寿司雑記5


2月になってすぐ。
イベンターBEA森さんの訃報が届く。森さんとの思い出は沢山あるけれど、テーンネイジャーの頃、森さんは福岡で面白い企画を沢山催し、私は足繁く通っていた。この頃の全ては今の自分自身を形成することに多大な影響を与えてくれたと自負している。二十歳を過ぎてバンドを始めた頃には一緒にお酒を呑みにいくようにもなった。
殆どテレサ・テン(鄧麗君)の話しをしていた。森さんとカラオケに行くとテレサ・テンをどんどんうたう。しかも全部中国語Verでうたう。森さんのうたう中国語バージョン「つぐない」はいつ聴いても最高だった。もう聴けないんだね。
大阪で暮らすようになってブッカーの仕事をしている時は裏方として沢山仕事のやり方を教えてくれた。向井(秀徳)さんと遠藤賢司さんの2マン企画を組んだ時、ちょっと面倒なことが起こりその対応で四苦八苦してなんとかなった後に「見汐さん、そのやり方はあんまりよくないよ、考えうる最悪を全部想定して潰していくことだよ。僕はとても怖がりなんで余計にそうしないとダメなだけなんだけど」と言われそれ以降は森さんの言葉通り、何をやるにしてもそうしている。その日の打ち上げ、最後は森さんと私、二人だけが残り、熱燗を煽りながら音楽の話、心底どうでもいい話をした。楽しかった。
東京で暮らすようになり、埋火を解散してMANNERSを始めた2014年、新譜を出した時、すぐに連絡をくれた。「今度福岡でBuffalo Daughterと一緒にライブを組みたいんだけど……」もちろん二つ返事だった。自身の活動する音楽そのものでやっと一緒に仕事ができることが嬉しかった。
森さんが東京在住時、ZAZENBOYSのライブに招待して頂き、野音に出向いた日があった。「おぉ、きたんやね」「はい」「いやぁ、ほんと楽しそうよねぇみんな」最後尾でニコニコしながら本番を見る森さんは本当に楽しそうだった。日々、大変なこと、ややこしいことが積み重なってある(仕事)その一番先端にちょっと、でもでっかい楽しいがあるんだろうなと森さんを見ていると思ったりした。その後も福岡でライブをする際はDJで出演してくれた。百々和宏とテープエコーズ、福岡ライブの時、久しぶりに会った森さんは少し痩せていた。一緒に呑みながら「ぐてんぐてんやないですか」というと「お!哀川翔ですね!」「いや、それはぐてんぐてん…、歌じゃないけん」という、こういうやりとりをするのは森さんとだけで私は楽しかった。「火曜局」というイベントを始めたと聞き、福岡による度何度か出向いた。ボギーさんも含め、本当に最高の企画だった。

2022年、7月。見汐麻衣withGoodfellasでの福岡ライブが決まって、森さんにDJをお願いしようと連絡をした。4月の時点では「おけー!7月に!」という返事だったのだが6月に入って「長年の不摂生(おもに飲酒?)が祟ったのか、けっこうマジで体調を崩しまして、寝込んでこそいませんが、外出と言えば自宅と病院の往復、たまに買い出し程度です。楽しみにしていたのですが、断念せざるを得ない状況です。せっかくお誘い頂いたのに申し訳ありません」と連絡がきた。私はことの深刻さなどつゆ知らず、「早く元気になってください。またお酒飲みましょう!」というようなあっけらかんとした返信を返した。

それから8ヶ月後、年が明けて2月2日。
森さんの訃報が届いた。今年に入ってこちらが一方的に好きだった方々や、知人の方の訃報を耳にすることが急激に増えている中でのことだった。落ち込むとか、悲しいとか、そういうことよりも先に「なんで!いやだ!」と口にしていた。お葬式にもいくつもりでチケットの手配など調べていたのだが、突如私自身が体調を崩し3年振りに慢性気管支炎になった。4日、丸一日布団に突っ伏していたら斎場に行っている色んな方からメールが届いていた。一緒に添付された写真を見ながらテレサ・テンを聴いてちょっとだけ日本酒を呑んでひとり、部屋で森さんとお別れをした。

いつもの酒場にて、だいたい0時過ぎてくるともう何を話しているのか互いにわからない。
「見汐さんはねぇ、まぁ、あれですよ。えぇ、あれあれ、あれなんだっけ」
「もう、いいですよ、何も言わんで」
「いやぁ、がんばってますよ」
「がんばってますよ!カラオケ行きますか!」
「行かないでしょう、こっからカラオケは……」


すぐに思い出すのはこういうことばっかりだ。
この世のお勤め本当にご苦労様でした。また逢いましょう。


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