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『ナイフはコーヒーのために』 #7

 次の日は日曜で、僕は昼に寝室の床で目覚めた。べろんべろんの葵をベッドに寝かせたあと、フローリングが気持ちいいからと横になり、そのまま眠ったようだ。
 葵の足下に丸まってしまっている毛布をかけ直してやり、くしゃみを五回して、クローゼットから着替えを出して風呂場へ行った。上がってから歯を磨き、買い溜めてあった菓子パンを食べる。
 テレビをつけて、激しい政治談義をやる番組をあるかないかの関心で観ていた。CMに入ったとき葵が起きてきた。そうしてあくび混じり、というか正確にはあくびごと「おはよう」といった。「あっふぇあよお」と聞こえた。
「はいおはよう。よく寝たんじゃないか?」
「も、泥のようにね」バサバサになった髪を撫でつけている。「ご飯は?」
「僕は食べた。菓子パン」
 そういうと食べたがったので、ちゃぶ台の上の残っていたぶんを示した。手にとってもぐもぐ食べる。葵は食べながら窓際に立ち、外の様子を見た。
「天気いいね。どっか行こうか」
 いい提案なので外出する気になった。葵の身支度の間、テレビで政治家たちの議論を見聞きした。熱弁を繰り広げる彼らが日々やっている仕事は、彼らにとって柿沼がいっていたようなベストなことなのだろうか。まあ彼らのことは措くとしても、建前としては国民の人生をベストのほうへ持っていこうということだろう。そこで矛盾に気づく。この国と国民のためのベストってそれぞれの問題につき一つだけなんじゃないか? であればそこへ向けて自ずと意見がまとまるはずだが、彼らは何を争っているのだ。妙である。
 風呂から上がって髪を乾かした葵にそのことをいった。
「それね、見ようによっていくらでも違う答えが出るよ。だから全部が正しいのと同時に全部が間違っている、というのはどう」
「納得しないわけじゃないが……」
 別にこだわってもいないので、まあいいやという流れになって別の話をした。行きたいところが地元の洋服屋くらいしかなく、葵にも特に目的地はないようだった。なので服を買って散歩する程度の外出に決まった。
 柔らかい日差しの下、あまり気合いを入れない手軽な格好で歩いた。歩道で子供たちとすれ違う。彼らは何かアニメの真似らしきことを叫びつつ、僕たちの後方へ走っていった。
「僕にもあんな時代が、って思った?」僕と同じく子供たちを見送りながら葵がいった。
「ん、まあ多少センチにはなったな。全力で遊べる年齢ってあのくらいだよ」
 あのくらい、つまり十数年前にどんな子供だったかをお互いに話した。僕たちは出身が違うのだが、僕が東京の下町、葵が埼玉の東京寄りと近接していて、環境が似ているのか共通点はいくらかあった。僕たちを最もノスタルジーに浸らせるものが会話に出た。
 駄菓子屋だ。
 これは住んでいる町か隣町か、いずれかには必ずあるようなものだから、同世代で駄菓子屋の思い出がないという人はあまりいないであろう。五十円とか百円とかを握りしめて駄菓子屋へ走る。その小銭で店の中のいろんな菓子が買えたのだ。五円チョコ、よっちゃんイカ、うまい棒、水飴、小さな容器のヨーグルトふうのクリーム――あれこれ思い出し、話し合っているとうずうずして落ち着かなくなってきた。だから反射的に「駄菓子屋へ行こう」といった。返事はがっかりさせるものだった。
「この町で見かけたことはないよ」
「あの辺は? 線路沿いのゲーセンのそば、まだ残ってるんじゃないかな」
 たぶんもう潰れてるよと葵はいったが、どうせ散歩するならと説得した。幼年時に通い詰めた駄菓子屋を見ようとした。
 辿り着くとあの店はなく、カラオケパブが代わりにその土地に建っていた。通りは昔と違って猥雑な様子になっていて、遊ぶ子供などおらず、代わりに黒服の客引きがいて、懐かしく思えるものは何も残っていなかった。残念がる僕の手を、葵は握った。
 帰りに洋服の量販店に寄った。Tシャツを二着買い、店内の奥で商品を見ていた葵に声をかけて店を出た。これから空は暗くなるのだろう、夕暮れの気配がささやかに感じられる。
 部屋に帰って簡単な料理を食べ、あとからでは思い出せないくらいつまらん暇潰しをして、疲れていたからおとなしく眠った。

 わりに早く起きて、つまり昼まで寝ているのがいつもなのだが、いまは午前九時を回ったところだ。あまり早く起きてもやることなどない。葵はまだ寝ているから、話し相手もいない。
 音を立てず、そっと寝室を出た。居間の明かりをつけて携帯をいじった。ニュースサイトを流し読みするが、関心を引きつける記事はなかった。
 長時間ネットを見ていた。カネに余裕があるという錯覚のもと、ショッピングサイトを特に熱心に見て回った。ブーツ、チョーカー、CD、DVD、漫画、観葉植物、シーモンキーの卵、金魚、机、万年筆、システム手帳、パソコン、デジカメ、栄養ドリンク、タラバガニ、携帯の画面では商品の写真が見づらいが、購入意欲は大いに湧いた。
 だがそれだけだ。ぽんぽん買っていたら平和な暮らしを犠牲にしてしまう。もともとがんばって節約したとしてもカネは出ていってしまうのだ。不思議なことだ。
 それを風水でなんとかしてみようとその手のサイトを巡った。六殺、という怖い字の方角があり、そこには何も置いてはならないそうだ。居間に方角を当てはめてみたところ、ちょうど六殺にテレビがどんと置いてあった。この電波野郎をどかすべきだ。
 このようにしてテレビの移転を図ったのだが、本体にも台にもその周りにもほこりが積もっていて容易には触らせぬ。これをして外堀の体を成すと読んだ。敵ながら天晴れな策士である。うかつな攻めでは歯が立つまい。さてこの城、いかように落とすか……。
 ひとしきり脳内戦国武将ごっこをし、飽きてから濡れ雑巾でほこりを拭いてどかした。これでラッキーとかハッピーとかいうのが訪れるといいが、それにはもっと本格的に風水をやらねばならないだろう。めんどくさくて気分が萎えた。起きてきた葵がテレビを見やった。次に僕を見て、またテレビを見る。何事か考えているようだ。
「風水でさ、そっちに置いたほうがいいんだって」
 そういうと頷いた。
「はいはい風水ね。君が興味あるとは知らなかったけど」
「ただの思いつきでやった」
「ふーん。でもこういうのは究めると凄いよね、呪術系」
「怖いから究めないでくれよ」冗談でいったのだが、
「もうやってないから安心して」とどんな過去があったのかと気になる情報をいい残して歯を磨きにいった。テレビの角度を調整していると、彼女は口もとを泡だらけにしてやってきた。
「見えないものってあるでしょ、熱とか磁力とか宇宙線とか。とりえあえず発見されていて測定もできるけど目には見えない。一方でこの世にどれだけの未知があるかというと、そのこと自体も明らかでないわけで、古今東西の呪術はそういう目に見えることもない謎の範囲のエネルギーにバイアスをかけて、現実を変えてしまう方法だといえるね」
 一気に喋って洗面所に戻った。うがいの音がする。しかしやけに詳しく知っていてビビってしまった。畏怖である。
「世が世なら」と歯磨きを終えた葵にいう。「魔女狩りに遭ってたな」
「この時代に生まれてよかったよ」
 そういって頷いてみせた。
 朝食兼昼食を作ってくれるそうで、できあがるまでまた携帯をいじって遊んでいた。ゲームなどやっているうちにいい香りがしてきた。誘われるようにふらりと台所へ行った。焼きうどんを作っているようだ。フライパンの中のうどんと野菜をガーッと炒めている。醤油を加え塩胡椒を振り、手つきはきびきびとして余計な動作がない。
「見てて楽しい?」
「けっこう楽しい。職人のアトリエを訪れました的なおもしろさだ」
 というやいなや、焼きうどんは完成して二つの皿に移され、かつお節もかかった。それぞれ自分の皿と箸を運び、ちゃぶ台のそばに座って食べた。火に香りを引き出された醤油がうどんにただならぬおいしさをもたらしている。それだけではなく、若干からい何かの調味料も入っているようだが、概ねベーシックな食材でここまでやる。嫁に欲しいと思った。

 バイトに行く時刻になり、支度をして部屋を出た。駐車場に動く黄色の何かが見え、注視するとこの前踊っていた二人の金髪だった。じっとこちらを見ている。マンションのエントランスに向かって廊下を進むとついてきた。小さな中庭を抜け、管理人室の窓口を通って外へ出たときに声がかかった。
「お仕事ですかー? お仕事あるんですかあー?」
 もう一人がうひぇっと笑う。「おい失礼だろー」
「つーか無視しないでくださいよお」
「うひぇっ、いいって。いいよもう、やるべ」
 足音と気配が近づいた。右肩を掴まれて振り向かされる。
 平手には構えがいらない。素早く一人の横っ面を張った。もう片方の金髪が激昂し、僕の襟首を掴んで頬骨のあたりに拳を叩き込んだ。一瞬意識が遠のき、気がついたときには地面に倒れていて、そこへ二人の蹴りを浴びていた。爪先も踵も活用して全身余すところなくやられ、しばらくして金髪たちが去ったあと、肋骨にヒビが入ったらしいことを知った。こうなると呼吸するだけでキリキリと痛む。やってくれたものだ。体の他の部分にはさほど問題はなさそうだ。顔も腕も脚も青アザができた程度だろう。だが痛む。恨んだり恨まれたりがこのようにある場合、僕は泣き寝入りをしない。
 総入れ歯にしてやるよ。

(続)

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