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『ナイフはコーヒーのために』 #1

 いまはうららかといえばうららかな午後だが、僕たちはそうしたのんきな天候や気分とは縁が遠い。もっと白熱している。ファミレスの窓際席で僕たち二人がやっているのは逆連想ゲームというものだ。相手がいった言葉から全く連想できないもの、意味合いとして遠いものをいい返し、リレーしていく。ゲームを考案した柿沼に、僕は一度も勝ったことがない。
「めかぶ」
 僕自身はそれを「自動小銃」に対しての最高の答えだと思ったが、柿沼は動じる様子もなく、あっさりやり返してきた。
「ヘンデルのメサイア」――ほれぼれするような答えだ。めかぶとハレルヤコーラスにはもの凄い隔りがある。だが僕はまだ挑む。
「ナチスドイツ」
「誕生日パーティー」
「うーん……。ゴリラ」
「そう来ると、だ。ネトゲー」
 ネトゲーとはインターネットを使って遊ぶゲームの俗称だ。もう次の手が浮かばない。参りましたと頭を下げ、僕は負けを認めた。柿沼は目もとに笑いジワを作り、食後の煙草を思い切り吸い込んだ。
「石岡よ。お前には夢見る心がねえんだ」ボックス席の背もたれに片肘を乗せ、煙を吐きながら彼はいった。「無意識の中のイリュージョンワールドに立ち入ってない。それが敗因だよ」
「夢なんか見てられないからな」
「こんな世の中じゃ仕方ねえか?」
「まったく、何が仕事だっつーの。働くために生きてんじゃねえっつーの。しまいにゃなんか政治運動すんぞ。キレんぞ、キレんぞ本当に!」僕はわめいた。
「それだったらいっそ出馬したらどうだ。選挙資金は出してやる」
「当選したら笑えるな。でもカネは大事にしてくれ」
「うん、遺産だし」
 平日のこの時間帯でも、ファミレスにはたくさん客が来る。なんとなく店内の客たちのバリエーションを見て思う。スーツ姿のサラリーマンなんかは別として、他の連中は働いてるのか? どこで、どのように?
「柿沼。僕は今後何をやるべきだろう」
「そうだなあ……。ドストエフスキーは『一杯のお茶のためには世界など滅んでもいい』と書きつけた」そういって頬杖をつく。「差し当たってはせっかくのドリンクバーだ、コーヒーでも飲め」

 職場には殺したい人間が二、三人いるが、命は尊いものであるという道徳観を基本的には手放さない僕は、そいつらを殺したりはしない。しかしさっきまで柿沼と一緒に居座っていたファミレスで、逆連想ゲームをやる前に食べたステーキ、じうじうと焼けたあの牛肉を思い出して考え込んでしまった。命は尊いが、人間の命だけが尊いわけではないよな。尊い命ランキング注目の第一位はなんと人間のそれです、ということでもないだろう。牛だって大事じゃん。でもステーキにされてみんなに食べられてる。わからねー。人間は食物連鎖の頂点だとかいうが、自然の中で、素手で牛を殺せない以上それはイカサマだ。牛には敬意を表し、何か他のものを食べるべきではなかろうか。例えば昨今の刑務所、そこかしこで定員オーバーだと聞く。どうせ犯罪者なんだから余ってるなら食えよ。人肉を食え人肉を。だが僕は絶対に食いたくないし他の人たちも嫌がると思うので、嫌なことなので、刑罰としての共食いをご提案します。
 などと職場の最寄り駅に向かう電車の中で考えていた。ドアの車窓からの景色、戸建て住宅が密集している町並みや中途半端な広さの畑などは見飽きていて、最近はどうでもいい考え事で暇つぶしをしている。
 最寄り駅に着き、今度は歩く。駅前は飲食店やらパチンコ店やらがあり、人通りも多くて賑やかだが、職場である倉庫の方向へ行くに従って寂れていく。街路樹と街灯がまばらにある道を五分も行けば物音も少なくなる。たまに通る自動車の音と、いつの間にか現れて同じ方向に歩いている同僚たちの足音だけが聞こえる。スニーカーを履き、リュックやショルダーバッグなんかを引っかけ、手には夕食と飲みものが入ったコンビニ袋を下げている、というのが僕たちのスタンダードな格好だ。個々人の詳細は知らないが、同僚たちの大半は絶望を目に宿している。一応仕事をやってはいても人生全体については投げやりなのだ。だから例えば資格を取って手に職を、などとは考えない。そんなめんどくさいことはしない。よりよい未来を目指さない。充実はいらない。別に死んでもいい。といったことを目で語る。
 そんな職場だから僕も明るい気分ではいられない。トラックなんかが出入りできるように大きく幅を取ったゲート、これが見えてくるとぐったりしてくる。カネのためだけに働くということがいかに間違っているかを、自分と周囲を併せ見て思う。
 楽しめない仕事などやるべきではない。
 しかし楽しい仕事には就けなかった。探してか探さないでか、努力はしたのか、個々のケースはやはりわからないものの、自ずから倉庫で働くことを望んだやつはいないと推測できる。この仕事は何一つとしてやりがいがなく、僕はしばしば囚人との相似形を自分や同僚たちに見るのだ。
 同僚たちと共にほこりっぽい建物の中へ入り、事務所でタイムカードを機械に突っ込んだあとは、ロッカールームへ行って灰色の作業着に着替える。室内ではかったるそうな声での雑談があり、その声質がますますやる気を失わせるが、鮮やかな褐色の背中が視界の左のほうに映り込んだときに少し持ち直した。その肌は日焼けした日本人の色ではなく、遠い先祖の代から光の強すぎる太陽と共にあったことの、宿命の色だ。
 ……宿命?
 そんなものを持ち出してはいけない。かつて南にある彼の国で起きた内乱と大虐殺さえ、言葉の意味の上では、宿命だったのだと簡単に片づけることができてしまう。僕は自分の安直さを恥じた。
 彼の名はアーチーという。僕の友達だ。

(続)

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