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『ナイフはコーヒーのために』 #6

 いつもは作業開始にギリギリで間に合うよう部屋を出るが、今日は銀行でカネを引き出さねばならず、少し早めに出発した。横断歩道で信号待ちをしているとき、もうじき暮れていくであろう空を見上げた。昼と違い、曇っていて陰気な空だ。青信号になり、無理に明るい鼻歌をやりながら歩く。
 閑静な、とはいいづらいどこか下品な住宅街を抜けると大通りに出る。横断すれば、これもまた下品さを脱しきれない道だ。綺麗な街路樹もある、磨かれた街灯もある。車道を挟んだ両脇に綺麗な店がたくさんある。でも何故かウザいというかうさんくさい。皮をはいだら人間のドロドロで洪水が起きてゴキブリさえも死滅するだろう、と感じさせる町だ。僕はここで育った。だから大事な少年時代にヤンキーになったりこの歳になってもキレたりという、こんな人間になる。
 なっちまったもんは仕方ない。そんな考えごとより、いまやるべきことは銀行でのカネの引き出しだ。今日の作業時間内に振り込まれる給料がいくらであるかを計算した。いつも通り、立派なものではなかった。貯金と合わせても大金と呼ぶことはためらわれる。
 駅前の銀行に着き、ATMに三万円を吐き出させた。通帳への記帳もする。いつか柿沼が話していたことを思い出した。ある著名な外国人に「最も影響を受けた本はなんですか」とインタビュアーが訊いたところ、「銀行の預金通帳だ」と返ってきたそうだ。僕はキャッシュカードと通帳を握りしめ、どこの誰だか知らんその著名人に同意した。しかも無意識にうなずいていたようで、そばを通ったあずき色のジャージ姿のおばちゃんが立ち止まって、僕を頭から足まで訝しげに見た。無遠慮なおばちゃんだ。慎みがない。この先の人生でおばさまと呼ばれることもなかろう。
 彼女に最も似合わない語りかけを考えつつ電車に揺られた。「おばさまにはティファニーが似合うと思うの」とか「素敵な絵を飾っておいでですわね。これはレンブラントかしら」最後に「やっぱりおばさまのパンプキンパイには早摘みのセイロンが合うわ。だってとっても上品なお味なんですもの、そこらの紅茶では全然不釣り合いよ」というのが出てきて、満足して電車を降りた。
 時間に余裕があったので、ゆっくり歩いて倉庫へ向かった。進むにつれ、風景は雑然としたものから無味乾燥なものに移り変わっていく。空とそこらの工場は灰色で、アスファルトは黒い。天気はしかたないとしても、こんなところを歩いていても楽しみなどない。人間が作ったはずなのに楽しみを与えない。もちろん機能的ではある。倉庫や工場に出入りするトラックはこの広い道路を走りやすいだろう。その機能は認めるが、この道にも職場である倉庫にも人間のための楽しみが欲しい。仕事に楽しさは必要ないのか。違う、仕事だからこそ楽しくなくてはいけない。僕が仕事に求めているのはカネだけではなく……。
 気分が暗くなってきた。未来人は仕事をしないという。人間がしなくてはいけない仕事が存在しないのだそうだ。本心から働きたくないのなら、僕は生まれるのが数百年早かったのだ。
 しかしそういうことはどうでもいい。本当にどうでもいいし価値のない考えだ。自分がこの国のこの時代に生きている、どこにでもいる人間であることに変わりはなく、だから楽しくなくても働かなくてはならない。
 つまり、どうしようもない。

 いつも通りの作業をし、休憩中にまたアーチーと話した。話題はこのバイトのいいところの一つ、給料についてだった。作業後に給与明細が渡されるので、作業員たちはどこか明るい雰囲気を放っている。僕たち二人も例外ではない。アーチーは缶のレモンティーを飲んでいる。
「石岡、何を買うのか」
「何がいいかなあ。服とかかな、派手なんだけどかっこいいのを見つけた」
「そうか。歌舞伎者だ」
「難しい日本語を知ってるな」僕はたじろいだ。カブキモノってなんだ?
「僕は何かご、ごろく」
「娯楽か?」
「それ、ごらく。少しだけ遊ぶする。何がいいか?」
 腕を組んで考えた。アーチーはストイックなのでどんな遊びがいいかわからない。風俗でも博打でもないだろう。いいのを思いついた。
「テレビゲームはどうだ。中古なら安いぞ」
 ピンとこない様子だったが、アクション系やパズル系のゲームについて熱弁すると乗ってきた。特にぷよぷよに興味を持ったようで、今度試しに僕の家でやらせることにした。
「対戦しような。手加減はするから」
「ありがとう。レクチャー、頼む」
 任せろ、と拳を握ってみせた。アーチーは楽しげな笑顔を作った。
 それからまた作業に戻り、ケースを運びまくった。やがて終業時間が来たので、作業員たちは手袋の尻尾をつけてリーダーのところに集まった。名前を呼ばれたやつから給与明細を受け取っていく。石岡、と呼ばれてリーダーに歩み寄った。ほら、お前の大好きなカネだ、というような無愛想な態度で水色の紙を渡された。開封するのが待ち遠しく、解散後にロッカールームへ行く途中でミシン目を破った。だいたい計算通りの額が記載されていた。別に大きな満足も不満もないが、かすかな違和感は指先のささくれのような鬱陶しさとしてちらついた。もしかして、もっと対価をもらえてここよりもずっと楽しい仕事があるのではないか? そして僕はそちらへ行くチャンスを逃したのでは? もう手遅れか、まだ間に合うか。とは考えても、まず問題になる何をやりたいのかという点を知らないのだった。
 ロッカールームでアーチーと挨拶を交わして別れた。彼は僕が使っている駅と逆方向に行くバスに乗る。薄汚れたトートバッグを引っ掴んで倉庫を出た。街灯は闇に強引な光を作り出し、光も道路も人工物で、歩く何人もの作業員たちは世の部品に過ぎず、先人が作った社会のシステムの道を歩かされている。道がベルトコンベアのように流れていくなら助かる。だが実際はわざわざ歩かねばならないのだ。何度思えば気が済むのかと我ながら呆れるが、いくらでも念じる。
 労働を撤廃しろと。
 もちろんこんなものは念じるだけだ。理想など達成されないものなのだから、僕は現実的な考えを立ち上げた。
 倉庫以外で、やるならどんな仕事がいいだろうか。
 考えるきっかけとして先祖というか血統を辿ってみた。遠くからいって、石岡家は武家をルーツに持っている。どの辺の出自であるかは代々伝わってきた懐刀が教えてくれる。じいさんは家を飛び出したか何かして群馬から東京に移住し、いまでいうところのタイポグラファーをやった。職人なのだ。その子供、僕の親父は自営で会社を回している。商人といえる。一方母方の家は七代続く農家だ。
 要するに武士と職人と商人と農民の遺伝子をブレンドしたのが僕だ。並べ替えて士農工商、この江戸時代和風カーストが全部混ざってしまっては、何をやりたいか混乱するのも無理はなかろう、と思うも、現代人の和風カーストの混血などありふれたことであろうことに気づいた。ちょうど部屋の前まで来たときだった。
「わからねー。どうすっかな」
 居間に入るなりそういった。ちゃぶ台に肘を乗せて雑誌を見ていた葵が、こちらを向いて不審を示す目をした。
「いや、身の振り方がわからないんだ」
「契約社員の話も蹴っちゃったもんね。何か他の、これがしたいっていうのもないのに」
「いじめんなよ」
「だって、弱点を突くのは戦術の初歩だよ」
「僕たちが戦闘状態にあったとは初耳なんだが、遺憾の意を表明するわけだが、兵糧を断つってのも戦術だよな。というわけで一人で食べてくる」
「待て」
「それは命令か」
「ていうかそもそも店の場所を知らないでしょ。連れてってあげる」
 そういって立ち、ハンドバッグを持って玄関へ歩いた。靴を履きながらいう。
「早く行くよー」
 なんだかわからんが、これはいいくるめられて負けたのか。痛いところを突かれただけの気がする。まあいい、今夜はうまいもんを食べるのだ。一つ二つの負けなどなんでもない。鍵を持ち、居間の明かりを消した。

 土曜の夜だから駅前は騒がしかった。サラリーマンや肉体労働者や学生などと見える連中が、店に入ったり出てきたりロータリーのガードレール付近に固まったりという具合だ。
 葵は僕の斜め前を歩き、週末の酔っぱらいたちの隙間を縫ってすいすい歩いた。人にぶつかりそうになってもふっとかわす。運動神経のよさはこういうところに出るのかもしれない。葵は高校ではバスケットボール部だったそうだから、体を動かす慣れのようなものがあるのだろう。
 感心しているうちにビルに着いた。見上げると四階の窓にそれらしき居酒屋の看板があった。チェーン店ではなさそうだ。
 ビル内のエレベーターで四階へ行き、木製の扉をぐっと押して開けた。酔客たちの喧噪が溢れ、これは空席がないのではと心配になるほど混んでいた。
 入口にやってきた店員に案内され、幸い席に着くことができた。おしぼりを渡されたときに生ビールを二つ頼んだ。葵がいう。
「凄い人気だよね。前に来たときもこんなだった」
「期待できそうだ。どれがうまい?」
 メニューを開いて、葵のおすすめや個人的に食べたいものをピックアップしていった。
 枝豆、たこわさ、刺身五点盛り、ヤリイカの唐揚げ、ぶりカマの塩焼き、揚げ出し豆腐などを食べ、ビールと日本酒で実にいい気分になってきた。葵も酔ったらしく、頬を赤くして枝豆のサヤをこちらに投げつけてくる。
「やめろよお」
「えへへえ。志半ばで食われてしまった枝豆たちの怨念と知れえ」
「やめっ、やーめろってえ」
 とかやってるうちに客たちは減っていったようで、少し静かになった店内に僕たちのはしゃぎ声が響く。周りのテーブルには誰もいなかったので、二人で弾けてしまっている。フロアの反対側の座敷も盛り上がっていて、僕たちと座敷の連中とがだいたいの雰囲気を形作っていた。
 しばらく騒いだあと、飲み過ぎたせいで僕たちはおとなしくなった。
「どうなんだよ全く……そこが大事なんだからさ」
「葵。葵さーん」
 ぐでんぐでんの彼女に呼びかけたが半分眠っているらしく、椅子からずり落ちそうになるだけで返答はなかった。ほどなくして枝豆のサヤだらけのテーブルに突っ伏した。
 結局閉店の時刻である二時まで居座って、デコピンとか頬をつついたりとかしても起きない葵をそのままに、とりあえず会計だけ済ませておいた。レシートを見ると酒代が食べものの額より多かった。全体の半分以上がビールと日本酒と焼酎だ。これでは酔いもしよう。
 店内に蛍の光が流れた。座敷の連中は既に帰っていた。葵がもそもそと動いて顔を上げた。テーブル上で押しつけていたのか、額に割り箸の跡らしきものがある。教えてやった。
「いやん」
 中途半端なノリでそう返してきた。
 二人でフラフラよろけながらエレベーターに乗り、夜の町を歩いて帰った。酔いのせいで夜風の涼しさがわからない。
 すぐに夏が来て、熱気が神経に及ぶだろう。熱くなった神経を、冷やせば安らいでいられるし、そのままにしておけば駆り立てられるような感覚を味わう。どちらにしても悪いことではない。
 ちょっと楽しみだ。

(続)

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