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『ナイフはコーヒーのために』 #2

 だるい雰囲気の中、着替えたアーチーはこちらへ来て「こんにちは!」といった。僕も同じ言葉を返した。彼は手に持っている何かを見せた。
「石岡、ルック、今日これ買った」
 黄色っぽい缶の、砂糖ガッツリのMAXコーヒーだった。「味は甘いか?」
「うん、それはすごく甘いぞ」
 アーチーは少し悲しそうな表情になり、つぶやくようにいった。
「僕、甘いの大きいは、あー、ディスライク」
「嫌い?」
「そう、きらい。半分飲め」
 どうもコーヒーに縁のある日だ。あまり飲みたくはないが、夕食時にもらうことにした。この会社では希望する人数の分の弁当をまとめて買っていて、僕も四百円程度のそれを夕食にしている。ジュースのように甘いMAXコーヒーと、筑前煮とかほうれん草のごま和えなんかがおかずの和食弁当との相性はどうなのか、疑問に思ったもののすぐに解決した。食事中にではなく、食べ終えてから飲めばいい。
 作業着を身につけた連中が持ち場へ散っていく。どいつもこいつもつまらなそうな様子だ。中にはよく覚えている顔もある。内心そいつを猿と呼んでいて、神経に障るから覚えただけだが。
 小さい頃に図鑑で見た類人猿のような顔にもいえるが、頭脳的な面を見てもそいつが一個の立派な人間だとは断言しにくい。弱い者、異質な者を差別する小学生の習性に似た形で、アーチーをねちっこくからかっていたことがあったのだ。モラルなどひとかけらもなく、従って様々な差別語を楽しんで使う。日本語があまりわからなかったその頃のアーチーは、相手にしてはいなかったけれどつらそうだった。
 僕が出しゃばるのもいかがなものかと思いつつ猿退治をした。廊下で見つけた猿の襟首をつかみ、壁に叩きつけて顔にフック気味の五発、既に泣きが入っている猿に、なぜ殴られているかわかるか、と訊いたがわからないとのことなので、馬鹿馬鹿しくなって拳を握る力も抜けてしまい、平手に切り替えて頬をバシバシしばいた。
 ヴェエエエエエと泣く猿を、数人のギャラリーに混じってアーチーが見ていた。僕はブロークンイングリッシュで訊く。
「ユー・トライ?」
 君もやるか、くらいの意味だ。猿の髪をつかんで差し出したが、彼は目をきつくして一言「ノー」といった。暴力を好まないのだ。
 僕たちはそのうち挨拶を交わすようになり、やがて友達になった。母国では外国人向けの中級ホテルに勤めていたそうだから、アーチーは英語がかなり話せる。日本語も日ごとに使える単語が増えていき、いまでは日常会話に不自由することはない。
 その勤勉さを羨ましく思い、どうしてそんなに努力できるのかを訊いたことがある。彼は首をかしげ、できることをしてきただけだ、という意味のことをいった。
 ロッカールームを出て一階の作業場へ行く。だだっ広くて天井も高く、商品である雑貨の詰まったプラスチックのケースがそこら中に積み上げられている。両手で抱えるサイズのこのケースは二階からベルトコンベアで流れてくる。それを回収して台車に積み、倉庫の外へ向けて開けられた巨大なシャッターのあたりまで運んでおく。定期的にトラックがやってきて、あとはドライバーが荷台に入れていくという流れだ。
 この作業を僕は三年以上やっている。経験を買われたのか、少し前に契約社員にならないかという誘いがあったが、断った。悪くはないがよくもない。この倉庫のことはそもそも腰掛け程度のものだと思っているのだ。
 点呼が終わってから百近いケースを運び続け、軍手の汚れがひどくなってきた頃に休憩になった。肩を回しながら持ち場を離れる。軍手を外して手首のところを尻ポケットに入れた。この格好をしている作業員は多い。会社に飼われていることを示すような、僕たちの尻尾だ。
 三階の食堂に直行して隅の流しで手を洗った。給湯室の入口にあるアルミのワゴンから弁当を取り、長い机がいくつも並んでいる中の端のほうを陣取った。弁当のふたを開ける。白米はいつも通りだが、今日は鶏肉のトマト煮なんてものが入っていて驚かされた。ぶりの切り身でも豚肉の生姜焼きでもないのだ。これはまるでイタリアン、作り手に何か心境の変化でもあったのか、それはどうでもいいとしてトマト煮はなかなかいけた。飯が進む。
 がっついているところへアーチーがやってきて、机の向かいに座った。白いビニール袋からサンドイッチとMAXコーヒーを出し、また僕にいった。
「半分飲め」
「待ってくれ、食後にもらう」
 それから五分くらいはお互い食事に専念して、平らげてから缶は開けられた。給湯室にあった安っぽい湯飲みを差し出す。アーチーはゴボゴボと大量に注いでから缶に残ったほうを飲んだ。彼は悲しそうな顔になった。僕も湯飲みに口をつけた。弁当にトマト煮が入っている常ならぬ日には似合う味だと思った。
 常ならぬといえば、その後の作業で班長というかリーダーに怒られた。ケースの中身である商品の数が合わないそうで、あちこち探したところ、この階のベルトコンベアの起点あたりに引っかかっていた。それを取って事は収束したが、こういうハプニングは珍しい。
 急いで駅へ行けば終電に間に合うという時刻まで働く。作業後、支度をして建物の外へ出て、来たときと同じように同僚たちに混じって歩いた。

 キャバクラや風俗店に頼らないでいられるということは、男にとってちょっとしたプライドになる。柿沼がいっていたから確かなことだろうし、例えば僕の場合にも合致する理論だ。あいつもまったく大したやつだ、などと考えながら、マンションの部屋の玄関で出迎えてくれた恋人にただいまという。
「ビーフストロガノフを作ったの、あと鮭のウハーも」そういって台所に立ち、葵は夜食の準備を始めた。
「ロシア料理か」
「これってけっこう手間かかってるからね、しっかり味わってもらうよ」
 はいはい、と生返事をし、居間の床に座り込んだ。
 目の前の白いちゃぶ台はきれいに拭かれている。それでも所々に取れないシミや細かな傷があり、見ていると葵がここに来た頃のことをいろいろ思い出す。買って間もなかったちゃぶ台はあれから古びていったのだ。換気扇と食器の音が聞こえる中、浮かんでくる記憶に対し胸中でコメントをつけていた。
 ここに越したあと、初めて部屋に上げたときはこういっていた。
――広いね。都内でこんな間取りは贅沢だよ。
 確かに3LDKは調子こいてる。でも古いから家賃は安いし。
 元から同棲することが決まっていたので、三日後には泊まり込んできた。
――ふつつか者ですが、なんつって。
 なんつってが余計だっつの。いいけどさ。
 その次の日曜、引っ越し業者が運んだ段ボール箱を開けながら振り向く。
――空き箱で家作っていい? 喧嘩したら家出するから。
 他に行くところはないのか。不憫です。
 今度は桃色のあれこれを思い出していたら表情に出たらしく、台所からこちらを覗いた葵に指摘された。
「物欲しげな顔して。またエロいこと考えてんでしょ」
「いいだろ別に!」
「悪いとはいってないよ。まあほら、食べて」
 ちゃぶ台に夜食が置かれた。こんな時間に食事をとるのは僕だけだから、出された皿も椀もスプーンもフォークも一人分だ。フォークをビーフストロガノフに差し込む。パセリを散らした具の下に白米が見えた。葵がいった。
「いただきますは?」
 腹が減っていたので無視して食べた。彼女は少しむっとしたようだったが、料理を褒めたら機嫌が直った。実際これらのメニューはうまいのだ。飯ものと汁ものだから満腹感も十分だ。野菜が少ないのが難点か。まあ野菜ジュースでも飲めばいい。
 平らげ、腹をぽんぽん叩いた。
「ふーっ、ゴチ」偉そうにいった。
「君はガツガツ食べてくれるから気持ちいいよ」
「そういうものかな」
 葵は食器を片づけようとして手を伸ばし、僕はその手を握った。目が合う。
 食ってやって寝る。労働以外の物事はそれだけで十分だ。

(続)

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