見出し画像

『心に一人のナンシーを』

今現在、国民の大多数がおうちにこもっているわけだからやることと言えば限られてくる。
我が汚部屋も年末のプレッシャーすらはねのけてきたのに、数年に一度、あるかないかの大掃除をやる気にさせてくれたのがこのコロナだというのだから皮肉なもので。
そして部屋の片づけから本棚の整理へ。数分後、売ろうとしてまとめた本タワーの中から読み漁るというやりがちな行為を私もやってしまっていた。

評伝ナンシー関「心に1人のナンシーを」
       横田増生著/朝日新聞社

ナンシー関という人

彼女が亡くなってからもう20年近い歳月が流れたことに感慨深くなる。
ナンシー関という人をおいそれと語ってはいけない、と何故か思っている。素人だろうが世間的に許してもらえないとすら思っている。それぐらい唯一無二の人なのだから。

もうすでにナンシーの存在すら知らない人もいるんだろうなぁ。
当時彼女についた枕詞は“毒舌コラムニスト”“毒舌テレビ批評家”どくぜつどくぜつ・・・のオンパレードだった。本職であるはずの“消しゴム版画家“ですら脇に追いやられてしまう。(版画絵も秀逸だが彫られた著名人の横に添えられた言葉のセンスの良さよ!)テレビの世界で生きる人々、主にはわかりやすく芸能人を、まあ簡単に言えばネタにしてばったばったと斬り捨てていったお方だ。
そのような評論家という肩書の人はいくらでもいるし“毒舌”と呼ばれる人もたくさんいる。しかし何か違う。彼女から紡ぎだされる小気味良い言葉はいわゆる“毒”というより“的を得た“や“言い得て妙“がしっくりくる。誰も気づかなかった角度から捻りを加えた絶妙な切り口、独特の豊富なボキャブラリーは爽快感すらある。
例えネタの矛先が好きな芸能人だったとしても、何を書かれても、腹を立てるというよりはちょっと胸元を掻いてこっぱずかしくなる感じ。
それはなぜか?
それは私の信じているもの、見えているものが全てではないと、筋道を立てて教えてくれたからだ。

そこで私は『顔面至上主義』を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが『顔面至上主義』なのだ。

彼女の著書の中に「信仰の現場」というのがある。
そんなつもりはなくとも、好き、には盲目的な、信仰に似た何かが宿る。例えば昨今、好きなアイドルやアーティストを“推し”と呼んで崇めるアレこそ私は隠れ信仰に他ならないと思うのだけれども違うだろうか。
ファンと呼んでいた昔と違うのは、SNSの普及によってそれらが遠い存在ではなくものすごく身近になったこと。だからこそ“推し”を自分がコントロールできるという錯覚にさえ陥りやすくなったこと。それをSNSで発信して見ず知らずの人々と感情を分かち合う。たとえ疑問がよぎっても自分自身の編み出す言葉でフィルターをかける。
“推し”=“私(達)”=好きなことは絶対的で正しいと。
などとまぁ話は脱線したけれども(ナンシーが生きていたらここらへんをどのように掘り下げてくれただろう・・・と、彼女が死んでから斬ってほしいネタを抱えている人は無数にいるはず)
彼女は私たちが目をそらしがちな、というより気付かない「真実」を追求してきた人なのだ。それもテレビという、私たちを操るにはうってつけのツールで。

この本は、ナンシー関没後10年に彼女の突然の死に絶望し、それを未だ受け入れられない人々によってまとめられた未練タラタラな手記。であると私は思っている。
彼女の才能を見出した、コラムニストえのきどいちろう夫妻。いとうせいこうやリリーフランキー、みうらじゅん(なんか平仮名や片仮名が多いな)『噂の真相』『広告批評』に『ホットドックプレス』。各週刊誌のコラム。
サブカルの言葉やニュアンスは知っているけど、それらの世界とは無縁の私ですら、ここには知っているワードがたくさん出てくる。
私が一番記憶にあるのは、当時も自意識高い系雑誌であった『CREA』でなぜか連載されていたナンシーの対談コラム。相手は放送作家の町山広美かリリーの時だったと思う。二人ともそんなに世間的には認知されていないころじゃなかろうか。歯に絹着せぬとは有り体の言葉だけれど、それを地で行く芸能ネタというか時事ネタ満載で、毎月これ目当てに買っていたなぁ。

ナンシー関のルーツ

ナンシー関が虚血性心不全で突然この世を去ったとき、彼女はまだ39歳という若さで、ただしかしマツコに匹敵する体形を維持し、なかなかの不摂生だったと聞けばどこかやむを得ずという諦めの境地にもなる。けれど私が初めて彼女の死を聞いた時、冗談ではなくもしや事件性が・・?ということを疑った。いやそれくらい、すでに彼女という存在は芸能界にとどまらず、日本社会全体に大きな影響を与えていることを誰もが気づき初めていたように思うのだ。

真実を見破られて困る人々はたくさんいる。それは決して政治的なことや闇社会のことではない。まっとうな表社会を、日常を生きる私たちにとってだ。
己の自意識をほとばしらせることの恥ずかしさ。実は隠している自我、身にまとっている“こう見られたい自分“をひっぺがし、容赦なく暴いてしまう人間の存在がどれほど厄介で恐ろしいことか。
当時ナンシーも書いていた、例えば関西人というだけで笑わせられる立場にあると信じて疑わないアイドルの罪深さといおうか。ちょっと違うか。
今こうやって、コラムニスト気取りでこんなものを書いている自分ですら、客観的に見れば反吐が出るほど恥ずかしいのだから。

何故ナンシー関は、究極と言っていい人の本質を問う『顔面至上主義』に至ったのか?
この本ではナンシーが生まれ育った青森をルーツとして、彼女の半生をも辿ってゆく。
そこから見えてきたもの。それは、徹底した俯瞰的人生だったのだと思う。
己は規格外であるという早くからの認識。それは自分は変わっているという女子高生の自己陶酔型認知ではなくってどこか異質なもの。おそらく体型的に他の子供と異なっていたこともある種そうしたんだろうと思う。
(ナンシーを敬愛する宮部みゆきは、この本の中で、規格外を異邦人とも表現している)
その【規格外である自分】が、揺るぎない“ナンシー関“という人の原型を作ってゆく。
当時の同級生たちも、彼女が体格のことでいじめられたり茶化されたりした記憶がないという。子供にしてすでに大人だったという。
そーいやいたなぁ…こういう同級生。見た目に突っ込める素材であるのに雑に扱えない人。一目置かれる人。
共通するのはすでにブレない価値観を持っていた子供だったような気がする。彼女にアーティスト気質はすでに宿っていたのだろうけど、己は規格外であるとの認識が彼女を更に強くさせたのかもしれない。凡人とは違う特異な感性、自己の強さを周りもすでに察知していたのだろう。実際、消しゴム版画家、コラムニストという世界に飛び込んだ彼女を、自分たちとは違う世界に行く人だったとかつての同級生たちはさして不思議に思わない。
他人に振り回されず己を知る。幼少期からであろうこの揺るがなさに嫉妬するのは私だけだろうか。
そしてその才能は後に世間を、社会を理性的に俯瞰で見ることをも可能にさせる。ネットもない時代に絶大な影響力を持っていたテレビ。そこから垂れ流される制作側の思惑、そこに映し出される人々の自意識も見破ることができる。
では果たして、そのことに何の意味があるのか?

テレビ評を書く時の心境を彼女はこう説明する。

テレビのこっち側にいる人たちに気づいてほしい

この言葉のあと、あ、でもやっぱり、とけむに巻く。『自分の感情をうまく“ネタ”に変換できた時の自己満足が第一の目的』だと。
多分どちらも本音だ。

彼女は無意識に「気づくこと」の必要性を説いている。そこにある情報だけで、真実を見通す目を養う重要さを。今と違って情報を受け取る側の私たちがどこまでも弱者だった時代。平気で嘘を発信するマスメディアや社会のしくみに、この世の中に騙されないために。テレビという低俗と呼ばれるツールを通して警鐘を鳴らしていたのではなかろうか。

それでいいのか。後悔しないのか。

宮部みゆきがいつも自分自身に言い聞かせているというナンシーの言葉がよぎる。

まぁ、彼女はいつものように投げやりなオチを付けて否定するだろうけど、こっち側にいる人たちのために、と語ったナンシー性善説(そんなものがあるのか)を私は信じている。

ナンシー関の残したもの

ナンシーとデーブ・スペクターの論争は当時話題になったような気がする。
今から思えば凄いけど、彼女がデーブのことを何故嫌いか、と、連載を組む週刊誌のコラムで理路整然と語ったのだ。
そしてそれに反論する形でデーブも自身が持つ週刊誌の連載で応戦する。

そのやり取りを見ても、やはりどこまでも俯瞰で感情に溺れないナンシーの圧倒的勝利であることは間違いない。

私がタレントを見る価値基準は『おもしろい』か『おもしろくない』かの一点のみだ。私はあなたを『おもしろくない』と非難したのだ。

ただしタレントではなく、いわゆるお笑い芸人枠の『おもしろい』について私は少々懐疑的だ。
なぜならナンシーが影響を受けまくったというビートたけしも、今やお笑い界の天才、絶対的君主となったダウンタウンの松本もよくわからないのだ。笑いというものが「腹を抱えて笑わせられた」ならば、私は彼らからそのような経験をした覚えがない(多分、ドリフや出川の方がいっぱいある)。私にしてみれば、お笑い芸人の価値基準はその一点のみだ。
まだ若いまっちゃんから「彼女の笑いに対する評論はなかなか的を射ている…」と対談で遅刻されつつ上から目線で言われたことについてどう思ったのだろう。今の彼の立ち位置についてどう思ったろう。もはや本音は聞けない。
私がナンシーから教わったことは、情報過多のこの時代、大変に難しいことだけれど他人の目ではなく他人の評価でもなく、己の目で物事を判断することだ。
目を皿のようにして見る。見破る。それが出来れば世の中を恐れることはないのだから。

ーーー『心に1人のナンシーを』てな。

「みんなどこかでナンシーが見てると思えば、自分で自分にツッコミ入れて、不用意に何かを信じ込んだり、勝手な思い入れだけで突っ走ったりしなくなるんじゃないかと思ってさ」(大月隆寛)

天国できっとナンシーは「私に意味を持たせるな」と鼻で笑っているような気もする。

***

余談ですが、この本をタワーから撤去して本棚に戻したのは言うまでもありません。
ごめんちゃいナンシー。




この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?