バス

河本検見太郎は中学時代バスケットボール部に所属していた。
河本が中学に入学する一、二年前にジャンプでスラムダンクが始まっていたのもありなんとなく入部を決めた。


河本は体力的についていくのがやっとで大体練習中に体育館のトイレでその日の朝食べたものを吐いていた。
特に練習自体がキツかったというよりは河本の基礎体力が並の中学生を大幅に下回っていたからだった。

ミニバスケをやっていた人間も数人いたのだが河本は中学から始めた初心者だったので当然試合に出る機会も無く、専らスポーツドリンクを先輩に渡す係。応援する係などをしていた。

それで三年生が引退すると何故か二年生のしごきが過剰になり一年生の河本は退部する事にした。同じように辞めたがっていた数人の一年生で退部の旨を先輩、顧問の先生に言いに行った。

それで体育館を後にしようとすると一人だけ辞めないと言っていたS君が先輩達に混じって練習していた。

河本と退部希望の二人は相談してS君が辞めないみたいなので一年生大会だけは出ようという事にした。

それで一年生大会用のチーム練習が始まった。顧問のT先生の指導のもと地区大会用に教わった事はボールのもらい方、スクリーンのかけ方、など。ディフェンスは2−3のゾーンディフェンス。
河本はマンツーマンディフェンスに比べて動きが少ないと思っていたので2−3のゾーンディフェンスは好きだった。
一年生大会はあまり良い成績は残せなかったと思う。

それで一年生大会を終えてどうするか・・・という事になって、あと半年くらいすると自分達の代に変わるのでそこまでやろうという事になった。

河本は二年生になってすぐに怪我をした。

怪我が治るまでチーム合同の練習はせずに一人でシュートの練習をする事にした。ゴール下から初めてミドルレンジくらいの距離からもシュート練習を繰り返した。そうすると徐々にシュートの入る確率が上がってきたのでバスケがやっと面白くなってきた。
ミドルレンジからも入るようになったので3ポイントラインの外から打ってみた。
3ポイントからも何回かに一回は入るようになった。

3ポイントラインからシュートが入ると非常に快感だった。
全くリングに触れずに入るとボールがネットを揺らす音が気持ち良いので河本はひたすら3ポイントの練習をした。

三年生が最後の試合を終えて二年生の代に替わり練習試合をするようになると河本も出場機会に恵まれた。チームの人数が少なかったのでほぼスタメン的に試合に出ていたように思う。

公式戦ではあまり活躍できなかったがある練習試合でスリーポイントを4本中4本決めた時が有ってその時がベストの一試合得点数だったと思う。
この時4本中4本決めたのでその後確率を落としたく無かったのでフリーの場面でも打たなかったりした。

その後思うようにシュートの成功確率は上がらず3年生最後の試合などは3ポイントを控えるようにチームメイトから言われるなどしていた。

河本はドライブインなどは不得手でひたすらパスを回すだけの人になっていた。

最後の試合も特に見せ場もなく市大会2回戦くらいで敗退したように記憶している。物凄い後味の悪い試合だったと思う。

部活を引退すると受験勉強とスーパーファミコンにひたすら集中してスト2、ウイイレなどをやりまくって中堅の公立高校に入学した。

河本は受験勉強で体が鈍りまくっており運動部はやめて軽音楽部に入った。

軽音楽部に入ると河本は当時聴いていたsnuffのコピーバンドをやろうと思った。同じクラスのT君という人がメロコア好きだったのでsnuffを聞かせてみると気に入ったらしくスタジオに入ってみようという事になった。
T君が中学時代の友達のN君という人を連れてきたので三人でスタジオに入る事にした。

このsnuffのコピーバンドは文化祭などの時に教室とかで演奏したと思う。数人の友人が「いいね」などの感想を言ってきた程度だった。

河本は高校時代全く勉強せずにテレビゲームに明け暮れた。
時代はプレイステーションだったので鉄拳、そして鉄拳2をやりまくった。
鉄拳2のコマンドが押しにくいのでアーケードコントローラーを買った。
それでひたすら10連コンボの練習に明け暮れ鉄拳2の全キャラで出せるようになっていた。

河本は16歳から17歳までひたすら鉄拳2をやりまくった。
朝起きると同時にプレステのスイッチを入れ寝るまでやり続けた。

それである時ゲームをやらなくなった。

高校を卒業する時に進路が決まっていなかった河本は近所のレンタルビデオ屋で映画を借りて観まくっていた。ウッディアレンの作品などは特に好んで見ていた。



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