見出し画像

第三の自己

幸せになりたいなら幸せになろうとしてはいけない No40 観察する自己

 おはようございます。

 私は、今日仕事始め。といっても、最近は、休みと仕事の境目が曖昧になってきておりますが…。

私が気づいていない私

 「我思う、故に我あり」という言葉に始まり、私たちの社会では、考えることは人間の究極の能力であると教えられる、と筆者は述べます。確かに、そうですよね。この瞬間も考えているし、考えることは美徳のようにされている。筆者もこれまで数多紹介されてきた思考の技術は否定せず、大切なものであると認めています。

 しかし、私たちには、思考以上のものがあると言うのです。それは、考えていること、イメージしていること、思い出したこと、そういった思考の部分とは切り離された部分であるというのです。

 もちろん、このnoteをお読みくださっている方ははわかると思います。そう、それは、観察する自己

自己について

 自己について、筆者は、まず、二つの自己を定義します。

1.肉体的な自己(私たちの体)

2.思考する自己(私たちの心)

 これらは、例えば、「心と体」とか「心身一如」とか、そういった形で言葉になっているし、なんとなくイメージもつく。動く自分と考える自分と言っても良いかもしれませんね。しかし、

3.観察する自己

 この言葉に関しては、ほとんど語られることがないと言います。このことに筆者は大変残念がっています。「それなしには、自己認識も心理的な柔軟性も持ちえないのに…」と述べています。

観察する自己の呼び名

 しかし、もうそれに気づいている人は多分いっぱいいて、それなりに名づけられているような気がします。例えば、メタ認知などはそれに近いかもしれません。

 私が、実践している臨床動作法という心理療法では、主体という言葉で表現されていることに近いと思います。このでいう主体とは、自分のからだとこころの両方を制御するような存在です。創始者である成瀬悟策は、”ボタンの押し手”と表現しました。ハードであるからだがあり、ソフトであるこころがある。しかし、それでは起動しないというのです。その両者を起動させ操作するボタンの押し手が必要と。それは主体。私は、これが、観察する自己に近いのではないかと思っています。

キーボード


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?