ボーダライン外観

「四都物語 第1回」 ~福岡編~

(*2013年から2014年にJET SET RECORDS webサイト内で連載させて頂いていたコラムの再掲)

枠の外側を知りたい。 外側に行けばまた、その外側をみたい。

小学校3年生の頃家出をしたときも、自分の暮らす場所以外にも存在する街があるはずだという気持ちが募ってだったし、山や海を見るたびにその向こう側にあるだろう別の世界が気になって仕方がなかった。

世界地図を観たり、地球儀を回したりしてもその食指はピクリとも動かず、 自分が暮らす範囲内から見ることのできる景色、 その場所で起こるものごとのちょっと先、地続きである生活の外側にそういう想いが募っていた。
 小学生の頃、遊ぶことにも退屈になり近所を歩き回っては知らない人の家を訪ねたりすることがよくあった。 いい家だなぁいい庭先だなぁと思うとチャイムを押してしまっている。 もちろん、知らない人が出てくる。
 「こんにちは!近所で遊んでいて迷子になっちゃって......」と言うと「あらら、どうしたの?」と、家の中に招いてくれる。このご時世じゃ考えられない事かもしれないが......。そしてお菓子やジュースをご馳走になり、居間に置かれた家具や、カーテンの色、台所に置いてあるものにキョロキョロと目をやり、ふかーく息を吸ってその家の匂いを嗅ぐ。知らない家の知らない人達の生活の拠点に自分が紛れ込んだという事実にドキドキしていた。 
「大丈夫、帰れます。ありがとうございます」などと適当な事を言って駆け足でその家を後にしていた。  チャイムを押すまでは全く自分に関係のなかったその家と家主が、 自分の中で知っている人になる瞬間のようなものにワクワクしていた。
 知らないこと、知らなくてもいいことを知るのが好きだった。 好きだったというよりただ「知る」ということに執着していた。
 想像していた事が実際に何処かに存在するという事実を知ると、 今度は自分の想像力なんてたいしたものじゃないんだなと思ったりもしていた。
 無駄な好奇心だけが頭の中を占めており、それは多分、生きていくことにはあまり必要のないしろものなのだが、どこからそういう気持ちが湧いてくるのか考えた事もなかった。

 生まれてくる場所は選べないが、自活する場所は自分で決める。
高校生になる頃には決めていた。 生まれてから18年間、佐賀県の唐津市という田舎町で過ごしていた私にとって、福岡は大都会。 19歳から24歳までを過ごした街である。 友人知人もまだおらず、育った街から一番近い都会というだけで暮らすことを選んだ街だった。 当初、親族もいる大阪へ行こうかとも思ったりしていたが、経済的な理由から諦めた。 働くなら映画館かレコード屋と決めていた。このふたつの場所と、映画と音楽が好き。それだけの理由だった。 タウンページを開き、かたっぱしから電話をかけた。 3件目に繋がったレコード屋で面接が決まった。 面接を受け、採用されたレコード屋「ボーダーラインレコード」は、当時、福岡/北九州に何店舗かのお店があり、本社が六本松にあった。私はこの本社で働くことになった。
本社のビルは1Fが店舗、音盤(いろんな会場で数十店舗のレコ屋が集まってレコードを売る)の搬入搬出をするスタッフ部屋、 2Fはレコードミュージアム、3Fが事務所となっており、 月曜から木曜までの週3日を事務所で、金、土、日は2Fのレコードミュージアムで働く事になった。
 事務所には社長を含め数人のスタッフが勤務しており、その中のKさんHさんという二人が私の上司と呼べるひとになった。月曜から木曜までは新譜の発注/委託の在庫管理、"カメレオンフラッシュ"というフリーペーパーの編集、各店舗へバイクで商品 を届けるなど、いろんな内容の仕事をしていた。 空き時間には店舗へ降り、中古CDやレコードを物色し、時々店舗にも立ち買い取りなどもやっていた。
 

「レコード屋」の持つ雰囲気が好きだった。
 8割位は男性のお客さんなのだが、店舗に立つ時は数人のお客さんが同じ場所にいながらひと言も発さずに、ただサクサクとエサ箱の中のレコードを軽快な音を立てながら物色している様子を見るのが楽しかった。 仕切りを確認し、エサ箱の前に立ち、手前からか、後ろからか(これは人による)ジャケットを引き上げチラッとだけ確認している間にもう片方の手は次のレコードに手がかかっており"シュッシュッ"と音を立てながら一箱分のレコードを1分もかけずに確認していく。熟練した人になるとこれを片手でやる人もいた。ある意味、職人技だと思う。気になるジャケなのか探していたレコードなのか見つかるとスッと抜き、じっくり見るのは裏ジャケに書かれているクレジットだったりする。ジャケ買いなんて人もいる。 まんべんなく探すその行為が観ていてこんなに気持ちよいものとは知らなかった。
 レコードの漁り方でその人の"ひととなり"を勝手に想像して楽しんでいた。 CDを買う人にも同じような人がいて、スタッフが書いた紹介文をじっくり読む人。盤の傷を執拗に気にする人。試聴だけをじっくりする人。いろんな人がいた。 「物」の持つ(放つ)魅力が店内にも漂っていて、その居心地のよさがたまらなかった。
 そういえば、マシュー・スイート/ガールフレンドのジャケに向かって話しかけて帰る人なんかもいた。売れてしまったらあの人これからどうするんだろう......、何故買わないんだろうと無駄に気になって仕方がなかった。
 いろんな仕事の中でも、レコードミュージアムの仕事はとても好きだった。 所蔵されている約2万枚程のレコードの中からお客さんが聴きたい物を所蔵ファイルから選び紙に書いて渡してくる。お客さんはブースに座りヘッドフォンをつける。私はそのレコードを棚から探しだし、プレイヤーにのせ、針を落とす。A面が終われば挙手してもらい、B面に裏返す。
基本的な仕事がこれだけ。その間はミュージアムにある色んな書籍をかたっぱしから読みふけり、ミュージアムに設置してある大きなスピーカーで所蔵されているレコードを思う存分聴いて過ごす。しかも音がすこぶる、いい。 ミュージアムの所長だったTさんと2人で朝11時から夜8時までそんな感じで過ごしていた。

 Tさんは今までに会ったことのない種類の大人だった。
Tさんのことを詳しくは知らなかったが、以前は東京で雑誌編集の仕事をしていたらしい......記者だったらしいと聞いたけれど、どれも本当かは知らないままだった。 最初の半年間はろくに話もしてくれず、嫌われているのかとあきらめかけた時ポツポツと話をしてくれるようになり、 それでも仲良くなることは難しかったが、時々唐突に手品を披露されたり、韓国、ロシア、ドイツなどの音楽をMDにおとしてきてくれたりする。そして何を聞いても即答してくれるだけの知識の量に舌をまいた。 
ただ、このレコードミュージアムお客さんがこない。 一日に多くて2、3人という日もザラ。ゼロの日もある。 驚くことにこのミュージアムは無料だった。何故に人がこなかったのか謎なのだが(そんなに認知されていなかったのもあるのだろう)資料としてみても多くの書籍が揃っていたし、レコードはROCKを中心に邦楽・洋楽リリースされた初回盤のみを所有しており、盤も国ごとに集められていたのでジャケが違うのを見比べる楽しみや、めったにおめにかかれないレア盤も実際聴けるし、天国以外のなにものでもない場所だった。
そして私はここで色んな音楽を知った。19歳のアルバイト収入では聴いてみたいと思ったところで到底買えない量のレコードを毎日聴けた。書籍を読み、きになった作品はすぐにある。あるから聴く。聴いて気に入ったらレコード屋で探して買う。という日々を約2年間過ごした。この2年間がなかったら音楽の愉しさや奥深さの迷路にハマることはなかったかもしれない。 
 あまりに暇なときはウトウトしてしまうのをくい止めるべく、歌詞を書いていた。 この時期にできた曲は殆どが埋火(うずみび)初期の曲なのだが、ここで働いてなかったら歌詞について色々考えることもなかったかもしれないし、バンドをやりたいとは思わなかったと思う。

事務所の上司だったKさんはバンドをやっていた。「遊びにおいで」と誘われ 当時、親不孝通りにあったベガーズバンケットというクラブに出向いた。Kさんから色んな人を紹介してもらった。 それから毎週末はライブハウスやクラブへ通うようになった。色んな地元のバンドが企画をやっていて、遠方からも出演者を呼んだりしており、そこで割礼やJOJO広重、 羅針盤を始め、いろんな土地で活動するミュージシャンを初めてライヴで観ることができた。音源を聴くだけではわからない、その人達が暮らしている都市、街でつくられ鳴らされている音楽。 ライブを観ながら「こういうのはきっと、福岡では生まれない音楽だろうなぁ......」とフと思ったりしていた。なにを感じてそう思ったのかは忘れてしまったが、強くそう思うと同時に心がザワザワしていたのを憶えている。
 
レコード屋のもう一人の上司、Hさんはルー・リードがどんな風に素敵かをよく話してくれた。 ニック・ロウの良さを聞きますか?いや、XTCの良さを話すと長くなりますよ。イアン・デューリーは聴いたがいいですよ!など、とてもやさしい口調なのでついじっくり聞いてしまう。それから映画にも大変詳しく、いろんな作品や監督をたくさん教えてくれた。
事務所で作業をしている時はよくリトル・フィートが流れていた。社長が好きなバンドのひとつだった。社長が毎日聴いているおかげでリトル・フィートを好きになったと言っても過言ではない。だって本当に毎日流れてるんだもの。

いろんなものごとには入り口があり、その入り口を見つけくぐるのは自分の意志であれど、その先へ、もっと奥の方に進んで行くためには寄り道も多々あり、ボーダーラインで出会った全ての人が水先人になってくれるような人達だった。 ただ、若い時分であったからか、薦められる全てを理解はできず、すこし背伸びをしなから音楽を聴いていた。 ライブハウスに通うにつれ、知人、友人も増え、地元のバンドの音楽に触れて行く中で曲を作ったりするのも楽しいが、ライブがやりたいなと思うようになっていった。バンドを組もう、そう思って2001年10月に埋火を結成した。21歳になっていた。
 福岡での暮らしは随分楽しかった。 やりたかった仕事ができて、バンドも始めて、面白いイベントも毎週ある。 行きつけの呑み屋や喫茶店もある。友人知人もできた。 好きな場所が増えていくと、その街に愛着が湧きはじめる。街の至る所に色々な想い出も増えて行く。 生まれた街ではないけれど、この街で出会った人、おこる出来事などから影響を受けているのを感じていた。 ただ、そういうものが増えて行くと、こころのどこかでそれらをおっくうに感じる自分もいた。 生まれ育った隣の街は、小さい頃の自分からすれば異国に等しい。 知らない人、知らない道、知らない場所だらけ。 それが自分の中で馴染みのあるものになっていくとき、暗い気持ちになっていく自分もいた。 「生活に甘える」という言葉がずっと頭の中に在った。馴染むでなく、甘えるという卑屈な視点でばかりものごとを考えていた。このまま、なんとなく満足して、なんとなくをずっと考えないで過ごしていくのか。
そういうことばかりをぼんやりくゆらせていた。

ちょうど同じ時期、福岡のバンドロレッタセコハンの出利葉さんとよく話をするようになった。 「自分たちの音源を作りたい」と思うようになっていた私は出利葉さんによく相談していた。メンバー以外の人に初めて曲を聴いてもらった。「いい曲だねぇ」と言われたことが自分でも驚く程とても嬉しかった。 コツコツ書いたり作ったりしていたものを、初めて他人に評価されたことが単純に嬉しかったんだと思う。 「いい曲だね」というひとことが、こんなに心地よく響くものとは知らなかった。出利葉さんは何の気なしに放った言葉だったかもしれないけれど、この時自分が何をしたいと思っているのか、なにをしようとしているのか、ぼんやりくゆらせてばかりいた想いが、初めて形となって頭のなかに浮んだ。 そしてレコード屋をやめようと思った。 

2年間ここで働きながらいろんな音楽と出会えた。音楽にも色んな聴き方があるんだと知った。 聴こうとせずとも聴こえてくる音があることや、音楽にも行間というものが存在することや、 音楽の後ろで、瞬間で起こっていることがみえてくる。 感じ方や捉え方が変わると、音楽の楽しみ方も自然に変わっていた。 色眼鏡も持たず聴くもの全てが衝撃だった。
知らないものをなんでも知ろうとする行為よりも、 ふるいにかけたときストンと落ちてくるものに集中できたらいいと思うようになっていた。
 「知ること」と「解る」ことは全く違う。知らなくてもいいことは、いつか知るときがくればそれでいいと思うようになっていた。 なっただけで、じゃあ具体的になにをすればいいのかはまだよく解らないでいた。 大事にしていたレコードやCDもこの時期ほとんど売り払ってしまった。
いろんなことを知った気になっているだけで、実際なにも解っていない私には、 なんだかもう必要ないと思っていた。
レコード屋を辞めて、映画館に勤め出した。21歳の冬だった。

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