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『千両役者浮世嘆』 第一幕

第一幕

 最初に母親を騙した。
 人生の最初の頃の記憶だ。六歳か七歳ごろのことで、そんな歳だから騙したと言っても成功したわけではない。騙そうとしただけだ。
 家には父親がいて、母親がいた。子供は俺一人だった。共働きの家庭であり、小学校の放課後、母親が仕事から帰ってくるまで俺は施設に預けられていた。
 特殊な施設でもない。放課後の一定の時間、児童を預かってくれるというだけの、学童なんとかというものだ。ひどく退屈な、俺を含めた馬鹿面がひしめくその施設が嫌で、早く家へ帰ってテレビゲームをやりたかった。
 そういうときに一計をひねった。施設に預けられた日には、児童が持つ専用の手帳にシールが貼られる。それを保護者が毎日確認する。確かに預かりましたよ、という目印にでもなるのか、日々シールが貼られていくその手帳に細工をしようと思い立った。
 単純な細工だ。同じようなシールを文房具屋で買ってきて、施設に行かなかった日にも貼ってしまうというだけだ。これで行ったふりができるだろう、と、俺は考えていた。
 いま思っても発想それ自体は悪くない。ただ計算が間に合っていなかった。手帳を細工したところで施設に来ていないことなどすぐに連絡が来る。
 のんきなもので、細工をし始めた数日間は何事もなく、俺は誰もいない家へ直帰してテレビゲームを堪能していた。
 連絡が来たのは三日目か四日目だった。遅い夕食のあと、居間でテレビを見ていたときに電話が鳴り、母親が受話器を取った。声のトーンに胸騒ぎがした。
 受話器を置いた母親が、明日朗(あすろう)、と俺を呼んだ。
「施設に行ってないの?」
 嘘をつくべきだ、と思った。
「行ってるよ」
「いまね、先生から言われたの。来ていませんって言ってた」
 ここで手詰まりだ、と俺は観念した。怒られるだろうか、と怯えたが、母親は冷静なものだった。
「行きたくないのね」
 だって、と俺は言う。
「つまらないんだ」
 母親は息をついて、わかった、とだけ言った。恐れていたようには怒られず、ただばつが悪いというのか、そこにいられないような気分だった。それを罪悪感と呼ぶことを、もっと成長したときに知った。
 それでももう施設に行かなくて済むようにはなり、しばらく自由に遊んでいられた。放課後にひとりで、あるいは友達を呼び、家でゲーム三昧だった。
 後年、俺の世代は――八十年代前半生まれは――得をしてきた、という話を聞いた。デジタルネイティヴの最初だったのか、ゲームといえばまずゲームウォッチがあり、次にゲームボーイが発売され、それからファミコンにスーファミと続く。学校へ行けばゲームの話をしない日はない。
 そんな世代の子供たちが集まれば遊びはゲームと決まっている。友達は俺に、というよりは俺の家のゲームに群がった。
 毎日の大騒ぎに苦情でも来たか、ある日の夕食時、母親に言われた。塾へ通わないかという話だった。
「お父さんの知り合いが開いている塾があるの。明日朗は頭がいいんだし、勉強するのはきっと楽しいよ」
 施設の代わりに塾に行くというわけだ。勉強は好きでも嫌いでもないが、ひどく面倒くさい。それにもっとゲームをやっていたかった。
 表情を読まれたか、心を読まれたかして、休みの日はゲームで遊んでもいいから、と言われた。
 明日から塾へ通う、という日になり、落ち着かない気分で家の二階にいた。たいして使わない学習机に向かってぼうとしていた。振り向き、母親の化粧台を見た。椅子から経ってその前に立つ。鏡に映る顔は気に入っていない。醜いとさえ思えた。
 鏡から目線を下にやり、引き出しを開けた。中身はあまり入っていないのだが、奥の濃い茶色の木箱を開けると大きな宝石がある。
 アズロマラカイトだ。青色の部分と緑色の部分がひとつに溶け合ったかたまりで、大きさは俺の手のひらに乗る程度、しかしずっしりと重い。俺の名前、明日朗はもしかしたらこの宝石に由来するのかもしれないが、詳しいことは知らない。ただ、アスロウよりはアズロとでも名づけられたほうがかっこいいような気がした。
 このアズロマラカイトをじっと見つめ、そのあと元通りに片づけて、俺はテレビの前へ行った。ゲームをやるつもりだ。

(続)

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