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ことこと

築20年の今の家に引っ越してきてから、10年。この家もいいお年頃である。近頃は外壁塗装が流行りのようで、あちらの角こちらの角で足場が組まれる。この足場、実は塗装業者とは別物で、作業中の事故を防ぐため法律で決められたことらしい。そしてこの経費が思いの外、高いのである。我が家は、私だけの腹積りかもしれないが、この上物つまり家は使い捨てだと思っている。子供たちがどこに住むかわからないし、実際この土地に住むことにするならまた立て直せばいいと思っている。だからシロアリ退治も、傾きかけたフェンスも、苔の生えたベランダも、大掛かりな修理はせずみ自分でできる程度、家のご機嫌をとりながら暮らしている。
 こうして暮らしてみると、理想に近づけるために穴を掘ったり、壁を塗ったり、玄関ドアを取り替えたり、鎧戸をつけたり、取っ替え引っ替え色々楽しめる家は面白い。住宅街のただ中に、キャンプ場の管理棟みたいな雑然とした我が家が現れるのもまた私らしくていいかと思う。
 そんな風だったから、同じ団地内に屋根修理詐欺が横行したときは事なきを得た。どうせいつか壊すんだもの、そんなスレート瓦一枚ぐらいずれたって何万円も払えないわ、と言ったら反対に凄まれた。結局それが詐欺だったって聞いた。

 そんなこんなでこの家をだいぶ楽しんでいるが、寒さが募るとおもいだすのそれ以前に住んでいた社宅のことだ。
 ダイニングキッチンと、6畳間3つだけのシンプルな作りだった。子供二人、夫も自室が欲しいと言うから私の居場所はいつもダイニングキッチン。冬となると、2000年問題に備えて買った灯油ストーブがキッチンに鎮座まします。その上に、大きなル・クルーゼを一つおく。給油缶を満タンにして火をつけると4、5時間はもつ。もっとかな?その時間を考え、多めの水と材料をいれコトコト、コトコト・・・。狭い社宅の中に家庭らしい料理の匂いが満ちてくる。それが何より楽しかった。冬のこの匂いは、子供の胸も温かくするらしい。おでんやすじ肉のそういうものの匂いは鼻につくのに、暖かさと一緒だと嬉しい。
 鍋の湯気は人の気持ちに化学変化を起こすんじゃないか。家に帰ってくる時の家族があんまり幸せそうだから、このコトコトはだいぶ長いこと続いた。栗を煮てマロンクリームを作った。無水鍋で牛タンの塩釜焼きを作った。マーマレード、いちごジャム。
 時間が、湯気が、香りが人を幸せにする、そんなのはこのコトコトしかないような気がする。

 今の家にきて、広くなったけれど、私の居場所は相変わらずリビングダイニング。そこの石油ストーブに赤い鋳物の鍋を置いて、コトコト、コトコト。いい匂いとか、美味しそうと駆け寄ってくるかわいい声はしないけど、今頃彼らの小さな台所に小さな鋳物の鍋がたっぷりの汁を抱えているだろう。それともこれだけは実家で食べようと思っているだろうか。

 結露で白い窓ガラスと、煮込み料理の匂いが温かい記憶の扉を開く冬の日。こんな日こそ、私はクリエイティブになるのだった。

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