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『千両役者浮世嘆』 第三幕

第三幕

 講師が代わっても勉強自体には変化がなかった。用意されたテキストを解いていき、わからなければ訊く。わかったらまた解いていく。
 新しい講師は毎回、休憩時間に菓子を用意してくれた。クッキーや何か、だいたいが甘いものだ。脳が糖分をグルコースとして消費する、と俺が知るのはもっとあとのことだった。
 明日朗とは呼ばれず、北山君と呼ばれた。あるいは北山選手。そのユーモアはよくわからない。
 その日、キリのいいところまで設問を解いたところ、俺のノートを見ながら講師はいった。
「北山選手。中学はどうする」
「いや、行きますけど」
「うん、義務教育だからね。義務だからみんな行くんだけども、僕は行き先を問うている」
「東中ですよ」
 それは入って三日で不良になる、という噂の地元の公立中学校だった。考えるだけでも憂鬱だ。
 あのね、と講師。
「中学受験って知ってるかい」
 知りません、と答えた。ああ少年よ、と講師は首を振った。
「公立だけが中学じゃない。受験でうまくやれば、もっといい環境の学校へだって行けるんだ」
 そしてうまくやり続ければ将来が約束される、とつけ加えて席を立ち、部屋を出た。
 なんの話なのか、俺にはまだよくわかっていなかった。中学校といえば、登校するときに横目で見る、あの黄色く薄汚れた校舎のことだとしか思っていなかった。
 講師はマグカップをふたつ持って戻ってきた。紅茶のいい香りがする。
「北山選手。これはちょっと大事な話に、つまり進路のことだね、そういう話なんで、これを飲みながらちょっと語り合おう」
 そういって片方のマグカップをよこした。一口飲む。濃く出過ぎていて苦かった。
 何を語り合ったかというと――ほぼ講師が話していたのだが――、俺がわりと勉強ができるようである、だから受験して私立校へ行くという選択肢がある、そのようなことを説明されたのだった。
「もちろん親御さんにも相談してみるよ。でも最終的に決めるのは北山選手だ。考えておくといい」
 黙っている俺に講師はいった。
「概ねのところ、勉強して馬鹿になったやつはいないよ」

 その後、講師と両親との間で相談があったようで、夕食をとっているとき母親にこういわれた。
「行きたければ、どこでも受けてみればいいよ」
 本当に勉強が好きならね、と釘を刺され、また食事が続いた。
 俺はあまりものを考えない子供だったので、結論は単純に出てきた。東中、あの黄色く汚い学校は「なんとなく」嫌だ。だから他の学校へ行こう。たったそれだけを考えた、というよりは、思った。

 こうして受験勉強が始まった。小四の頃から毎日のように塾へ行き、本格的に勉強漬けだ。講師のサポートのおかげだろう、何も苦にならずストレスにならず、ただ問題を解き続けた。
 小学校には受験組が何人かいた。俺が受験することを知ると、そいつらとは急に仲良くなれた。その中でひとり、関東の最難関を目指しているやつがいた。滑り止めすら怖ろしく難しいところを選んでいた。それらには俺は絶対に受からない。
「すごいなあ。やっぱ東大に行くの?」
 そう訊いてみると、頬を紅潮させて、口もとを緩め、中空を見て曖昧に頷くのだった。
「北山君、お互いがんばろうね」
 そういってくれたのだが、がんばる、のレベルも頭の出来も違いすぎて、今度は俺が曖昧に頷く番だった。

 受験組同士、三、四人くらいでよくつるんだ。一番ふざけたやつが俺だったと思う。だが俺は発明家だった。
 というのも、誰が始めたか、クラスでおもちゃの紙幣が出回ったことがあったのだ。それを払って、ノートや何かに書かれた、生徒それぞれの自前のゲームに参加させてもらう。紙幣はゲーム内のペナルティや賞金としても扱われた。テレビゲームのRPGを再現してみせるやつもいたし、単にサイコロ遊びを提供したやつもいた。
 そんな中で俺はルーレットを発明した。ルーズリーフにコンパスを走らせ、出る目を放射状に書き、円の中央に裏から画鋲を刺して、画鋲の針先に鉛筆の腹を刺せば完成だ。指ではじくとおもしろいようにクルクル回る。このルーレットはなかなかの評判だった。
 しかし、誰かの紙幣を盗んだやつがいたらしく、その事件のせいで教師に紙幣のやりとりを禁止され、俺たちのゲームの日々は終わった。
 俺は次にコンパスの針を抜き、紙を巻きつけてテープで固定して、ダーツを作った。それを教室の壁に投げつけて遊んだ。ダーツは引っぱりだこでみんなやりたがり、よく刺さって楽しかったが、やはりこれも禁止されてしまった。

(続)

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