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【小説】チョコラーテ

これが甘いと感じるならば、あなたはすでに七十パーセントの渋みを知っているかただ。ほんの二、三グラムのクリームパウダーを室温にまかせなじませたあと、わからなくなるくらいかき混ぜたら、使用前後の判別ができない程度の白味が加わった液体になる。
 落ちるタイミングを液体の粘度にゆだねシェーカーを傾けるとゆっくりとチョコラーテは銀色の細口からお目見えになって逆三角の繊細なグラスに落ちた。
「これこれ、これがいただきたかったのよ」
 グラスの前に陣取った客は、高く組んでいた細い足をするりとほどき、背筋をのばしてカウンターによりかかった。頬にかかるボブの髪は微動だにしない。引力にも、摩擦にも作用されなかった。
「御大(おんたい)は、人生最大の喜びである、とおっしゃっていたわ」御大と言う時、女は一瞬かしこまった。大きな体の、後光を背おった人影が頭に浮かんだ。
「御大って・・・?」
「やーだ、冗談言わないで」
 客は、問いに答えず、発光するような笑みを浮かべて、グラスの脇の繊細なスプーンに手を伸ばした。
 ちりりーん
 金色のスプーンの、柄の先についたごく小さな鈴が、音をかなでた。
一昔前、今では見かけることが少なくなった極小人種の生存を密かに主張したアニメーション(本人たちは借りぐらしをする非常にシャイな人たちであるため、出演は断わられやむなくイマジネーション性の高いアニメーションの手段で表現するしかなかった)が公開されたが、ドール用のカップに注がれた水の表面張力の様子は、実に正真だった。それまでも同様のアニメーションが制作されたが、この点を忠実に再現しているものは他にみあたらない。カップは粘土の粒子の小さいものを選べば、ほぼ正確な縮尺で作ることができるが、水の分子の大きさを変えることはできない。普通の人間が注いだようにはいかないのである。
 金いろのスプーンもしかり。これほど小さな鈴は作れても、持ち上げただけですべらかに振り子がうごき音をかなでるのは粒子サイズと比重のバランスからして無理なのだ。
 この世界は、そういう物理に縛られている。
 客はグラスをカウンターに置いたまま、スプーンをチョコラーテに直角に差し入れた。見かけよりずっしりと金属を通して伝わる重さは、客がずっと夢に見ていた感触だ。軽くてこの原理で親指を中心点にして力を入れると儚い軽さでチョコラーテはすくわれた。大小の気泡を断面に見せる一片を口にはこんだ。
 はじめに感じるのは何ものかわからない濃厚な香り。形あるもののように口蓋を押し上げながら口の中を満たす。ねっとりとした食感を舌の上に広げると、そこから体温と共に立ちのぼった香りが鼻にぬけ、ようやくチョコラーテの馥郁たるそれに気づく。まずはユリに似た白く純真な花香がきっぱりと立ち上がり、そのあとを、名前を聞いて思い浮かべるチョコラーテの甘いイメージが追いかけてくる。
 客は、その当たり前のイメージを今思い出したというように、天を仰ぎ眉間にシワを寄せた。その瞬間、左右の感覚の谷間へとチョコラートをふくんだ恍惚感と幸福感が押し寄せた。
「こちらもどうぞ」
バーテンダーがクリスタルガラスの平皿にナッツを乗せて供した。チョコラーテはカカオの実由来だから、同じナッツとの相性は抜群にいい。おにぎりと具の関係のように、それぞれの味の特長を引き立ててつつ、その組み合わせでしか味わえない唯一無二のハーモニーを楽しませてくれる。香りやテクスチャーは新たな特徴となる。ウイスキーにもナッツはあう。麦芽のエキスを蒸溜したものだから、大地の香りの共演といったところだ。しかし、いいえ、だからというべきでしょう。客は見るからに不快そうに顔をしかめた。
「ダメよ、そんなことをしちゃ。全く、常識がないのね」
バーテンダーは一瞬で縮んだ。肩をすくめ体の前で両掌を結び立ちつくした。「そんなもの食べたら、戻れなくなるでしょう。だめね、知らなかったの? それともこれまでここへきた者達はみな、あなたが出すがままにそれをいただいて、彷徨っているの?」

 入り口のガラスドアが開いて、さして変わらない暗さの廊下から男の客が入ってきた。ホテルの二階。石造りの古いホテルは、外の喧騒から距離を置いている。窓とか、建材とか、そういうレベルではなく、大理石の壁が時間を隔てているのだ。結晶質石灰岩。そもそもは軟泥だったかもしれない、有孔虫や動物の石灰質が硬く石になるまでどれだけの時間がかかったろうか。命あった有機物が年月によって石に変化する。それが世界から隔絶するこのホテルは格好の場所だ。
 男性客は、壁にそって低く切った窓からさしこむ外のネオンの明かりだけで、店内の様子を確認した。色のついた光がゆらぎながら照らすが、それでもやっと堅牢な椅子の影が見てとれる程度の明るさしかない。深い絨毯の毛足に足をとられながら、バーテンダーの前の椅子に手を伸ばす。
 バーテンダーが一瞬、怯む。そこにはくだんの先客が、カウンターに体を委ねながら男に視線を送っていた。
「お客様、そちらにはもう・・・」
 男は慌てて手を引っ込めた。
「こちらへは初めてで?」
 男はだまったまま深くうなずいた。素直で、真摯な態度は好感が持てた。
「先ほどは、入り口のベルをお使いにならなかったようでござますが・・・」
バーテンダーが軽く見やる方向には、ガラスドアの前に腰高のテーブルがあった。その上には、お鈴が置かれている。紫の座布団の上に置かれたそれを、外からきた客は必ず一度は鳴らす決まりになっているらしい。
「申し訳ございません、もう一度あちらに戻られて、鳴らしていただけますでしょうか。それが作法でございますので」
丁寧だったが有無を言わさない強さでバーテンダーが言った。ここにはしきたりがあると聞いていた男は、だいぶ恰幅がよく、上から物を言われる立場にはなさそうだった。が、丁寧に椅子を戻すと言われたことに従った。

「だから言わないこっちゃないのよ。店なんてやめてしまえばいいのに。御大もよく大目に見ているわ」
 多少の無礼はあったとて、自分の身に障りはないとわかっている先客は二さじめのチョコラーテを口に入れた。
「しかし、あなた方はもうその身を捨ててきた立場ですし、それでチョコラーテを味わうなんてことは、こうでもしないと無理でございましょう? 仕方ないのですよ。どこへ行っても、首尾一貫なんてことはまやかしに過ぎません。上手の手から水が漏ると、いいますでしょう。完璧を求めてはいけません」

 先客とバーテンダーが話をしている間に、男は入り口に戻った。そして暗がりの中にそっと置かれたお鈴を見つけだした。
 リーーーーーんーーーーー
 チューリップの花を逆さにした形のお鈴の、茎の部分を二本の指でつまみ確信的な強さで一回、それを振った。まるで、仏壇に向かったときのように背筋を伸ばした。振り子がぶつかり角のたった音が空気を裂いた。長くゆったりした余韻がそれを追いかけ波のように広がり部屋の壁に吸い込まれた。
「あら、お上手だこと」
 先客は、スプーンを持った手の肘をカウンターについた。足を組みなおして上体をひねり入り口を見た。これから起こることを面白がっている様子だ。

お鈴とバーテンダーが呼んだものは、ちょうど寺などにある小使いを呼ぶためのベルに似ていた。変わったしきたりがあることを、男は知っていた。誰もが一度は失敗する。つまりは覚悟が必要なのだ。
 お鈴の音が空間を浄化しながらバーの隅々に行きわたると、四方の壁に吸い込まれる瞬間、目に見えない透明な波が男の手元に戻った。わずかに視野がぶれるからわかる。ゼラチンが角膜にこびりついたように映像がヨレ、目をこすると視野全体が白く濁った。
 「さまよう、って言ったら聞こえはいいけど、ミカエルみたいに御大のご意思から離れているくせに、フランチャイズみたいなフリをして勝手な仕業をするのはいけないわ。各界独立の原則に反するもの」

 ほかに客がいるらしかった。さっき見たときには見えなかった。男は目をこすった手を、遠くの景色を眺めるかのように額にかかげ、声のする方へ目を開いた。すると、そこにスレンダーな女性が見えた。先ほどの、引きかけた椅子に浅く腰掛けている。バーテンダーが制止しなければ座っていた。恥ずかしい思いで、二、三回まばたきした。
 女は高く組んだ足の膝で、カウンターの裏を押すようにしてバランスをとっている。そうでもしないと倒れてしまいそうにフランティックだ。ずっとそこにいた様子に、自分の目に自信が持てなくなった。さっきは誰もいなかった。そのはずだ。最近は歳のせいで遠近の感覚が曖昧になったが、あるものが見えないことはなかった。そういうことか、と意識しない自分が膝を打った。気づくと、覆っていたヘッドホンを外したように、あるいは耳孔に海水が入り込んだように、平素とは違う音が鼓膜をゆらしていた。バーは存外騒がしかったのだ。
 それを合図に他の客の姿も見えてきた。隠し部屋にでも連れて行かれたのか、とさえ思った。どの席も埋まっている。カウンターに数席、壁際に四脚のアームチェアを置いたガラステーブルが四席。いずれの席にも二、三の客がいて、静かに歓談している。気のせいかどの客も精一杯よそゆきの風だが、垢抜けていない。くぐもった声が空気のようにバー全体を満たしていた。嗅覚も冴えてきた。チョコラーテの甘い香り。それとよく似ているがこちらは黒土の中で落ち葉が静かに発酵する匂い。濃厚で深い。炎によって熱を与えられたそれが、歓喜のうちに発する匂い。それがそこここから香っていた。
男は店の中を見渡した。空いているのは、先ほど座りかけた女性客の席の隣だけだ。

「あれは、こっちの食べ物を食べたせいだと聞いたわ。帰れなくなったあげく、悪さをするなんて、まったく。幼気な人間なら、あの姿を見せればどんな無理難題でも丸呑みするってわかってやってんだから」
「しかし、そういった方達がいらっしゃるから我々はあれほど天に近い場所に、あの方と繋がる場所を作ることになったのですから」
 バーテンダーが男に目配せした。承知しています、こちらのお客の相手がひと段落するまでお待ちください、とその目は語っていた。
「あの方との対話の場、捕虜収容所、海と空の見張り台、地上の天国。時代をへていくつもの形態を経験しました。今もひっきりなしに人が訪れてなにがしの啓示を受けているとのことですよ。世界遺産というものにもなりましたし」
 バーテンダーは言葉を切ったところで、カウンターの空いている席の前にコースターを置いた。ここのカウンターは、一人用のスペースが割と広めにとってあった。薄色のプレースマットに見えたのは上からスポットライトが照らしているからだ。ローズウッドのカウンターより一色薄くなったそこに白いコースター。一人分のその場所に男は腰をかけた。こうした時の礼儀として、何気なく隣へ目を配りこちらの動きを注視しているのであれば軽く会釈する。そうでなければ特段なにもせず、大人しく椅子の懐に落ち着く。男がその日常の決まりごとに従って隣と見たとき、彼は二度見せずにはいられなかった。後ろ姿から妙齢と推測したその客の横顔が、輪郭を残して透けていたからだ。赤いハートを横にしたような唇から、ほぼ黒に近い飲み物が注ぎ込まれると、それは一端唇を一センチほど下ったところでたまり、ほどほどの大きさになった。そしてそこが容積に耐えられなくなると、反対側の端がわずかにひしゃげ少しずつ流れていった。

「あら、なんの話だったかしら。 そう、ナッツだわ」
 女性客は隣に男が座ったのをはすに見て口を開いた。横顔はいたって美しい。組んだ足の膝裏が見えるほど短いスカートを履いている。男はかつて自分が青春を謳歌した時代のファッションを思い出していた。バーテンダーがナッツの皿を男の前に差し出した。
「どちらになさいますか?」
 カウンターの下からおおぶりの灰皿を出して見せた。
「いや、ホットチョコレートを」
 バーテンダーは黙ってうなずいた。
「とてもお上手でしたわ。お仕事?」
 女生客がこちらを見ず言った。親しげな口調だが、わきまえているかんじが好しかった。
「ええ、」
「私も、わざわざここへチョコレートをいただきにきたの。高級店ですもの、頑張らなくちゃとても来られないわ」
 男は黒い液体がゆっくりと彼女の体を流れてゆくのを見ないように、まっすぐ前を向いた。
「何かの映画にあったでしょう? こっちの世界のものを口にしないと、いずれ消えてしまうって。それの反対よ。ナッツなんてその最たるものでしょう? 地球のエキスを凝縮したようなもの、何千万年の命のかけらよ。それを体に入れたらもうここからは出られないわ」
「そう考えていらっしゃるのは、実は少数派なのですよ。まあ、ここはホテルですから、一晩ごゆっくりされれば、そのお体のこと、すぐに抜けてしまいます。ですから、ここではもうナッツに関しては見て見ぬ振りと言いますか、ここだけの名物になっております。そのことはよくご存知と、承知しておりましたが」
 バーテンダーは男の方を見て、作ってまいります、と軽く頭を下げた。

 女性客とは反対の席から、長いため息が聞こえた。それは頭の中から聞こえたのかもしれない。それくらい、どちらともつかないその声に、首を回してみるとカウンターの中程の中空にクリーム色の煙が漂っている。その煙は、隣客のため息の度にわずかに流れるのだった。まるで、タバコの煙のように。そう、タバコの煙だ。
 もう少し首をまわすと、自分と同じ年頃の太った男が、太った指に、太い葉巻を挟んでいるのが目の端に見てとれた。仕事柄、煙はだいぶみるし、自分もタバコをやっていたが葉巻は、ない。若い頃歳を取ったらアル・カポネみたいに太いやつを吸ってみたいと思っていたが、こんなご時世だ。タバコが好きだとは相手を選ばず言えたものじゃない。
 バーテンダーがキッチンに引っ込むと、男はタンブラーに手を伸ばした。振動が炭酸の泡を水面へと押し上げる。ナッツを口に放り込み、何気なく隣を観察した。
 立ち上る煙がほんのりバニラの香りを運ぶ。大人の男がたしなむもの、と思っていたから意外だった。カウンター席の客の間に仲間感が流れる。そばに居る者を気遣った声のトーン、息遣い。体の動かし方。葉巻の客にはそれがあった。男は遠慮の一端をしまい込み、空気を壊さない程度の好奇を引きだして隣の客をみた。
 久しぶりにカポネを思い出したのは、葉巻のせいばかりではなかった。男は濃い色のツイードを着ていた。ちょうど一人分カウンターの上を照らすスポットライトの反射が、大きな体を包んでいるその生地にあたってようやくわかる織模様が入っている。黒に近いブラウン。ボタンダウンのように襟元を開けているが、そのシャツも高級なのがわかる。爪はきれいに磨き立てられている。
 修行時代から、五本指は親からもらった道具と教えられ、全てその持って生まれた道具で片付けることを心がけてきたから、男の爪も手入れが行き届いている。伸ばしたこともないし、伸びすぎのせいで靴下や足袋を傷つけたこともない。しかし、隣の客の爪の具合は、その域を脱していた。わずかな光を受けて、動くごとに輝いた。ゆっくり味わうように煙をはきだす姿は、往年の俳優のようでもある。その見るからに大人物のオーラをまとい、時折、眉間に皺を寄せ香りを楽しんでいた。
「葉巻というものを、私はたしなんだことはないのですが、どんなものですか」
 堪えきれず男が声をかけた。隣の客は目を上げ、天からその声がそそいだかのようにあたりを見回した。まるで音があったことを思い出したかのようでもあった。それから、男の質問を咀嚼するように考えてから口を開いた。
「ああ、大人のキャンディーといったところでしょうか。これで、実に香りが甘い。私はね、これのためにずいぶん苦労しましたよ。ハバナ産のこれのことが、忘れることができなくてね。あっちへ行けば、どこで採れたとか、何年物とか、そんなことは関係なくなってしまう。それがつまらなく感じることもありましてね。まあ、仕方ないことですが」
 隣の客の言い様には、丁寧語を操るのが不慣れな感じがあった。そしてこの御仁も、正面をむいた顔がどことなく輪郭ばかりが強く、下手すると表情が透けて見えた。
「試してみますか?」
 透明な体のどこからか、男はダブルのスーツの懐からベルベッドにおおわれたケースを取り出した。数種類の器具の中から銀色にひかるハサミを取り出すと、真新しい葉巻のパッケージを開けた。
「これだけは手がつけられなくて。持ち歩いていたのですが、いまさら私は吸うことはできません。あなたに差し上げましょう」
 そういって、親指ほどの太さもある葉巻の根本を、そのハサミで切った。それから、銀色にひかる円筒形のラーターで火をつけた。青い炎をあてた葉巻は、低いフツフツという音をたて先端を赤く染めた。驚いたのはその香りで、男が手にしていたものとは比べものにならなかった。はじめはやはりタバコらしい燃える匂いがしたが、彼が深く吸い込んだ煙には味があった。そして、単一ではない複雑で濃厚な香りが体を包んだ。バニラにも似ている。ミントにも似ている。キャラメルか? まるで数種類のチョコレートをブレンドしたような香りだ。
「これは、とてもいいものでは?」
「ええ、まあ」
 隣の客は、なぜかいたずらをした子供のような顔で目配せをした。

「お待たせいたしました」
ホットチョコレートが運ばれてきた。カウンターの内側にもおそらく絨毯が敷かれているのだろう。湯気をたてたカップが目の前に置かれるまでバーテンダーが戻ったことにまるで気づかなかった。シンプルなカップだが薄く膜がはったように見えるのは陶磁器製のためらしい。表面にしつらえたわずかな凹凸が陰影を作り、カップ自体も半透明に見えた。そのカップの縁まで注がれたチョコラーデは、女性客が飲んでいたグラスのものと同様、かなりの濃度があるようだ。ゆったりと全体から細かな湯気が立っている。その様子に見惚れていると、バーテンダーは先ほどの灰皿を静かに男性客の前に置いた。
「本来は、どちらかおひとつ、という決まりですが、今回だけということでお願いいたします」
 そういって会釈した。まるでダメな子供を叱る時の母親のようだった。張本人の隣の客も心なしか体を縮こませている。
「おっと、吸ってやらないと」
 男の葉巻の火が静かになったのを見て、言った。口に含み、ゆっくりのみこんでみる。質量のあるものが体の中へ降りてゆくような感覚がして、男の頭に体の空間が茶色い気体で満たされてゆく映像が浮かんだ。そして今度は体が気体と化し葉巻の煙と自分の体が渾然一体に混じり合ってしまうのだ。慌てて目を開けると、バーテンダーが落ちそうになった灰がカウンターを汚さないように灰皿を差し出していた。
「それはこの世の?」
女性客が尋ねた。
「そうです。ずっと持ち歩いていましたが、私にはいっかな手をつけることはできませんでした。死んだ息子が還暦の祝いにくれたものです。愛着も思い出もある品です」
 それを聞いた男は、気安く質問したせいで思いの詰まった品物を、自分のために開けさせしてしまったことに恐縮した。こういう類の話は幾度となく聞いてきた。亡くなった者を想う気持ちはこの世で一番強いと考えている。そういう思いの存在があるから、自分たちはそれに恥じぬよう生きているのだ。それがなければ無秩序になりすぎる。自分を律するのも、鼓舞してくれるのも、そういう今はいない人間への思いではないのか。過去や亡者などないものとして生きることはできる。多分そのほうが生きやすいだろう。でもそうしないのは、人間が人間である理由だ。肉体の脈々たる歴史を重んじる、つまりは統計の轍を踏もうとする。それは結局、既存から踏み出ない結果を生み出す理由になるが、踏み出すための基準にもなり得る。結局、体は消えてしまうのだ。亡者の所業は、毒にはならない。まつわる物や過去だけがいつまでもその人間があったことを忘れない。
 それだけに、それだから、その葉巻は特別なものだ。それなのに、自分は。すると隣の客は口を開いた。
「私たちが口にできるのは今はもう、音と煙だけになってしまいましたからねえ。このかたに吸っていただかないと、こちらに居続けなくてはなりませんから」
 そういってその客は広げていた葉巻カッターのセットをしまった。
「いてもいいですが、これから休暇には成人した息子の息子に会いに来たいですからね。その時はまた、こんなふうにあなたに差し上げたみたいに、彼に葉巻を勧めたいですね」
「そうよ、後生大事にとって置いても、あなたには吸えないんですもの。煙にしてしまいなさいよ。そうすれば、私もあなたもその香りをいただける」

「冷めてしまいますから、どうぞこちらも」
 バーテンダーが、無粋にも客たちの話に水をさしたが、誰も咎めなかった。男の知らない訳があるらしかった。
「シンデレラじゃないのにね。どうしてこうも、制約があるのかしら。引力がなければ、フワフワ浮いてしまう。それこそ私たちと同じなのに」

 どういう意味なのだろうか。わからぬまま湯気を立てるカップにスプーンをさした。ゆっくりかき回す。いったんはおさまっていた湯気が、かき混ぜた水面から静かにわき立つ。それを確認して、男はカップに口をつけた。
 熱い液体が唇に触れる。しかし、口の中は待っていたようにそれを受け入れた。香りが鼻腔をくすぐる。喉の奥へと甘い液体が静かに流れてゆく。それがいったん止み、喉をとおり越し食道の入り口にさしかかると、香りがふたたび上がってきて脳を染める。
 これが欲しかった。
 男の細胞が、脳が、形が喜ぶ。さっきまで葉巻の香りが満たしていたのとは別次元の欲求が満たされた感覚。そうだ、これは肉体がなければ感じられないものだ、と誰かが彼にささやく。自分なのだが、自分ではない別の誰か。
 そのとき人生が、頭の中を駆け巡る。遺してきた者たちへの愛着、思慕、哀惜。それを捨てる覚悟。悩んできたものが、全部、質量ある体がある故の物だと気付いた。とても小さなことだと。笑いがこみ上げる。全ては、大きな存在の企てのようで、それに翻弄されていた自分におかしみが腹の底から起こる。

 父さん

「あら、その呼び方は、なかなかないわ。そうよ、みな御大のところへ戻るのよ。修行を終えてね」
「私は先に戻ります。偶然隣合わせましたが、また、いつかどこかでお会いしましょう。あなたのおかげで久しぶりに息子に会えた気がしましたよ。ありがとう」

 見ると、隣の客はカウンターのスポットライトへ吸い込まれていった。あとには、ダブルのツイードスーツが抜け殻のように椅子に腰掛けている。

 男はチョコラーテを飲み干した。それを見て女がふふふと笑った。
「次にそれを飲めるのは、いつかしらね。たくさん、頑張らなくちゃいけないわ、私みたいに。体を持たないっていうのも面白いわよ。そっちが本筋だと思うわ。だから見えなければ、ないという考え方を改めてほしいわ。自分たちが物理に縛られた不自由な存在だということに気づきもしないで」
「そんなことを言って。まだ、お相手は思い出してくださらないのですか?」
「ええ、三日間の休みをもらってきたのに、彼ったら全然気づかないの。せっかくこんな格好したのに」
「明日は最後だから、どこかで食事してこっちに残ろうかしら」
「それも一興ですね。軽いものでしたら、上のお部屋で休んでいるうちに消えるでしょう。そういう方々がたくさんいらっしゃいます。しかし、貴方様にはお勧めしません。また来ていただきたくて申しているわけではございませんよ。きっとどこかでお会いになれるからです。体がなくとも、場所じゃなくても、とにかく果てしなく自由な存在なのですから」
バーテンダーが言った。女は輪郭すら薄くなってきていた。
「そろそろお部屋へ戻られたらいかがですか? 次に豪奢なスイートルームを堪能するのもしばらく先でしょう?」
 そうね、と女は足を解いた。
「あなたも、ここへ残ろうなんて考えないことね。さっきの客じゃないけど、きっとまた会えるから。絶対にミカエルみたいなことをしちゃダメよ」
 男は少し下を向いて考えたから、思っていたことを口にした。
「私がここへ来たときにも、その話をしていらっしゃいましたね、その方のことを。世界遺産がどうとか。時を経て役割が変わったとか」
 バーテンダーが黙ってうなずいた。
「モン・サン・ミッシェルのことですね」
「そういう名前なの? 知らないわ」
「まぁ、お客様もいずれおわかりになることですから・・・」
「そうよ、ここで言っても仕方ないわ。私、行くわ」
女は、軽口を誤魔化すように立ち上がった。そしてふわふわと出口へ向かった。その姿は宙をワンピースだけが歩いているようで不気味だ。しかしそれも、ガラスドアをほんの隙間だけ開けて見えなくなった。

 「そろそろお客様も、発ってはいかがですか」
 バーテンダーが言った。「また当ホテルを御用命ください。今度こちらへ戻られるときのために何か置いていかれますか?」
 男はちょっと迷って、内ポケットから小さな数珠を取り出した。
「承りました。これはあなたが迷わないよう、アンカーとして大事に保管しておきます」
 不安げな視線をバーテンダーへ送り、躊躇している男。しかし男の覚悟を待つまでもなくそれはやってきた。カウンターの上の、目の前に丸く落ちていたライトが、こちらをむいた瞬間、圧倒的な明るさで男を照らした。光の中にあって男はもう輪郭を保っていられなかった。その光は渦を巻いて天井の穴へと男を吸い込んだ。

 ほぼ同時に、ホテルのコンコースの大時計が十二時回鐘を打った。長い余韻が続いた。おそらく階上のスイートルームにも響き渡ったであろう。それが消えた時、バーはまるで別の空間のように静かになった。客は二組のみ。カウンターに一人、入り口から離れた壁際に一組、年数のたったウイスキーの香りを立ちのぼらせている。話し声は小さく絨毯を擦る靴音にも満たない。
 二次会帰りの客が入ってきた。バーテンダーは球体に削っていた氷をボウルに戻し、黒い革のコースターを客の前のカウンターに置いた。「いらっしゃいませ」

 物理は哲学に通じるらしい。多くの現代哲学者たちが、物理学から始めたことから、きっと彼らは生きる上での何某かも数の規則性を以って理解しようとしたのか、あるいは心や生きることが数では解明できないとさとり哲学に転じたのか、と考える。ホーキンズ博士が、ビッグバーンを解明するに多くの科学者が結論を導き出すとき、大きな存在=神を持ち出す、と語っていた。神を引き出さなければ説明がつかない、というわけだが、彼はそれを説明した(?)。計算によって、手にとって確かめられないものを証明する。
 同じことを神の存在や、人生や、見えない霊のことを計算したどうなるだろう。

 父は僧侶でありながら、そんなことをよく語っていた。彼の頭の中では、物理と仏教哲学は、確実に別次元のピラーとして存在していたはずだ。そうでなければならないはずだ。

 カカオ七十パーセントのチョコレートのハマり出したとき、健康のためだという言葉を信用していた。それに年取ってからの甘党は、ちょっと可愛い。坊主がチョコだなんて。
父が他界してから自宅の仏壇にチョコレートに欠かしたことがない。お鈴を鳴らす。聞こえているだろうか。二度目は少し強く。
具合が悪くなった父は、いつもの知の長けた人間ではしばらくなくなった。長く考えていたが、物理も哲学も、彼が納得する結論までは連れて行ってくれなかったのだろう。小康状態が続いたある日、父は東京の老舗のホテルへ行った。友人に会うと言っていた。心配したが、戻った父の目は明るかった。
背広を片付けた妻が、「お父さんタバコまた吸い始めたのかしら」と言った。自分も鼻をつけて嗅いだが、もう何も匂わなかった。父にはもう、チョコレートの甘い香りしか結びつかない。
「百害あって一利なし。しかし万福にあたいする、よ。」

 父が
「また会おう」
 病室で父が最後に言った。こちらが嬉しくなるような、いい笑顔だった。

 十一月に入り、ようやく落葉樹の葉が全て落ちた。先月半ばから早々に落ちた葉、半ば朽ち始めているのを穴の中から掘り返し、紅葉した葉と混ぜてそっと火をつける。ほんのバケツいっぱいばかりは、許してもらおう。
 湿った土から甘い香りがする。いずれ葉っぱも燃えだすだろう。この時期だけは、その香りはなぜか濃厚なチョコラーテを彷彿とさせる。

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