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人の癖

 ちょっと昔話にお付き合いいただきたい。
 実家の本拠地は鶴見にあった。鶴見は今放送中の朝ドラ「ちむどんどん」の舞台にもなっているらしい。沖縄とか韓国とかオリジンを遠くに持っている人たちが集まって住んでいた。鶴見を離れてからだいぶ経ってからそれを知った。港に近く船員さんの寮という名の宿が点在していたり、工業地帯に工場をもつ会社の社員寮や、接待のためのお屋敷が傾斜地に密集していた。さらに坂の上から、区を越えた向こう側にも住宅地が広がっていた。鶴見川から、坂を上がったバス停のあるところまでが庶民的な住宅街。アパートや戸建が板塀一つ隔てて密集していた。そこから先は高級住宅地。
 買い物は坂の下へ。なんでもそろう商店街があった。鉄板焼きとよんでいた豚のもつ焼きは、焼き鳥屋が配達してくれるのだけど今考えるとあれは韓国の焼肉やさんだった。焼き鳥の肉が鳥だったことは一度もなく、いつもハツとかトンタンとか、甘い脂の豚肉だったのだ。
 立ち飲みがこっそりある酒屋さんの脇には、奥に伸びる路地があった。そこからはバラックが迷路みたいにならんでいた。見たことない食材ばかりでお客も売り子も境がなくて皆顔見知りのようだった。私がそこのお使いにたのまれるのは、あさりのむき身だけ。それを頼むと面長の女の人が白濁したボウルの中から小さなビニール袋へおちょこで掬い入れてくれてくれる。
そして水とむき身の入った袋の端をもつと、くるくるっと回転させて口を閉じた。指でつまんだ両腕の間をビニル袋はブンブン回るのに一滴も水がこぼれないのに感動した。あとにもさきにもこの店のほかに生のむき身をああやって売っている店をそ見たことがない。

 そんな庶民的な町は、二本の国道に挟まれていた。人が住む家並みのなかに段ボール工場があったり、駄菓子の卸屋さんひっそり商売してたり、生活と商売が混在していた。大きな庭のお家の片隅にお稲荷さんがあって、そこの公民館でアムウエイが頒布会をひらたこともある。子供のわたしにとってすら面白い町だった。
 外食が当たり前じゃなかった時代で、せいぜいの贅沢は店屋物をとること。商店街には蕎麦屋から中華、寿司やまで色々あって、それぞれ数件ずつあったからよりどりみどり。何度もとっていたからもう慣れっこだった。そんなとき、バス停を越えた国道沿いにレストランができた。しかも大手不二家の系列店だというからおどろいた。
 当時、レストランは個人店がほとんど。テーブルが5卓もあれば大きな方でひっそりと暗くなった路地に色付きガラスのドアから店内の照明が漏れて明るくしている、そんな目立たない存在だった。ファミリーレストランという言葉すらなかった。
 不二家は昔から銀座や有名どころには店舗をひらいていて、ホットケーキをメインに軽食がたべられ子供の憧れの場所だった。フルーツパフェやプリンアラモード。いまはあるかどうか、ペコちゃんの顔の形をしたぺろぺろチョコが刺さっているのだ。ところがこのときできたのはブランズパロットという、本格的なラウンジレストランだった。段になったフロアから、外の南国風の植栽が眺められ夜にはたいまつが燃えていた気がする。ここには一度きりだが行ったことがある。徒歩で行ける距離のせいで気構えなく入店し、他の客のよそ行き姿に気後れした気がする。母ばかりがシャキシャキとテンションが高かった。おしゃれすぎたよね、とそのころしょぼくれ出した父に慰めのつもりで言った。

 私の父は威勢のいい天邪鬼で、考えすぎの病み症体質だったけれど若い頃は人の考えないようなことを思いつき色々やらかした武勇伝つきの人だった。腎臓を悪くして一つ摘出し、結婚してからはすっかり若い頃の破天荒ぶりは鳴りをひそめどちらかというと売れなかった小説家みたいなことになっていた。
 そんな父と一緒になった母は、子育てに生きがいを感じたかどうかわからないが、あるいは時代がそういう傾向にあったのかもしれないが、子供たちの受験にエネルギーを注ぎ込んだ。鶴見に来たのは公立のいい小学校に通わせるためで、3年生から商店街の英数塾にかよい、4年生からは東京や横浜の塾に通わせた。夏期講習はあたりまえで、小学校4年生にしてすでに池袋まで一人で通っていたほどである。通わせられていたかというと、実はそういうわけでもなく、家からはなれてひとりぽっちでいるのは気楽で気分がよかったのだ。
 そんな両親だったが私が中学受験を終えたとき、さすがに親なのだから何かしら父親も関与させないといけないと思ったのか、母は私に父と二人で合格発表を見てくるようにと言った。3校受験したうちの最初の学校に落ちた後だった。勉強につきあいなんとか成績をあげてくれようとした母だったが、周波数があわずだめだった。苦肉の策で父が勉強を見てくれることになったが成績はあがることはなく、そのころから私の遺伝体質、天邪鬼が発現することとなった。
 もう不合格なのを確信したのかもしれない。私は小学校からかえると父の塗装が剥げたブルーバードで五反田へ向かった。母の予想に反して私は合格していた。「だからいったでしょう?」と母のことあるごとに言ったが、予想外だったことは間違いない。さもなければ合格とわかった父が、学校近くの駅前でわざわざ車を停めお茶を飲んでゆこうなどと言うはずがない。破天荒で無茶苦茶娘を愛してくれていた父も、最後の数週間で諦めていたのかもしれない。それが合格だったから母へのリベンジが果たせた。そこで入ったのが不二家だった。
 ブロンズパロットの数年前のことで、まだお子様レストランの延長線上にあった。私はホットケーキが3段重なったストロベリーホットケーキを注文した。父はコーヒーとチョコレートケーキだった。ホットケーキにはバニラといちごのアイスクリーム。それに生クリームがたっぷりかかったところにいちごとジャム。クリームのヒダに赤いジャムが入って、ピンクと赤のツートンになっていた。そこへバターとシロップをさらにかけて口のなかへ。
 リベンジの味は最高だった。メタボや過食といった言葉なんかなかった時代のこと、コッテリでべったりのカロリーの塊を私は何度かに分けて完食うした。
 このときのホットケーキほど美味しいのには、あれ以降巡り合っていない。それは多分、母という抗えない正義に対して、弱虫の天邪鬼二人がリベンジに勝てた爽快感と、二人の秘密にしようという企み感のせいだと思う。

 そんなことがあってからの、ブロンズパロットだったから、父がかわいそうでかわいそうで。たしかにしょぼくれていたけど、もっと楽しんで欲しかった。昔みたいにキラキラした目で進駐軍の将校の足を踏んでアルバイトをみつけた話をしてくれた頃の父になって欲しくて、いつか自分が稼いだお金でごちそうしようと決心した。

 その機会は意外と早く訪れた。私は新卒でドイツのフランクフルトへ渡った。しかし父が店をたたんだため、それを手伝うことを名目に契約半ばで帰国した。私も威勢のいい天邪鬼だった。外国までいけたのに、なんのためにそこにいたのか訳がわからなくなったのがほんとうの理由だ。やっぱり血は争えない。帰国した晩、両親をブロンズパロットへ連れて行った。
 開店から数年がたっていたレストランはオープンしたころの華やかさはもうなく、系列のレストランと同じ感じになってはいたがメニューは変わらずおしゃれだった。私は背伸びをして両親に料理を振る舞った。しかし、そのころ50代も半ばにさしかかっていた両親には、小言ばかり言われていた頃の勢いがなくなっていることに直面しなければならず、反対に辛い思い出になった。

 それから一気に7年ほど時間がすぎる。結局、実家は家と土地を売り、そのお金で借金を返して、埼玉の田舎に引っ越した。私は鶴見に独り住まいしながら、しばらく都内で仕事をしていた。しかし転職を機会に、家賃節約のため移転した実家に同居させてもらうことにした。
 久しぶりに一緒にすんでみると、父には昔話でしか聞いたことのなかった目端のきくお茶目な正確が戻っていた。数年まえに免許を返納してからは、自転車で何キロでも遠出するし日に焼けて健康そうだった。大きな頭蓋骨と大きな顔はかわらないけれど、手足は関節をのこしてシュッとほそくなって老齢な感じが居た堪れなかった。明るい目は、きっと家族を背負った責任から解放されて、気持ちが楽になったせいだろう。
 そんな父に、実家に引っ越して間もないとき、わがままを言った。駅前の不二家で奢ってくれとたのんだのだ。大洒落なブロンズパロットじゃない、正真正銘に不二家レストランがあるのを知っていたのだ。その日二人で自転車にのり三キロの道を走った。父がまだ生麦の店をやっていた頃、なんどか自転車の後ろに乗せてもらったことがあった。あれは中学が高校のころだったが、あのころと変わらないこぎっぷりで安心した。が、自転車を降りた途端に父は元の老人になってしまった。
 そんな寂しさを忘れたくて、中学に合格した時五反田の不二家でたべたストロベリーホットケーキをたのんだ。きたの名前はおなじなのに、ずっと小さい代物だった。コッテリはなく、コストパフォーマンスを考えてか、あるいはくどすぎると売れないためか、歯切れがよくさっぱり味のホットケーキだった。このころはもう『ファミレス』と略していうのが幅をきかせていた時代で、ちいささとかクリームの絞り具合とかにマニュアルの存在を感じた。コマーシャリズムに乗せられた気がして悲しかった。
 父は、父はあの時、何をたべただろう。なぜか覚えていない。

 ただ、その不二家のちかくに、本当に美味しい洋菓子店をみつけた。ここは焼き菓子から生菓子までどれも最高に美味しかった。静かだったあの街の駅前で、唯一異彩を放った繁盛店だった。高価だから毎回は無理だけど、父の日、母の日、誕生日、クリスマス。行事をさがしてはケーキを買った。千駄木で生まれた父は結局、都落ちみたいな感じで埼玉に移住したのだが、丁々発止の喋りは相変わらず。そんななかで、ここのケーキの華やかさにはかつて住んでいた横浜のお菓子に引けを取らないと、ときどきなんでもない日に買ってきてくれた。
 三個から四個入るケーキの箱を自転車の前籠にいれて、『見回り』からかえってくる。そしてきまって、「チョコレートケーキしかなかったよ」と言って渡すのだ。
 箱の中には種類をかえて、チョコレートのケーキがいつも三、四個。あの洋菓子店は生クリームの使い方が上手なのにと思いながら、しかたなくいただく。三人しかいないのに、いつも余る数。私ならサバランとか、定番のイチゴショートを入れるのにな。
 あるとき、父がまたケーキを買ってきた。また、チョコレート一辺倒だ。「それしかなかった」という。暖かくなってきたときだから、ちょっと辟易とした。たまたま同じ日、用事があって洋菓子店に出向いた。注文がおおくて手が回らなかったのかしら、と店に入るとケースの中は溢れる色彩。いろんなケーキが並んでいた。

 父がチョコ好きなのをはっきり知ったのはこれがきっかけだった。チョコ以外(おいしそうなのが)なかったというのが本音だったのだろう。一緒にでかけた出先の土産物の選び方や傾向でそれがわかった。
 世の中にはたくさん、いろいろ美しいもの、楽しいこと、美味しいもの、嬉しいことがあるけれど、全部が全部私に大事なわけじゃなく、私にとってうれしくて、無理をしても手に入れたいのはごく限られた僅かなものかもしれない。だから、そのために、わがままになって無理をしてもいいだろう。

 チョコレートケーキしか目にはいらなかった父は、私のお話の中ではうさぎのお父さんになって登場する。父は30年たってウサギになった。パパウサギの誕生日に事件がおきる。

 なぜ急に父とチョコレートのことをおもいだしたかというと、先日夫がバラの苗が届くからと言い出したからだ。彼は昔から唐突に花を買ってくる。切花を誕生日に贈られた数年間は大変困った。夏の上に数日後の旅行へゆく時期だったから。クーラーを効かせていても真夏はすぐに傷んでしまう。それでどうせなら鉢植えにしてくださいとお願いしたのだ。それからは、ナーサリーからメールが来るとかで唐突に前述のようなことを言い出す。昨年末に二本珍しいのをもらったばかりで、ようやく一つ目の花が終わったところ。ピンクの花は、ちょうど今大きなオベリスクを満開にしている別種のバラと同じ色合いだ。まださかない一鉢があるが、彼の傾向からしてそれもきっと淡いピンク。
 彼にとってバラは淡いピンクに限るのかもしれない、父にとってケーキ=チョコレートケーキだったように。夫もケーキに関しては好みがはっきりしている。厳格なショートケーキ信者だ。

 癖と言ったら簡単だけど、きっとそうなるには理由があるのだろう。そこを掘り下げるのもおもしろい。そもそも、ひとはいろいろ、思い遣っててお面白い。

 まとまらず、すみません。


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