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『千両役者浮世嘆』 第十幕

第十幕

 保健室の中は柔らかな日が差していて、それが天井の照明よりも明るく見えた。その光の中、白衣を羽織った養護教諭がこちらを振り向いた。
「どうしたの? 急病かな」
 学校の他の教師たちとは違う、のどかな声色でそう問いかけた。顔を見つめてしまった。養護教諭も黙ったままだ。
「頭が痛くなって」俺はやっとそれだけをいった。ああ、頭痛ね、といって部屋の横の棚をごそごそやりだした。俺はその後ろ姿を見ていた。
 彼女はタチバナ先生というらしい。頭痛薬を飲まされたあと、少し休んでいくか、と訊かれたので、ベッドを借りた。カーテンが引かれる。淡い光の中の、即席の個室だ。この授業中はゆっくり休んでいたかった。頭痛はだんだんよくなっていった。
 タチバナ先生は机で何かカチャカチャやっていた。
「まだ痛むかな」
 そうカーテン越しに声をかけられた。だいぶいいです、と答えた。カーテンが少し開かれ、そこにカップを持ったタチバナ先生の姿があった。お茶を淹れてくれたらしい。俺は半身を起こしてカップを受け取った。飲みやすいようにしたのか、あまり熱くしていない麦茶だ。
「頭痛はしょっちゅう?」
「いえ、そんなには」
「ここに来るほどなら、けっこう痛かったと思うんだけど」
 市販のものでも頭痛薬は持っていたほうがいいよ、という。
「勉強疲れでここに来る子は多いの。頭の使いすぎだよね」
「俺は落ちこぼれですよ」
 麦茶をすすりながら話をしていて、やがて授業を終えるチャイムが鳴った。まだ休むかと訊かれたが、頭痛もすっかり引いていたので戻ることにした。
 その日、その後の授業では、ずっとタチバナ先生のことを考えていた。タチバナ先生の体のことを考えていた。白衣に包まれた、華奢だがふわふわと柔らかそうな体だった。ビデオや裏本で女の裸を見慣れているとはいえ、それは実物の質感に慣れているというわけではない。
 触ってみたい、と思った。
 それからはしょっちゅう保健室へ行った。最初は頭痛のふりをしていたが、痛くもないのに薬を飲むことに不安を覚え、やがてどこも悪くないのに保健室に入り浸るようになった。
 ほんとはよくないんだけど、とタチバナ先生はいう。
「いや、よくないってのも変だけど、保健室通学ってわかるかな。授業とか教室とかに関係なく、保健室にだけ来る通学。公立なんかにはそういう子が多いみたい」
 そういうふうにしてもいいよ、といってくれた。もとより授業についていけない俺はそのやり方に惹かれた。
 商売のほうは順調だった。ただ、俺が教室にいないことが増えたので、リクエストやら注文やらはイズチが代わりにメモしておいてくれた。
「やってみて気づいたけど」という。「忙しいねこれ」
「激務だよ。カネは楽には稼げないってほんとだな」
「保健室に行っちゃうくらい?」
「実際そうだな」
「タチバナ先生、かわいいよね」
「ああ、かわいいな」
 アズロが羨ましいよ、といってイズチは手を組み、伸びをした。
 イズチのメモを元に商品を運び、買い取りたいやつに渡してカネを取り、大半の時間を保健室で過ごした。もう勉強などどうでもよくなっていた。
「北山君はやりたいことはあるの?」
 ある日の雑談で、タチバナ先生はそう訊いた。
「将来ですか?」
「そう、将来の仕事とか、興味があることとか」
「興味は」俺の興味は――「先生の体に興味があります」
 そういってみたが、タチバナ先生は無反応だった。こんなことはきっと生徒たちにいわれ慣れているのだろう。
 ややあって、俺の目を見ていった。
「あのね、私だって人間だから、性欲はある」はっきりとしてはいるが、静かないい方だった。「でも北山君、私は仕事でここにいるの。職業として勤務している。遊んでいるわけじゃない」
 そういったタチバナ先生に、少しずれがあった。目もとの皮膚の変化と、眼差しの動きと、声色の揺れと、肩のあたりのかすかな緊張を、俺は見て取った。

(続)

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