SNSフェミニストのための「闘争理論」(草稿)
こんにちは。1976newroseです。
日に日に発言力を増すSNS上のフェミニスト(=長いので、本稿では「SNSフェミ」と呼称します)たちについて、私は否定的な見解を持っています。
もちろん私は「男女平等」に反対しているわけではありません。
また、この社会に女性特有の課題が多く残っていることも事実だと思います。
そこで本稿では、「SNSフェミニストのための闘争理論」と題して、SNSフェミの活動に資するような提言を行いたいと思います。
なぜなら、現状のSNSフェミには賛同できない私も、彼らが訴えかける「女性特有の課題を解決してほしい」という動機には、うなずけるものが多いからです。
絶対的な敵対関係を避け、SNSフェミの方々がよき対話相手となることを心から期待しています。
さて、本論の論理構成は以下の通りです。
SNSフェミに否定的な理由の説明→それらを受け、SNSフェミが取りうる闘争形態の提案。
さっそく参りましょう。
まずは、私がSNSフェミに否定的な理由について、以下に記します。
その理由は、おおきくわけて以下の3点に収斂します。
①論理的不要性。
②統一的意思決定機能の不在。
③闘争の稚拙さ。
順に説明してまいります。
①論理的不要性。
女性特有の課題を解決するために、フェミニズムの論理は特に必須ではありません。むしろ既存のリベラリズムの枠組みで十分対応できると私は考えます。
どういうことでしょうか?
フェミニズムが課題とみなすテーマは多岐にわたりますが、大まかには以下の通り分類できると思います。
◆セクハラや性暴力など、直接的な性の問題。
◆「女らしさ」の強要など、ジェンダー観に関する問題。
◆出産や育児など、女性特有のライフサイクルに関する問題。
◆巨乳モデルを使った広告や、性的コンテンツなど、「不快感」に起因する問題。
次に、これらのテーマを既存のリベラリズム的観点から分析してみます。
◆セクハラや性暴力など、直接的な性の問題。
→身体の自己決定権を犯すことは、端的に犯罪です。これはリベラリズムの文脈内で理解でき、フェミニズムは論理的に必須ではありません。
◆「女らしさ」の強要など、ジェンダー観に関する問題。
→身体・表現の自由を犯すことは、リベラリズムの理解でも望ましくありません。また過度な強要や中傷は端的に犯罪です。よって、この論点を理解する際にもフェミニズムは論理的に必須ではありません。
◆出産や育児など、女性特有のライフサイクルに関する問題。
→障害者や老人など、生来的な性質のために一定の配慮が求められる人々を認め、適切な措置をとることは、リベラリズムの文脈において理解可能です。実践もされています。私も、女性特有のライフサイクルに対する配慮や施策は不十分だと感じます。しかしこの論点についても、フェミニズムは論理的に必須ではありません。
◆巨乳モデルを使った広告や性的コンテンツ、男性性など、「不快感」に起因する問題。
→SNSフェミが嫌われる原因のほとんどがこの論点でしょう。
しかし、リベラリズムの文脈では、SNSフェミの不快感よりも表現の自由が超越します。当たり前です。
もし現状を変更したいのであれば、条例等の立法機構を通じて正規の規制を行えばいいだけです。
ただし、立法機構を利用する際には、当然法案は厳しい論理的批判にさらされます。憲法にまで記載された表現の自由を超越して「不快感」の解消を図ることは至難(不可能)でしょう。
また「不快感」が他者の自由より超越するならば、たとえば、ユダヤ教のマーク「ダビデの星」を、キリスト殺しの象徴であり不快だから使用できなくすることも、論理的には問題ないことになります。そんなわけないですよね。
というわけで、この論点については、フェミニズムの文脈でしか理解できません。
しかしこの論点は、既存のリベラリズムと鋭く対立するため、リベラリズムを否定しない限り成立しません。したがって、リベラリストである限りこの論理を採用することはできません。
…と、このように、フェミニズムが取り上げる論点は、既存のリベラリズムで(原理的には)解釈も対応も可能か、もしくはリベラリズムを否定しない限り成り立たないものか、の2つしかありません。
リベラリズムを信じる限り、論理的にはフェミニズムは不要、もしくは有害と言わざるを得ないでしょう。
ただし、私はこれまでフェミニズムが果たしてきた「社会に問題を提起する機能」については認めています。
婦人参政権に始まり、男性の視点からは見落とされていた論点を提起する能力は、素晴らしいものがあります。
それでもなお、それらの論点のほぼすべてが「論理的にはリベラリズムで対応可能」であることを確認する必要があります。
なぜなら、「リベラリズムで対応可能な論点」については、性別を超えて、リベラリストであれば容易に合意できる可能性が高いためです。
逆にいえば「リベラリズムでは理解も対応も不可能な論点」は、リベラリストにとっては受け入れがたいもの、ということです。
この論理的な構造の確認が、SNSフェミに正しい武器と闘争方法を与えます。最終章で詳しく述べます。
②統一的意思決定機能の不在。
SNSフェミは通常、意思決定のための機関を持った組織を構成せず、一個人の集合体としてのみ存在します。そのため、統一的な意思決定を行うことができません。
意思決定のための機構を持たないということは、社会に対して闘争を挑むときに、【動機(問題意識)―戦略目標—作戦—戦術(手段)】のいずれについても共通した認識を持つことができないということです。
そのため、闘争慣れしていなかったり、論理的に劣ったり、過度に男性蔑視的な一部の者の発言を切り取られて、SNSフェミ全体が貶められることにつながっています。これは明確な弱点です。
あたかも戦争において、防備の薄い戦線が集中攻撃で破られるような感じでしょうか?
しかし、このこと自体が悪いわけではありません。またこれは、SNSフェミ特有の問題でもありません(保守とネトウヨにも同様の構造が見られます)。SNSで個人が発信するという既存の構造が変わらない限り、この点は解決することが難しいでしょう。
③闘争の稚拙さ。
これはすべてのSNSフェミに該当するわけではないですが、多くのSNSフェミは戦術、もしくは闘争手段において稚拙です。
なぜなら、②で述べた通り、彼らの設定する目標は時に不明確だったり誤っていたりするため、目標の解決に向けた統一的かつ継続的な闘争を行うことができないからです。
さて、最後に、上記の議論を踏まえたうえで、SNSフェミのための闘争理論を提案します。
古来より、優れた戦争理論は、優れた敵に対応する必要性から生じます。
ハンニバルの包囲殲滅理論、グスタフ・アドルフの三兵戦術、帝政ドイツ軍の浸透突破戦術、赤軍の全縦深同時打撃理論…枚挙に暇がありません。
私は、SNSフェミの方々にとっては敵かもしれません。しかし、敵から出た理論は、彼らの闘争の理論を高めるでしょう。
それでは参ります。
SNSフェミは、以下の理論に基づき闘争を遂行すべきです。
①「フェミニズム」=「女性特有の課題に問題意識を持つ者」と定義。
→まずは、フェミニストとは何かを明確に定義しましょう。これまで見た通り、フェミニズムの特徴は「女性特有の課題を社会に問いかける機能」に優れる一方、「リベラリズムに対し論理構成の面で劣る」ことにあります。
フェミニズムは機能、もしくはアイデンティティとしてのみ用い、その論理構成は別途リベラリズムを用いるべきです。
(なお、この理解に基づけば、私もフェミニストを名乗ることができます。いいですね。)
②主張の論理構成にはリベラリズムのみを用いる。
→上記①の通りです。「不快感」などの感情や、「性的消費」といった学術的裏付けの乏しい造語をベースに、リベラリズムでは理解できない事柄を他者に強要するなどもってのほかです。なぜなら、せっかく容易に合意できる可能性の高い、リベラルな人々からの支持を失う可能性が高いためです。
③解決すべき目標は、リベラリズム理論で理解できるものだけに限定する。リベラリズムと対立する理論は一切用いない。そのような論点にも触れない。
→SNSフェミが広く嫌われ、また重要な戦線で勝利できない原因は、リベラリズムと対立する目標を設定してしまうことです。どんなに不快でも、巨乳広告やエロ絵、石原慎太郎の「男の業の物語」表題批判など、表現の自由を侵害するような目標の設定はやめましょう。論理的に勝ち目がないどころか、いらぬ反撃を受けるだけです。不毛です。感情的にムカついたとしてもグッとこらえましょう。
さらに、同じ「フェミニスト」の中で、このルールに抵触するものがいたら、批判を加えましょう。狂信者もしくはファシストと同類視されることは必死で避けねばなりません。リベラリストである、という立ち位置を失うことは、社会に対して論理的橋頭保を失うことと同義です。
④批判は個人の言動のみに加える。「男性」「年寄り」などの属性に基づく批判をしない。
→これもSNSフェミが嫌われる原因のひとつです。これを行うと、例えば「女性が参加する会議は長くなる」と発言した森・五輪組織委員会長のように、「実際にはそうではない」広汎な人々からの反感を集めますし、論理的にも「フェミはクソ」といった雑な批判にも再批判ができなくなります。
言うまでもなく、ほぼすべての男性は痴漢でもセクハラ男でも女性差別主義者でもありません。ニュートラルな存在です。
批判は個人のみに加え、属性とは明確に切り離しましょう。
いかがでしたでしょうか?
SNSフェミニストのみなさんとは、リベラリストの立場からは理解も許容もできない「敵」ではなく、同じリベラリストとして、「対話者」としてお会いしたいと心から願っています。そのレイヤ以外に、フェミニズムが勝利を収めるレイヤはありません。
以上、お読みいただきありがとうございました。
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