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『ナイフはコーヒーのために』 #4

 電車に乗り、警備員とか金髪とかヤクザさんなど、今日会った人たちのいろいろに思いを巡らせて、倉庫の最寄りの駅で降りる。駅前の喧噪を抜けて同僚たちと無言の合流を果たす。僕たちは生きるために奴隷のように働く。人類が労働を克服する日を、死後にあるものとしてではなく、現実に起こりうることだと思いたいが。
 もちろん考えたところで愚にもつかないのはわかっていた。
 タイムカードを押すための列に並ぶ。押したやつから事務所の外に出てきて、列の横を通り過ぎる。その中にアーチーがいたので挨拶を交わした。
「今日は何を買った?」
 訊ねるとコンビニの袋をガサゴソやった。牛丼と緑茶が出てきた。
「うまそうだな。組み合わせもいい」
「牛食べる人、強くなる。牛は強いだから」
「つまりアーチーは強くなるんだな」
「そう、ハード・ワーク、がんばるしたい」
 がんばりたいなんて前向きなやつだ。僕もどこか外国で働けば、ふてくされずにこうなれるだろうか。考えたが、なれないような気がした。自分を支えている根本的な部分が違うのだろう。彼は常に上を目指している。そういう志向が僕にはない。ではどんなことならがんばったり上を目指せるのか、ということもわからない。ひとつ決めた。それがわかったらこのバイトを辞めてやる。
 流れてくる荷物を運び続ける。休憩になり、夕食をとりながらアーチーと話した。彼は財布に入っている写真を見せてくれた。赤茶けた木造の家の前に立つ、彼の両親と弟が写っている。弟は右脚を失い、松葉杖をついていた。きっと地雷にやられたのだろう。
「仕事、ない。代わりに僕やる。日本から、あー、送金? やる」
 いままでの送金と今月分とを合わせ、義足を買うそうだ。
「日本製のやつにしなよ。いいのがあると思う」僕はそれくらいのことしかいえなかった。
「でも日本のは、プライス、高い」
 アーチーは写真を見つめてそういった。
 休憩のあと、また荷物を運んだ。ずっと自分の脚を意識していた。ちゃんとある脚、動かせる足を、僕ごときが持っていていいのか。渡せるのなら渡したいくらいだ。でも、この考えや気分は気まぐれの同情なのかもしれず、本当に、責任を持って誰かのためを思うことを僕はできないのではないか。
 自分が嫌になる。荷物のケースを雑に置いた。ケースの中に入っているものは、人が生きるために必要なものではない。

 どこか酒くさい夜中の電車に乗り、地元にある二四時間営業のスーパーでいくつかの惣菜と缶ビールを買った。今日はちょっと飲みたかった。
 部屋に帰り、テレビをつけたものの観たい番組がなかった。居間の隅のラックからDVDを探した。飲みながらなので気楽に観られる映画がいい。僕は『バグダッド・カフェ』で号泣するような男だから、あまり感動的な作品はパスした。いまの気分にも合わない。
 結局『トレインスポッティング』を選んだ。
 ザーサイとサラミで飲みつつ、レントンちょっとかわいいな、と思って観ていた。マンションの廊下から足音が聞こえ、鍵を開けて葵が帰ってきた。靴を脱ぎ捨てて居間の床にぺたんと座る。「お疲れ」というと「あーい」と返事して右手を挙げた。
「映画?」
「うん。正しいジャンキー映画」
「ジャンキーは正しくないよ」
「正しくなさを正しく描いたんだ。見たまえマーク・レントンを。こんなにもリアルな表現でもって」
「あたしおなかすいたー。食べに行かない? 老蘭まだやってたよ」
 葵の腹が減ってることとレントンの一世一代の大勝負にはなんの関係もないのだが、ビールでほろ酔いの僕は快諾してプレーヤーの電源を落とした。
 マンション前の道を右に行けば老蘭がある。深夜までやっているラーメン屋だ。僕の好物はここのネギラーメンで、葵の好物は中華丼だ。僕たちはここへ来るとそれしか頼まない。
 店の主人が中華鍋を振るい、一気に炒めたあんかけの香りが届いた。
「今日ね、新しいオフィスの移転作業のあとで入って、パソコンのセットアップをやったの。三十台くらい」
「おう、それは大変そうだ」
「モニタのコネクタを差し間違えてぶっ壊れた。一台だけ」
「怒られた?」
「いや、初期不良ですねーときどきありますからねーってごまかした」
「うまいことやるもんだな」
 中華丼が運ばれてきて葵はレンゲを持った。あんまりうまそうなので一口くれといったが、何しろ彼女の好物であるため断固拒否された。
 老蘭からの帰り、道ばたの自動販売機で飲みものを買った。無糖のアイスコーヒーで、葵の分は僕のおごりだ。自分の住処でお茶や何かを飲み、ちょっと雑談することが、一日のうちでもかなりありがたい休憩になると知った。というより再確認した。葵を大事にしよう、と素朴な思いだ。
 コーヒーを飲んだ葵は風呂に入った。僕は映画の続きを再生する。

 次の日の昼過ぎに起きて、ボーッとトーストを食べた。葵はトーストを焼いてくれたあと、昨日と同じく化粧などの身支度をした。今日もバイトが入ったそうだが帰りは早いらしい。
 見送ってから寝転がった。ちゃぶ台の裏など見ている。やがてうとうとし始め、気づいたら夕方だった。バイトに間に合うよう、急いで部屋を出る。
 十五分ほど遅刻してしまい、リーダーに謝った。忙しそうなリーダーは大雑把な注意をしてすぐ持ち場に戻った。
 長時間睡眠をとったせいで僕は元気だった。疲れなどは特に感じないが、それは明日がいよいよ給料日だという高揚もあってのことだろう。
 何を買うか、作業の合間に考えた。
 生活費をさっ引いても買えそうなもの、CD、DVD、服など、欲しいものを心にずらりと並べて楽しい気分になっていた。
 夕食はまたアーチーと一緒だった。彼は今日ミスをしたらしい。倉庫の二階が持ち場で、ベルトコンベアを流れるケースに商品を入れていく作業をしている。確かに入れたはずの商品が、流れの先のほうで点検していた作業員によると見当たらなかったそうだ。これはおかしいということでアーチーはそこらを探した。ベルトコンベアの下の支柱に、商品であるコットンタオルが引っかかっていた。ガラス製品や何かの割れやすいものでなくてよかったが、通常はこういうミスは起こらない。アーチーにしたって初めてのことだ。
「失敗、やったけど、気をつける。がんばるしたい」
 彼はやっぱり前向きで、やるべきことは全てやろうという意気込みがあった。見ているともどかしい。こんなシケた倉庫でつまらん仕事をしてるやつじゃない。母国でも日本でもいいが、華やかな職が似合うと思う。
「それならプノンペンで、レストラン、ゲストハウス、とか? 店作るが嬉しい」
 僕は「応援するよ」といった。アーチーはニッと笑った。
 作業をこなしていって、明日の給料に舞い上がりながら帰った。給料をもらえるのがこのバイトの一番いいところだ。というか唯一のいいところだ。だが考えてみるとアーチーという友達に会えるという点も無視できないメリットだな。素晴らしい、二つもいいことがある。

(続)

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