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『千両役者浮世嘆』 第十七幕

第十七幕

 白衣越しのやわらかな体に、どれくらい抱きしめられていただろう。フラッシュバックが去り、冷や汗も引いて、俺は落ち着いてきていた。もういいよ、という。タチバナ先生はゆっくりと体を離した。
「少し横になる?」
 そう休むことを促された。体がこわばっていたようで、腕や脚など、あちこちが疲れていた。俺は黙ってベッドに横たわった。
 放課後まで横になっていて、うたたねをしていた。部活で怪我をしたという生徒が来て、タチバナ先生の治療を受けてまた去ったあと、俺はベッド横のカーテンを開けた。
 教室に行ってくる、といって鞄を持った。心配そうな顔に、もうだいじょうぶ、といって笑いかけた。
 下校する生徒たちに紛れて教室へ向かう。教室近くの廊下ですれ違ったクラスメイトたちは俺を無視した。関わりたくないのか、あるいは単純に忘れられているのかもしれなかった。
 イズチがまだ教室にいた。俺はその前の席に腰かけた。
「アズロじゃん。調子は?」
「さっきまで最悪だった」
「いまは?」
「どうも普通だ。普通って尊いな」
 イズチは軽く頷いた。それから商売にまつわる話をした。俺たちの廃業からこっち、学校は平和なものになったという。
 ただひとつ、カネを先払いにした先輩との取引があるそうで、そのケリをつけねばならないようだった。俺が行ってくる、といった。その先輩の教室は一階上にあるらしく、イズチからカネを預かり、聞いたそこへと歩いていった。
 その教室の中は馬鹿騒ぎだった。七、八人のギャラリーの中心で、柔道のようなことをしているふたりがいる。制服の襟やらシャツやらを掴みにかかったり、投げをかけようとしたりと大暴れだ。ギャラリーの楽しそうな声。
 もみ合っているうち、片方がワイシャツを思い切り掴まれ、前面を引き裂くようにされ、ボタンをすべて引き剥がされた。ギャラリーは沸いた。
「おいふざけんなよ、どうすんだよこれ!」
 ボタンが飛び散ったほうはそう叫び、もう片方は笑いながら教室の外へ走って逃げていった。
 前がはだけているその先輩に、ギャラリーのひとりがベストを貸した。一応これでなんとかなるのだろう。その後ボタンを拾い集めた。俺は一連の騒ぎをなんとなく見ていたが、用件を思い出し、近くの先輩に取引相手の名前を出して、その人がどこにいるか訊いた。それなら、と指差した先が、ボタンを集めている先輩だった。
 俺は近づいていって声をかけた。
「どうも、アズロですけど」
「ああ、うん。ビデオの件?」
「そうです、カネを返そうと思って」
「いま忙しくてね、ボタンを拾ってるんだわ。けっこう重労働なんだわ」
 手伝います、といって俺も拾い始めた。
 だいたい拾ったというところでカネを返した。校則違反の茶色の髪をしたその先輩は、残念だね、といった。
「ビデオ見たかったんだけどさ。訓告くらっちゃったもんな」
「すみません」
「まあどっかで買えるんでしょ? 自分で行ってくるわ」
 それとさ、という。
「あのイズチ君ってやつ、あいつがチクリ入れた結果こうなってるって聞いたんだけど」
「そうなんですか?」
「確かめてきてよ。それでさ、あいつお金持ちでしょ。だから……」

 イズチのチクリや、先輩が話した提案についてあれこれ考え、俺は自分の教室に戻ってきた。
 またイズチの前に座る。
「返してきた」
「お疲れさま。これで全部クリアかな」
 さっぱりした、と笑うイズチに訊いた。
「お前がゲロったの?」
「何を?」
「テープやら何やらの商売」
 イズチは黙り込んだ。いうべきかいわずにいるべきか、と悩んでいる顔だ。
 やがて俺の目を見た。
「ゲロってはいない。ただ、テープの取引の現場を見られた」
 そうか、と俺はいった。それはゲロったのと同じことだろうと思った。イズチは気まずそうにしている。こんな商売を学校でやっていれば、それはいずれバレるというものだ。だが俺はいまそこまで冷静になれず、現場を見られたというイズチに対して怒りを感じていた。こいつのせいで俺は全財産を失ったんじゃないのか? アズロマラカイトを買えなくなったんじゃないのか?

 後日、俺は茶髪の先輩に話をしにいった。先輩はある計画を持ちかけた。俺はそれに乗ることにした。

(続)

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