オンライン授業?

オンライン授業とは。

一般的にならなかったオンライン授業はこの時期限定で無料も含めて多くのコンテンツが成立している。

オンラインの良いところは数点ある。
提供を受ける方は手軽、安価いつでも使える。
提供者側は、コストがかからない、人件費が安い。一つのコンテンツで使いまわせる。維持費がかからない。場所は殆ど必要ない。

一見どちらにとっても有意義に見えるが、恐らくは平常の状態に戻ると7割以上が衰退する。

かつて、ベネッセなどの通信系の教育が一世風靡していた。しかし、子供は続かない。
これと全く同じ事だ。
現在オンラインは珍しく、短期的な発展であり、飽きが来ていない。人は手に入れたとき最初はそれに夢中になる。そしてその良いところの側面だけを見る。
その後、8割程度は飽きが来る。
通信系のの教材を買っても、いずれやらなくなる、毎月来るけどそれが逆に負担になる。やらない自分が、高い金を出してるのにやれなくなる事に対し申し訳がなくさらにそこから逃げる。

この事はこのオンラインでも同じことが言える。
家族以外の第三者に強制されないと殆どの子供はできないのである。
自発的に学習をできる子供は全体の数%しかない。
それを無理やりやらせても結局は身についていない。
学校や塾などで宿題を出しても、やっつけで出せば怒られないだろうと、直前になってやるのだ。結果、慌ててやったため何も考えず、何も身につけないまま単元は進んでいく。やがて、図太くなれば宿題を捨てる者も出てくる。
それでも学校や通塾などは一定の強制された機関のため、その授業の時間は頭を使う。ゼロよりマシだ。

では、日常的に学習ができる子というのはどういう子なのか。
はっきり言えばオタクである。物事を突き詰めないと気がすまないような子である。
これは7歳、遅くとも10歳くらいまでに形成される。
その後に形成はされないのかと言う疑問があるが、その場合一定の精神的な成長を待たなければならないか、極端な成功体験、常に付き添ってくれる者などが必要だ。
これは一人で形成はできない。
残念ながらまだ現在のオンラインシステムでは未熟である。
あと10年ほどかかるのではないだろうか。

何でも人は新しいものを手にすると初めは夢中になる、しかしその後が問題である、
現在、状況的に外に行けないそのためオンラインが流行ってるだけで、この騒動が終わって今のままがいいと考える者はどのくらいの割合でいるのか。
TVなどはオンラインの状態にしていた方が都合がいい事は誰の目にも明らかで、しかし、本当にそれをずっと望んでいけるのか。
答えは明確だ、そんな事を望んでやっていけるのはほんの一握りの者だけなのだ。

この状態は自然状態ではない。人工的に作られた回避状態なのである。悪い事にそれが一地方ではなく世界どこでもそうなのである。
自然はその状態を許さない。生物が本来持っている活動的な行為と言うものを自然は望んでいる。その中でかつてもあった疫病や災害において犠牲になるものも少なくはない。しかしそれも自然状態なのである。
文明を手に入れ人はそれを逆らう手法を身につけて繁栄してきた。しかしそれも自然状態であり、基礎的な生物としての営みは続いていた。
今回はその営みすら自粛という名の元制限を受けている。
これがこれからのスタンダードになるとも言われているがそれはないと断言できる。社会構造はそれを望んではいない。
海外に行かなくても英語はできる、ネイティブに習える。そのために、海外に行くより多くの費用がかかる。不自然だからである。人は自然の状態を自らの生活に合わせるため多くのコストと時間をかけてきた、そのためには莫大な時間と技術の成熟を必要としてきた。
インターネットが生まれてまだたったの50年程度だ。確かに驚異的な発展をコンピュータはしてきた。しかしまだ未熟な産業である。いや、成熟した産業はないのかもしれない。数万年発展してきた食事の世界も未だ発展をしている。必要や欲望は新たなものを生み出す原動力だ。
このコロナによる禍によって新たなものは確かに生まれる。必要だからである。しかし、必要がなくなると残るが廃れる。一部のみが残って主流にはならない。常に基本か、新たなものにその主流が取り変わる。

話は本題に戻るが、オンライン授業は結局徒花でしかない、代替え手段である。
これは人という生物が教育を飽きずに受けるため肉体を持ったイリーガルな存在が必要なのだ。
オンラインに懸念を持った最大の理由は、進路指導である。オンラインによる指導も可能ではあるが、子供にはかなり難しい。
それは親にとっても同じである。学校見学などする必要がないと言われるとどうだろうか。
ネットで見れる、ネットで評判が分かる。
全て第三者目線でしかない。本人の目線で見れていない。
旅行と同じだ。ネットなら世界のどこにでも行ける。しかし実際にそこに行けば必ず他者との違った感覚を得る。他人の評判などそこには何の参考にもならない。変な話だが、評判の悪いところに泊まっても住めば都になる。

結局経験のない知識は本人の為に全くならない。
大学を出たものならそれをみんな知っている。大学時代今学んでいる事が全てと世の中を理屈だけで見てしまう。しかし社会に出ると大学で学んだことが全く通用しない。しかし社会はそんな学生に甘い。学生は甘やかされている事に気がついていない。社会人から見ればまだ子供でしかない。当然そうではない者もいるが、基本的に社会では所詮学生言う事は夢物語の現実を知らない苦労を知らない王子、お姫様でしかない。だから学生の言う事は社会に声が届かないことが多い。
学生におもんがばる事により成立したビジネスもある。学生は基本的に親元にいる為、持った金は全部処分できる、何でもいい、今回はズーム飲みなどの流行を作ったりした。必ず仕掛け人がいる。

知識を入れる苦労だけを受験は求めている。知識が必要ないと言うのではない、ものすごく必要だ。だが知識だけでしかない。その上の物に昇華していかなければ宝の持ち腐れである。道具を持っても使わなければいずれ錆びて使えなくなる。
腕の良い職人はたくさん道具を持つ、しかしまず使わないという道具をであってもしっかりと手入れはしている。使わなくても使えるのだ。しかも腕の良い職人は一つの道具を本来の使い方以外に使う。たまたま道具がなくともある道具でその場で応用して使いこなすのだ。知識も同じである。