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『ナイフはコーヒーのために』 #8

 肋骨を押さえつつタイムカードを押し、着替え、ボコボコの顔を見たアーチーに気遣われ、作業員たちと共にリーダーの周りに集まって連絡事項を聞く。それから各自持ち場へ散り、作業開始だ。ケースの持ち運びに関しては、もううんざりを通り越して無我の境地に近い。長いことやっているので麻痺しているのだ。ベルトコンベアが際限なくケースを吐き出しても、めんどくさい感じはしない。
 ああ、そうなのだ、一番嫌なのがこの、慣れてしまったことだ。慣れていればいつまでも続けられる。どこか安心して働く。僕は楽なほうへ流れるだろう。そうして、何か違うことをと求めながらこんなところに居続けて、全てが手遅れになる日はいつだ?
 体の痛みのせいではなく、額に嫌な汗をかいた。脂汗だ。僕は焦りの歯止めが利かなくなってぎくしゃくとした。いつかと同じく、ベルトコンベアに荷物が引っかかった。リーダーに僕のミスだと責められたが、引っかかった直後、機材の裏から去っていくあの猿の姿が見えたことで、僕は何故か楽になり、落ち着いた。全身のじりじりした痛みもそのときだけは消えた。僕やアーチーのミスはわざわざあいつが仕組んだことだったのだろう。ただ、殴って泣かしたのは僕なのだからアーチーの邪魔まですることはない。しかしああいう人間のやることとしては理解できる。定型の逆恨みだ。なんてことのない、どこにでもあるような、どうしようもなくくだらない、組織内での軋轢というやつなのだ。
 実は嬉しかった。
 復讐や罰という正しい理由によってまた暴れられる。殴れば退屈などどこかに吹き飛び、ストレスは粉々に砕け、高揚は天からの光のように心身を包み込む。そのときこそは何もかもがオーケーである。祝福されるようなその状態を思い浮かべ、束の間恍惚とした。
 あとはいつ殴り倒すかを決めるだけだ。別にいつだっていいのだが、できれば大きく出て派手にいけるタイミングがいい。
 明日は祝日で作業はない。明後日に、たっぷり休んでからの元気を以て盛大にやろう。怪我もだいぶ癒えているはずだ。
 ニヤニヤしていたようだ。休憩中、通りすがりの作業員たちに気味悪げな視線を送られた。かといって口もとの歪みを止められず、一緒に夕食をとるアーチーに指摘されてもだめだった。
「何か楽しいか? キモい石岡だ」
 キモい、などという言葉を使うまでに上達した。立派じゃないか、と愉快になってゲラゲラ声を上げた。周りが静まり、みなこちらを見ている。
 さすがに我に返った。咳払いをした。取りつくろうように、明日部屋に来ないかと訊く。「予定がなければ酒でも飲もう。他の友達も呼ぶつもりだし」
「わいわいか」
「そうだ、わいわいと飲もう。ぷよぷよもやろうぜ」
 もしかしたらコントローラーのボタンの押し方から教える必要があるかもしれないが、そこは国が違えど同じ若者、ゲーム機やなんかに馴染んでいてもおかしくはない。
 明日の夕方六時に僕が住む町の駅で待ち合わせになった。アーチーに駅までの行き方を教えているうちに休憩時間が終わり、また作業に取りかかった。
 時間が過ぎるのが早く、体感としてはあっという間に作業終了の時刻となった。着替えをしてタイムカードを押し、アーチーに挨拶をして駅へ向かった。明日の楽しみを思うとスキップしてみたい気分になって、実際やってみたところうまくできなかった。おかしい、小学校時代は毎日のようにやっていたのだが。何度かチャレンジしたが勘は戻らなかった。
 電車の中で柿沼にメールを入れる。返信はすぐに来た。明日は来られるそうだ。六時に、と指定して携帯をしまった。
 部屋に帰り、明日のことを葵に話す。
「というわけで二人来る」
「その前に君のボコボコの顔について訊きたいよ」
「いろいろあるんだよ」
「元ヤンだからかな。まあいいや、料理はどうしよう」
「いいよ、買ってくるからさ」
「ううん、こういうの大事かもよ。あいつの嫁は手料理のひとつも出さねえ、なんて陰でいわれたら嫌じゃん」
「まだ嫁じゃないわけだが」
「は? 嫁にしないの?」
「いや、するけど」
「なんですかそのプロポーズは。『いや、するけど』、なんですかそれは。今度やり直しね」
 そういって料理本を読み始めた。このようにして気の利いたプロポーズの言葉を考えることになった。
 正面から目を見つめて「結婚しよう」。もう少しダイナミズムが欲しい。手をつないで散歩しながらさわやかに「じゃあさ、結婚する?」。ノリが軽くて覚悟が感じられぬ。作ってくれた料理を食べつつ「ずっとこういうの作ってよ」。さりげなさに想いを込めたね。なんの前触れもなく突然の絶叫「僕のものになれええ!」。ダメだ、これでは頭が不健康だと思われてしまうからだな……。
 寝るまで考えていた。

 昼に目覚め、祝日はいいもんだという気分で体を起こしたが、肋骨周辺がピリッと痛んだので憂鬱になった。葵はもう起きていて、居間でまた料理本を開いていた。傍らにメモがあるので、もう作るものは決まったようだ。
「食材買ってくるよ。おいしいの作るからね」
 寝ぼけ半分の僕にそういって部屋を出ていった。
 さて、僕はどうしよう。
 どうもしない。暇な人間の常としてテレビを観ていた。
 戻ってきた葵が料理の下ごしらえをし、台所でのその音とテレビの音との間でぼんやりしていると、柿沼からメールが来た。彼は相変わらず時間を持てあましていて、今夜の飲み会が始まるまでやることもなく、退屈なのだそうだ。アーチーを迎えに行くまでに、一足先に柿沼を呼んでおくことにした。
 彼は僕の部屋への道を知っている。ちょっと待っていれば来るだろうし、実際メールが来てから三十分後の三時過ぎにやって来た。
 チャイムが鳴り、インターホンで確認をとってから玄関のドアを開けた。
「俺だよー、俺が来たよー」
 見りゃわかることをいった。一応ギャグらしいのだが、これといったツッコミも浮かばなかったので「ああ、お前が、お前が来たんだな」と雑に返した。
「俺、俺」
「お前、お前」
「ていうか顔どうした」
「イメチェンだよ」
 グダグダいい合いながら居間へ入った。葵は台所から出てきて彼を出迎えた。
「お久しぶりです。チャチなとこですがごゆっくりどうぞ」
 別にチャチではないはずだが黙っておいた。
「久しいねー葵さん。元気だった?」
「ええ、問題なんか何もないですよ」
「立派だなあ。しっかりしてるんだろうな。そうそう、アイスクリームを買ったんだった、ハーゲンダッツ最美味説のもとに」
 手にしていたポリ袋を差し出した。それぞれ味の違う、ハーゲンダッツの四つのカップが入っていた。そこでさっそくいただくことにした。
 ちゃぶ台を囲って車座になった。窓は開けられていて緩やかな風が入ってくる。初夏のちょうどいい気温で、真夏や真冬の圧倒的な体感とはほど遠い。こんな季節にアイスクリームを食べるのは実に平和な風情がする。
 各々スプーンを動かしていて、もしこういう平和がブチ壊されるとしたら何によるものだろう、という話になった。
「戦争」と僕はいった。
「ベタだよそれは。トルストイじゃねえか。ひねらなきゃ」と柿沼。
「そこの窓から牛が突っ込んでくる、なんてどうでしょう」
「おおーう、いいな。非常に場を乱すよね。アイスに乳成分が入っているし、牛サイドとしては怒るよね」
「葵には甘いなあ」
「正当な評価だよ。石岡は何、戦争? つまらん答えだ」
「お前ならどう答えるんだよ」
「そうだなあ……。あ、煙草いい?」
 葵と声を揃えて、どうぞ、といった。携帯灰皿を片手にぷかっと吸った。
「うん。平和をブチ壊すのはね、より一層の平和だ。平和ボケっていうだろ? 無重力空間において筋組織が衰えゆくように、心にも負荷がなければ骨抜きになるものだ」
 よく頭の回るやつだ。しかしなんだってこの知能を他に活かさんのだろう。もったいないことである。
 その辺のことをいってみた。
「何にもなるつもりはない。自分でいうが、哲人というのは無職であるべきだし、無職でいていいのは哲人だけだと主張するね。世の皆様はカネを収穫する。哲人は知恵を収穫する」

(続)

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