【小説】水族館オリジン 7-IV
chapter VII: 翁撫村 ④
その晩、私はまた音をつれて帰ってきてしまいました。
小さな子供の寝息です。私は十七年まえ、いなくなったあの男の子だと思っています。確かめようはありませんが、きっとそうです。
布団だらけの寝室の、大きな鳩時計の下に銀行からもらった名画のカレンダーがはってあります。1月はルノアールの『少女イレーヌ』です。
朝、お魚シフトの崇くんは朝早く出勤してゆきました。
私は、お休みをもらっていました。それに不可解な出来事を忘れようと前の晩たくさんお酒をいただいたので、二日酔いがひどいです。
だらしない姿のまま布団の海に浮かび
時間が
ドロドロと
ゆっくり流れてゆくのを待っていました。
夜が明けるのはまだ先です。
崇くんは暗いうちに出て行ったはずなのに、小さな布団部屋に規則正しい寝息が響きます。あまりにひそやかで平和な音で、崇くんの胸に頭をおいて寝ているような気持ちになりました。
でも出かけるときに彼がわたしの頬に残していった唇の感覚を思い出しました。
そしてその温かさも。
そうです。崇くんじゃあありません。
背骨の両側に冷たい汗がふき出ました。
私は、部屋の中の布団を片付けることにしました。
朝五時前にしては大仕事です。
一枚ずつ布団を剥がし、積み上げてゆきます。
深海だった布団の海はどんどん浅くなってゆきます。
片付くにしたがって、寝息は大きくなっていきました。
どこから聞こえてくるのか、さぐりさぐり仕事を進め、
全部の布団とクッションと座布団が両側の壁に積み上がりました。
まるでモーゼの十戒のような風景です。
布団の海を分けた床に久方ぶりにつややかな床が出現しました。
そして視線のその先に少女イレーヌがいました。
やっぱり。
と思いました。
わかっていた気がします。
でもわかったところで規則正しい、浅い寝息はきえませんでした。
それはもう、カレンダーの少女のものだとわかるのくらいはっきりしていたのです。
逃れられない事実に、わたしはもうどうしようもなく悲しくなりました。
この寝息は17年前洞窟で行方不明になった男の子かもしれない。
やっぱり男の子は死んでしまったのでしょうか。
だからここまでついてきたのでしょうか。
それとも、彼の悲しい気持ちだけがあそこに残っていたのでしょうか。
その晩、夜を引き連れるように崇くんが帰って来ました。
布団部屋のむき出し床の上に朝の格好のまま丸くなって眠っている私を見て
崇くんは心配そうです。
また聞こえない耳がわるさしていると察した様です。
「だいじょうぶ?」
わたしは丁寧に説明しました。
でも女の子の絵に耳を近づけても、崇くんにはなにもきこえないのです。
それでも、子供の浅い寝息はさざなみのようにわたしを追いかけてきます。
アパートのどこにいても追いかけてきて耳後ろに忍び込みます。
「やっぱりね」
崇くんがきっぱりいいました。なんでしょう。
そして防水されたダウンコートのポケットから、
先端に貝殻をとりつけた棒をとりだしました。
「パートのおばちゃんがね、くれたんだよ。持っていけって。
きのう洞窟にはいったと言ったら、何か連れ帰ったんだと言うんだ。
あなたもここの出身だからわかっていたんじゃない?
この時期は入ってはいけないらしいよ。
あの穴にいろんな魂が戻って来るのよ。
節目になると、それこそ出口まで一杯になるそうだよ。
明日これにロウソクを立ててもう一度いってこよう
きたところに返してあげるんだ」
貝殻の先にとがった釘の先端が顔を出していて、ロウソクがさしやすそうです。
翌朝、かわらず気持ちの良い寝息をたてているカレンダーをくるくる巻いてでかけました。火が消えないように前かがみになって歩く崇くんについて洞窟の中を歩きました。
午前四時半、夜と朝の間の闇はラシャ紙のようにゴワつきました。洞窟の中はあの時と同じように温かく、そのうえ燃えかすの匂いがしました。
崇くんは岩壁の煤跡の隣にカレンダーを立てかけると、貝殻のろうそくで火をつけました。湿気のせいで、火はなかなか育たず消えそうになります。
炎が赤い舌をはわせるのを辛抱強く待ち、そっとろうそくをおきました。
そして二人ならんで手を合わせました。
誰に拝めばいいのでしょう。
拝まれている人は私たちをどう思うでしょう。
いろんな考えが浮かんで消えました。
あの子もきっと見ていたでしょう。
でも、カレンダーは焼いたのに、そのあとも寝息は二週間続きました。
カレンダーを焼いてしまったから居場所がなくなったのか
次は崇くんの子供の頃の写真から聞こえてきました。
それも、ある日図書館から帰ってくると、聞こえなくなりました。
そのとき初めて、寂しいと思いました。
いつのまにかあの子の寝息に愛着を感じ始めていたようです。
子供を産んだばかりのお母さんは赤ちゃんが寝ている時
一番安心し、一番可愛いと思うそうです。
そんな感じかもしれません。
次に生まれてくるときは、私のところへおいで。
心の中で思わずそう言っていました。
崇くんにはなれなかったんでしょうね。
だって写真の崇くんは、私が最後にあの子より、ずっと体格が良くて、やんちゃで、そして何より幸せそうなんですもの。
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