが私らの仕事なんだが。実際厄介なもんなんだよ、犯人は逃げたり暴れたりするからね、命がけなわけだ。君はおとなしかったが、そんなお行儀よくしてたって犯罪だからこれ。傷害罪。聞いてるか?」
 拳で脇腹をこづかれた。肋骨が痛み、顔をしかめる。
「ゆったりとコーヒーを飲む安らぎのために」僕はいった。「ナイフにならなければいけないやつもいるんですよ」
 車内の三人の警官は失笑した。
「君個人の安らぎのための暴力か? それはちょっと、罪が重いなあ」
 僕の隣の警官がいい、彼らは笑い声を立てた。金髪二人のことを考える。僕はまた捕まってでも復讐するだろう。

〈了〉

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