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東日本大震災と私3

↑この続きです。東日本大震災の後にどんな風に日常に戻っていったのか、毎日書いていた日記をもとに構成しました。当時は仙台から少し郊外に住んでいました。うちは大きな被害は受けなかったので、比較的早く戻ったほうだと思います。(あくまでも私個人から見たせまーい世界の話です)


3月19日(土)13/0℃
今日は日差しがあたたかい。クッキーとブロッコリー・玉ねぎ・ソーセージ炒めで朝食。お米が買えるという情報をもらったので父と車で少し離れたコープへ。1時間ぐらい並んで入れた。父がなぜか普段はしない“結婚とは”みたいな話を始める。私に結婚のけの字もないのでこういう緊急時に困るんじゃない?みたいなことを言いたかったのか?父が亡くなってしまったので謎のまま。お米2キロを4袋、ほうれん草、まいたけ、生しいたけ、なめこ、みかんを買う。キャベツは売り切れ。制限がないけど私は買占めはしないようにしようと誓う。ホットケーキを焼いてお昼。
仙台港が使えるようになり、石油や食料などが届いたみたい。気仙沼で20代の男性が半壊の家の中から救出される。すごい生命力。
町内会長の友人の牧場から牛乳2リットルを無料で分けてもらう。しぼりたての生乳を沸かして初めて飲んだ。濃い味。
福島県の双葉町の方々がさいたまスーパーアリーナへ移動。そのほかの県でも受入れ態勢ができてきたようだ。

3月20日(土)12/5℃
クッキーとほうれん草・ハムの卵とじで朝食。父が近所のケーキ屋さんで1個200円・ひとり5個までのケーキを買ってきたのでおやつに。11時過ぎにはそのお店でパンを出すというので今度は私が行く。小さな食パン1個100円を買う。ミニストップに寄ったらおにぎり(梅とこんぶ)が100円だったので買ってお昼に食べる。
ラジオでいつから音楽が流れるようになったのか書いておかなかったけど、この日はDate fm(FM仙台)でスタレビの『愛の歌』をかけてくれた。そういえば『アンパンマンのマーチ』が話題になった。赤坂泰彦さんもアニソンを流す番組をやってくれた。まだ大きい余震があるけど少し気持ちが明るくなる。
ココスが営業再開。早めに行ったらまだだったのでラーメン屋に。久しぶりの外食。
石巻で80歳と16歳の方が救出される。冷蔵庫のものを食べて生き延びたそうで、すごいなあよかったなあ。

3月21日(日)7/4℃
久しぶりに朝食に食パンが並んで嬉しい。母と近所のコープへ。キャベツ、バナナ、トマト、ブロッコリー、かまぼこ、さつまあげ、紅茶、コーヒーを買う。スーパーの列はだいぶ短くなったけど、ガソリンスタンドはまだ3時間ぐらいかかるようだ。
NHK-FMで「今日は1日大瀧詠一三昧」を聴いて和む。ラジオ番組も徐々に通常編成に戻ってきたみたい。
うちはプロパンだから止まらなかったけど、仙台市内は都市ガスの復旧に時間がかかっている。入浴施設でお風呂を開放しているという情報もあるけど、友達はガソリンが残り少なくて入浴施設にも行けないようで、発泡スチロールの箱にお湯をためて行水してるそう。
固定電話が復旧。故障ではなかった。

3月22日(日)9/3℃
私のPHSが自宅でもやっと繋がってメールできた。フォーラム仙台とチネ・ラヴィータ(映画館)も営業再開するようだ。
バスが日曜・祝日ダイヤで運行されることになり、母とそろそろ仙台に出かけてみようかと14時55分のバスに乗る。地下鉄泉中央駅から台原駅までが不通になっているのでその区間は無料のシャトルバスに乗換えて台原駅まで行き、そこから地下鉄。広瀬通から仙台駅方面へ歩く。ダイエー(現・イオン)は行列してたけど、夕方だったのでほかのお店は17時頃には閉店していて何も買えず。家から遠いのに行くのが遅かった。ベローチェやプロントは営業してるけどドリンクのみ。お弁当を売るお店も出てたけど牛たんとか焼肉が多い。電力ビルにある寿司こうや(現在は閉店)でお弁当500円を買って食べた。海苔巻き4種類とたまご。とってもおいしかった。
帰りの地下鉄は帰宅ラッシュでぎゅうぎゅう詰め。家まで直通ではないけど早く来たほうのバスに乗る。うちの団地に入る手前のバス停で降りて20分歩かないといけないので疲れた。通勤再開したら行きも帰りもしばらく混乱するんだろうなと思うと気が重い。


これ以降はスーパーやデパートも少しずつ戻り、自分の生活もだいぶ通常に戻ってきたので、細かい内容は割愛して特に印象に残っていることを書きます。まだ余震は毎日続いています。


3月26日(土)7/-1℃
朝起きたら2~3センチ雪が積もっていた。昼頃から晴れ。
午前中イッセー尾形さんの事務所の方から仙台公演中止のお詫びのお電話が来てびっくり!!一人芝居のチケットを予約していた全員に電話てくれたみたい。それなのに私ったらろくにしゃべれず、切った後で「こちらこそ大変な時にありがとうございます」ぐらい言えばよかったと激しく後悔した。ものすごく嬉しかったのに。

3月28日(月)10.5/-1℃
東京でソメイヨシノが開花。2週間ぶりに出勤。家から最寄りの地下鉄泉中央駅までバスで75分、そこから駅の外まで信じられないような長蛇の列に60分並んで台原駅までシャトルバスで30分、地下鉄で10分で仙台駅、そこから徒歩で約10分。通常なら朝は1時間弱の道のりが3時間以上かかってたどり着いた。もちろん遅刻。長期で休んでいたのは私ともう2、3人くらいでほとんどの人が先週から出勤していたようだ。
東海地域の支店からご飯、パン、カレー、カップ麺、みそ汁、生理用品などの支援物資が届いてありがたく頂戴する。お昼はそのパンとカップ春雨。同僚とたくさんおしゃべりしながら食べる。帰りは仙台駅前から家まで直通のバスに乗れたので1時間で帰れた。

3月29日(月)13.6/0℃
今日は仙台駅行きのバスに乗ったので昨日より30分くらい早く出勤できた。
帰ったら父の尾道の友人から食べ物がたくさん詰まった段ボールが届いていた。オリーブオイルとか重いものもいっぱい。送料かかるだろうに。不足気味のマスクも入っていてとってもありがたかった。

4月7日(木)17/3℃
23時32分頃、もう寝ようという頃に震度6強の地震。沿岸部には津波警報が出た(結局津波は来なかったけど相当怖かったでしょう)うちの地域は震度5。停電になってあの恐怖がよみがえる。念のため水を汲んでから寝た。

4月8日(金)20/8℃
朝になっても停電のまま。水とガスは大丈夫。昼間も余震が何度もある。PHSがまた繋がらなくなったので職場に連絡できずにいたけど「まあ夕べの地震で行けないのわかるよね?停電だし」とのんきにしていたら、父の携帯に上司から留守電が入って慌ててかけ直す。仙台市中心部は停電しなかったのか?上司がものすごく心配していて「いま車で自宅まで行こうかと思ってたんだよ!」とすごい勢いで、逆にこっちが驚く。平謝りに謝った(汗)16時10分頃電気が復旧。

4月12日(火)20/8℃
仙台で桜が開花。次の日の昼休みにはまだ咲き始めだけど公園でお花見ランチ。


その後、4月18日には路線バスが平常ダイヤに戻り、4月25日には東北新幹線の仙台ー福島間が開通4月29日には仙台市営地下鉄と東北新幹線が全線開通。国内外問わず救助に駆けつけてくださった皆さんはじめ、どれだけ多くの方々が復旧・復興のために尽力されたのか想像もつかないけれど、今現在何の心配もなく生活できているのはこういう時に頑張ってくれる方々のおかげだと心から感謝します。

12年経つ現在も行方不明・身元不明の方が大勢おられる未曽有の大災害。私はありがたいことに家族も家も無事でとても恵まれた状況だったと思います。帰宅困難やライフラインの遮断、お店に何時間も並んだのはみんな同じように経験したことだから。そんな宮城県に住んでいながら、だいぶ記憶が薄れていることに自分でも愕然とします。まだ完全に復興したわけではないのに。こうして折に触れて発信することで、誰か一人でも東日本大震災のことを思い出してくれたらいいなと思って書きました。長々とお付き合いいただきありがとうございました。


★外出時に持っているといいもの
現金(小銭)、ソイジョイなど食べ物、チョコや飴、モバイルバッテリー、ラジオ(電池)、イヤホン、ライト(電池)、反射材のバッグチャーム、ホイッスル、ビニール袋、携帯用トイレ、ハンカチ、ティッシュ、ウエットティッシュ、メモとペン、身分証明書、ビニール袋、薬、マスク、カイロ、ばんそうこう、生理用品 など

★家にあると助かるもの
日持ちする食べ物や缶詰、水、給水用のタンク、ラップやアルミホイル、ティッシュ、紙皿と紙コップ、携帯用トイレ、トイレットペーパー、電池、懐中電灯、ソーラーランプ、軍手、湯たんぽ、やかん、新聞紙、マスク、冬なら反射式ストーブ、カイロや厚手の靴下 など

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