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『森の奥に住まう』 肩慣らし掌編

 そいつの先祖は流刑囚だったという噂だ。流刑囚がなぜか子を残し、血を代々継いできて、やがてそいつが生まれた。
 そいつは小さな島の一番奥、ほとんど原生林のような森に、ひとりで住んでいる。灰色のコンクリートでできた四角い小屋に、わらを敷いて、寝たり座ったりとしていた。代々続いている住処だ。
 島の親たちは子供に警告する。そいつに近づいたり、ちょっかいを出したりするなと、きつくいって約束させている。
 それがなぜかというと、そいつの父親が人を殺したからだそうだ。
 もう二十年も前の事件だ。村で行方知れずになった男の子が森のすぐそばで倒れていた。顔は青白く、首を締められた痕があり、既に事切れていた。
 この島には警察がない。派出所すらない。村人たちはそいつの父親が怪しいと考えた。倒れていたのは森のそばだ、あいつが怪しい、流刑囚の血筋だ――父親は捕らえられ、まだ幼かったそいつの目の前で首筋を切られ、血を中空に噴き出して死んだ。
 そのことはそいつの心に問題をもたらすのとは別に、村人たちにも影響した。本当は別の犯人がいたんじゃないか、殺してしまってよかったのだろうか、人は誰でも人なのだ。後ろめたさが村人たちにそのようにあった。
 それだから、余計に関わりたくなかった。誰もが忘れたがった。罪悪感など、鬱陶しいだけだ。
 子供たちには詳しいことを教えていない。ただ、復讐を恐れているあまり、そいつには近づくなと一点張りだ。
 だが子供の好奇心は旺盛なものだ。見てみたい、腫れもののそいつがどんなやつか知りたい。ある日、肝試しのようなものとして、友達にそそのかされた少年がひとり、森の奥へ向かっていった。
 陽光が薄く届くくらいの道中、蛇が木から垂れ下がっていたり、泡を吹く沼があったり、村とはまるっきり違う光景の中を進む。とはいえ森の入口からさほど遠いところでもなく、半時間ほど行くと、話通りのコンクリートの小屋があった。
 そいつは小屋の中で寝そべっていた。入口から脚だけが見える。日焼けしているのか、汚れているのか、その脚は黒っぽい。
 不意に上体を起こした。少年は驚き、動けなくなった。そいつが座ったままこちらを見ていた。まっすぐな視線にたじろぐ。
 何かいわなければ。
 だが言葉は出なかった。
 そいつはごわごわの髪の毛をしていて、全身日焼けしていて、短パン姿で、変なことには、不潔そうなのに美しく見えるということだった。少年はいつか見たテレビのドキュメンタリーの映像を思い出した。夕焼けのサバンナに佇む、ライオンの姿だ。
 そいつは何もいわなかった。ただ、立ち上がって小屋から出て、入口にある甕から水をすくって飲んだ。
 濡れた手を振りながら、また少年を見る。ようやく少年がいった。
「あんた、いつからここにいるの?」
 そいつは黙っている。
「ひとりなのか?」
 少年をじっと見ている。
「なんかいってくれよ」
 そいつはジェスチャーで、俺は口がきけない、というような仕草をした。言葉がわからないのかもしれなかった。
 それだけの冒険だった。帰り道、少年はどんなふうに友達に話して回ろうかと考えた。森の中の変なやつに会ったというだけの話を、友達連中はとてもおもしろがって聞いた。
 その後、少年は何度か小屋を訪れ、水や木の実や干し肉をふるまわれるようになった。そいつといる時間は楽しかった。ふたりで小屋のわらに座り、話しかけてみたり、黙っていたりして過ごし、日が沈みかける頃に急いで森を引き返す。
 やがて冬になって、大雪が降り、森へ行けない日が続いた。
 少年は島を離れ、本土の学校へ行くことになった。親戚の家に世話になり、そこから通学する窮屈そうな生活が始まるのだ。
 憂鬱であり、もっと森の奥で遊びたかったが、本土へ行くのは冬のうちなのだ。もう森にいたそいつには会えないだろう。
 そうしてやはり会うことはなく、島を出て新しい暮らしを始め、月日と共に記憶は薄れていった。

 何年かのちに島から連絡があった。友達からの手紙で、末尾にそいつのことが簡単にふれられていた。そいつはもう、小屋にはおらず、どこかへ行ってしまったようだと。
 少年もまた島には戻らず、年をとっていき、それでもそいつのことをたまに思い出す。草原に立つライオンの気高さで、穏やかな身振りをするそいつの、せめて名前くらいは知りたかったものだ。


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