私の幼少期と初代家族のこと
おもーい くらーい シャッターが、要塞のように窓にへばりついている、朝なのに薄暗いあの感じが、私はとにかく嫌いだ。
どんなに大好きな家でも、この色味を帯びている室内は、私の思い描く幸せとは真逆の空気を纏っている。
◆夏休みのラジオ体操が、いい思い出にならないワケ
私が幼い頃は、今みたいに朝から太陽もギラギラとうるさくなく、八月でも早朝は上着がいるくらい涼しい日が多かった。
夏休みはうちの近所の大きな公園でも、ラジオ体操が行われていた。
私はNHKラジオ体操のお姉さんのような美しいラジオ体操を目指して、誰よりもまじめに体を折り曲げ、腕を振りあげた。
気持ちのいい夏休みの朝だ。
しかしそのころの私は、自分の思い描くようにはなかなかいかない、うちの生活スタイルに、大きな不満を抱えていた。
お腹を空かせてラジオ体操から帰ってきても、幼い私の腕では持ち上げられないその重い重い要塞シャッターは閉まったまま。
静まり返ったその家に戻ると、ラジオ体操で気持ちよくなった脳内も、空気の抜けた風船のようにしわっしわと台無しになった。
ラジオ体操から帰った時に、光の入るダイニングで朝ごはんが食べられたらどんなに幸せだろう、、、と妄想する日々だった。
◆ちょっぴり破天荒な両親を持つ
なかなか私の理想は叶えてくれない、破天荒な母。
その夫を40年以上勤め上げた父も、振り返れば破天荒だよなと、最近になって思う。
母に比べると、穏やかで家族にはやさしかったのと、あと私には理想の父親像というものがそもそもなかったので、破天荒な父を苦々しく思うことは、あまりなかった。(母親に関しては理想が妄想化した母親像があった)
そんな両親のもとに生まれた私の人生の転機、第一章は「五歳で祖父母の養女になった」ことだが、「七歳で早くも二章」がやってきた。
◆人生の転機 第二章の幕開け
小学校に入学して、しばらく経ったある日のことだった。
父はいつもより早く帰ってきていて、自室で寝ていた。
母が「こんな時に寝てるなんて、信じられない!」と金切り声で叫んでいるのを聞いて、
【ただごとではないな】と思った。
父はその日、勤めていた私立の小学校を、校長先生とけんかをしたとかで辞めてきた。
父もやはり毎日朝ごはんを食べず、早朝出勤する日が何年も続き、当時はコンビニも無かったのでお腹を空かせていたのだと思う。
それも我慢が出来なかった理由だろう😂
その日から私は、サラリーマンの娘からフリーランスの娘になった。
ニュータウンと呼ばれる町に住んでる近所のお父さん達は、銀行員だったりお医者さんだったり商社マンだったり、みんな忙しく、平日家にいることなどほぼなかった。
しかし我が父は、率先して小学校のPTA役員なども引き受けてくれたし、いつもみんなの身近な存在だった。
だけど、やはり、少し変わっていたのだと思う。
◆頼むから普通に学校に行かせてくれよぉ〜
父が仕事を辞めた後すぐ私達家族は、夏休みはまだずいぶん先なのに、長野県の上高地で長い休暇に入った。
私は小学校に入学したばかりだったし、その間もみんなは学校に通っている。
当時、まじめでみんなと違うことをすることが何より嫌だった私は、学校に行かせてもらえず、こんな山小屋に連れてこられたことが、ただただ腹立たしかった。
それでも、蒼く澄んだ川や、新緑で鮮やかになっていく山々は、目に焼き付くほどに美しかったのが、せめてもの救いだった。
その休暇に、当然一緒に連れてこられていたさらに幼い妹は、環境の変化でとんでもない高熱に見舞われ、病状が悪化して、山小屋から何キロも離れた病院に夜中運ばれたりもした。
大の仲良しの妹が、大層辛そうだった様子に、
「これも、こんな所に連れて来たせいだ!」
と、一人山小屋に取り残された私は、またプリプリ怒っていた。
今思えば、あの山小屋での時間は、父や母にとっては新たな人生への準備期間だったのだろう。
自分がそのころの両親よりはるか年上になった今、少し切なくさえ思う。
学校に行かせて欲しいという当然の権利を主張しているだけ、とプリプリ怒っている私にも、少し優しさや気遣いが欲しいところだったなぁ、と今なら思う。
◆破天荒な父を振り返る
そんな父は、今84歳だ。
私が当時ラジオ体操に通っていた、2万平方メートルもある大きな公園の草引き及び美化活動を、もう30年も無償でやっている。
ほぼ365日コツコツ毎日草を引くのだ。
始めの15年くらいは独りでやっていたようだが、定年退職した近所のお仲間たちが集うようになってからはチームになり、テレビの取材なども受けるようになった。
父の人生は常に自分軸だ。
周りの環境や友人からの影響をうけているのも、あまり感じたことがない。
自分にしかで出来ないことを、いつも意識しているように思う。
◆他の目線で家族を振り返る
私の履歴は家族の履歴でもある。
あの長野での出来事を妹にも聞いてみたくなった。
「私が覚えているのは、あの熱が出た時、市販薬を飲まされて、そのあと身体中に恐ろしい数のブツブツが出来たことだけ」だと。
そんな彼女は現在薬剤師だ(笑)
そして、それ以外、気持ち面のことは何も覚えていないと言った。
そうだった。
彼女には子供のころの感情記憶がほとんどない。
感情記憶だけが異常に残っている私と、何も残っていない妹。
この姉妹に闇を感じる?(笑)
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