見出し画像

言葉は煮えて、声がほぐれる。

先週末から今週8日まで、九州ツアーに出ていた。久しぶりにソロでまわるので、美味しいものを沢山食べ早起きして観光もしつつ、とても充足感のあるツアーだった。
最終日は鹿児島。福岡の演奏が終わった翌日に前乗りしてかごしま近代文学館へ向かう。

今回の展示は脚本家としての向田邦子(敬称略)にスポットを当てたものだった。脚本家としての向田邦子が誕生し、育まれ、研磨され、形を成すまでに4人の恩師(森繁久彌、久世光彦、今戸公憲、市川三郎)との出会いを軸に展示が組まれており、とても見応えのあるものだった。
脚本家人生23年の間に約90本の脚本を書いている向田邦子の原稿を見ながら思ったことはとにかく字が読めない。思考(ひらめき)を筆に乗せるも、書く速度が追いつかないという感じを受けた。乱筆なのだが乱暴ではない。原稿に走る文字を見ていると頭の中に、透明な小川を泳いでいる鮎のフォルムが浮かんだ。向田邦子の原稿(随筆の方)を清書する(または校正だったかもしれない)専属の人がいると昔、何かで読んだことも思い出した。
「ドラマを、大衆小説として、身の上相談として、その代わりとして見ている人もいる。声なき評論家(視聴者)にも満足頂くものを書きたい」と仰っていた。
私が向田邦子脚本のドラマをリアルタイムで見ていたのは小学校高学年辺りからだ。セリフが台詞らしくないなぁと思っていた。生きた会話だった。
家の近所で井戸端会議をしているオバさん達のソレと寸分変わらない印象だった。だからか、余計にリアルだった。内容よりもそちらの印象が強く、またそれが好きで、とても良かった。


常設展示してある「向田邦子の世界」は今回より展示変えがされており、「エッセイの世界」を中心としたものだった。
私は時間を忘れじっくり見ながら沢山のメモをとった。目の前に置かれた原稿(に加え、エッセイを書くためのアイデア、構成が書かれたメモなど)を見ることで伝わってくるものが沢山あった。「あぁ、ここはやっぱりこうなんだ」「あぁ、そうかだからこうなんだ」気付きと発見、彼女の随筆や短編小説を何度も読んでは感じていた、思っていたことの答え合わせの時間でもあった。ここで色々書いてはみたけれど、蘊蓄(うんちく)はいらないなと、消してしまいました。私が感じた全ては、これからの自分の作品の中で活かされることが(できればいいが)健全な気がしている。

展示の中にいくつかあった生前の声を聞きながら、
「女の声色は時と場合によってというよりも、会話の中で矢継ぎ早に、瞬間に、ジェットコースターのように変化するもんだな」
と思う。声色にも地層のようにグラデーションがあり、声色の持つ層のどの辺りから発せられているのか、「ありがとう」そのひとことひとつとってみても、よく聴けば全部違う。自身もそうだけれど「想い」や「感じたこと」「考えていること」が言葉となり口から出るその瞬間、言葉自体は思惑の中で煮え、声に出すときにはもうほぐれてしまっている。言葉は気持ちを伝えるものではなく、いつも思惑の成り行きのみを相手に伝えているようで全く信用ならない時もある。文章だってそんな節がある。
向田邦子の生身の声は背筋をピシッと伸ばし一張羅を着て佇んでいるようだった。文章の文字は、原稿の後半に行けば行くほど思惑から逃れ、どこまでも自由に伸びていく線のようだった。
どこまでも自由になれる場所が原稿用紙の上だったのかなと、ふと思った。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?