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『千両役者浮世嘆』 第二幕

第二幕

 施設で過ごす退屈な時間がなくなり、ゲームをやれる時間は増えたものの、塾へ通うことが代償となった。
 自転車をこいで隣町へ行き、住宅街の、雑居ビルの暗い階段を上がった二階、白いプラスチックのプレートに塾の名前があった。初日、父親の知り合いだという、どこかうさんくさい中年男の講師はにこやかに俺を迎えた。
「北山君、いや、明日朗君と呼ぼうか。よろしくね」
「……よろしくお願いします」
「学校での成績を聞いたよ。なかなかやってるんじゃないかな。誰にも習ってないんだろう?」
 俺は頷いた。講師は、小学二年生だからね、と言った。
「これからもまだまだ伸びるよ。がんばろう」
 熱いのか冷めているのかわからない声でそう言う。裏があるような目をしていた。こちらは曖昧に頷いて講師の足を見た。ボロボロのスリッパを履いていた。爪先に空いた穴から靴下がのぞいていた。
 俺にもスリッパが用意され、塾の中へ案内された。中には部屋がいくつかあり、もともと社宅か住宅用に作られたものだとわかった。机はひとつひとつ離されて壁に向かって置かれていて、それぞれの部屋に四つほどあった。だが、俺たちの他には誰もいない。
 机の前に座らされ、講師は横の椅子に座った。そうして学校での授業内容や宿題のことなどについて訊いてきた。だいたいのところを話し終えると、よし、と言った。
「復習もしながら、学校よりも早めに進めていこう。四科目やるけど、三年か四年くらいのところかな。宿題が切羽詰まったらここでやっていってもいい。休憩時間もとるからね」
 それと、といって部屋の隅を指した。
「休憩するとき、あの漫画も読んでいいから」
 そこには偉人たちの伝記漫画がずらりと並んでいた。エジソン、キュリー夫人、野口英世……。おもしろそうには思えなかったが、俺は漫画自体は好きだった。
 初日は話をしただけだった。今後、一日二時間、週に三日をここで過ごすことになる。面倒だが施設よりはましに思えた。
 帰り際、講師の書斎の横を通った。当時には珍しいことにパソコンが置かれていて、その画面が暗い書斎をぼんやりと照らしていた。
 また自転車で家に帰った。持たされている鍵で扉を開け、すぐにゲームにとりかかった。
 塾での勉強のおかげだろう、小学校の授業やテストが馬鹿馬鹿しいほどに簡単になっていった。のちに母親に訊いた話では、母親がたまたま叔母と会っているときに、俺が九十五点という点数の答案を持ってきた。母親は俺に訊いた。
「どこが間違っていたの?」
 叔母は言った。
「みこちゃん、違うよ……。『どこが合っていたの?』だよ」
 叔母の子たち、つまり俺にとっての従兄弟たちは成績が悪かったのかもしれない。いつだったか、その男ふたり兄弟の下のほうは、小学生の俺に煙草を吸わせたりもした。セックスについて語った。そこらの車のテールランプを拳で割って、手に滲み出る血が痛々しかった。彼の部屋の押し入れからは、握りにテープを巻いた鉄パイプが出てきたりもした。
 上のほうはまじめな人だったが、下のは不良だったのだ。不良とはいえ、いや不良だからか、刺激的な男だった。あとあとの俺を準備したのが彼だった、と言うと大げさだが、一部分は彼に負うところだ――いや、他人のせいにしてはいけない。誰ともまったく関係なく、俺はのちに悪の道へ行ったのだ。

 ある日、塾での休憩中に伝記漫画を読んでいるところへ、新しい生徒がやってきた。そんなにかわいくもなかったが、肉感的で、俺よりもふたつ年上の少女だそうだ。名前は思い出せない。
 講師に紹介され、雑な挨拶をして、俺はまた漫画に目を落とした。少女と講師は何やら楽しそうに話していた。
 同じ部屋の別々の机で、俺と少女はそれぞれの勉強をした。時折机を訪れた講師がレクチャーしてくれる。そういう勉強だった。
 夏休みが近い頃、悲鳴を聞いた。講師の書斎から少女が駆けてきた。どうしたのかと訊くと、青ざめた顔で俺を見た。
「あの、パソコンで……変なのを見せられたの……」
 少女のその反応と、パソコン、変なの、というキーワードで俺は理解した。講師にポルノでも見せられたのだ。
 俺は帰宅後にそれを、言葉を濁しながら母親に話した。
 次に塾へ行ったときには別の講師がいて、それからまた勉強が続いた。
 少女は、もう来なかった。

(続)

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