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ストラスブールのベアショルダー         40年前の自分へ(2)

 自分のいまの辛さは何かにつながるためにある。
そう考えてもう半世紀を過ぎてしまったなんて信じられません。そしてもうすぐ還暦という、社会的にはガラス扉付きの本棚にしまわれる時期。私のメモリにはいろんな経験がつめこまれているのに、使えないのは勿体無い。どこかの哲学者の言葉や、気候も地理も違う国の偉い人たちの恨み言に耳を貸さなかったのは、自分なりのテキストを作りたかったためなのに。
 だから、このSNSというだれでもアクセスできて、くだらないとおもったらスルーできるところに書くことにしました。そしてストラスブールに連れて行ったあの時の自分にむけて。

 (1)では、病院で聞いた話をかきました。病院は同じような状態の人をならべて観察した結果で対応されます。確度の高い対処法を指示されますから有効なのですが、万能とは言えないと思います。
 このことは『心療内科奇譚』に書いたのですが、例にご紹介します。 
 私、このとき、とても極まっていました。いろんな意味で。体や命のことを考えると今はない選択肢もあったのですが、私はつらいつらい今を、自分の努力と工夫と、良心で乗り越えることができたら、理想を追求したさきに会いたい自分が待っていると思って自分なりに頑張っていました。子育ても身体的な安全や学校やそういうものを過不足なくやって、理想だった仕事にもくらいついて、家庭も描いていた思いを果たしていたように思います。でも、自分以外に思い通りになる人間などいません。それはわかっています。それで自分をだしたり、ひっこめたり、うまく操縦していたつもりだったのですが焦燥感や不安感がおしよせたまらなくいなくなりたくなりました。あとから、いなくなることは、私の不在をだれかに知ってほしいことで、それ自体すら、私の存在欲求だったのだとわかったのですが・・・。そのとき、私は暴挙にでました。夫の前で。
 前にお話しした頭痛も夫の前でしたから、わかってほしいのは夫だったのかもしれません。夫は、今度は、自分も行くからお願いだから精神科へ行ってくれと言いました。夫にいる時にきまって極まる自分に気づいていた私は、今度は一人で心療内科へいきました。予診という名目で一時間、診察でも一時間程度、たっぷり話をしました。これまでのこと、考えていること、焦燥感、虚無感、そのつらさ。そのときの医師にとってはくだらない話だったかもしれません。それまで蓋をしていた気持ちに関して全開にしてしまったため、その晩また同じことが起きたらどうしようと不安でいっぱいでした。それで薬を処方してくれるようにお願いしました。
 しかし医師は机の上においた薬の長いリストの裏と表を慎重に調べた挙句、「いまのあなたに処方するお薬はありませんね」と言ったのです。
 人と話す、それも自分のトラブルの核心を遠慮なく忌憚なく語ることは本当に有効ですね。処方箋をだすことを拒まれてどん底におとされた気持ちになりましたが、数時間の会話しているうちに医師の癖とか考え方とか興味深いものに出会えて、不安だった反面、創作意欲が湧いていました。もうアラフィフだったのに本一冊出版できていないのだから、今後は生涯学習センターの本棚を飾る自分史の方が向いている、などと憎まれ口を叩かれたので、それも発奮のきっかけになりました。
 そのときは、その医師の無能さを感じました。失礼ですね。でも、うすうす感じてはいました。自分のなかの消えたいという欲求が、前述したように、自分の存在欲求の裏返しなのだと。自分史などと憎まれ口をたたかれた私はそのことへの自覚が強まり、反対にじゃあ、先生はどうなんですか、と言葉を返したことで自分を守る生存本能が目を覚ましたって感じでしょうか。「また禅問答したくなったら、来てください」と言った医師の顔が忘れられません。

 居続けること、役に立つかどうかそんなことは関係なく、生き続けて、どうしてあの時そう思ったか、自分なりの決着をつけること。
 それが心療内科医にいってからの目標になりました。最近またひどくネガティブになったことがありました。幸い話をきいてくれる年配の方がいて、知らぬ間に洗いざらいはなしていました。心療内科の話もしました。すると、「先生が薬をださなかったのは、えらかった」と言われました。ようやくこのことにも決着がつきました。病院は命を守るための場所です。薬によって動く気力を無くす必要が、あのときなかったのだとわかりました。そして同時に、医者は私が自力でなんとかできる能力がのこっていると診たのだと思いました。

 私はラッキーです。いろいろ悩みがちですが、本気でぶつかるたびに、本気の本音をいろいろな方達から吸収できています。それはきっと、悩んでいるせいだと思うのです。悩みは、自分の欲求と、社会や世の中のあるべきものとの衝突によって起きることが多く、よくなぜ単純によろこんだり、ほしがったり、楽しんだりできないのか考えます。それが無駄といわれたら、そうなのですが、それが私ですから否定したら私の中身は無くなって形骸化してしまいます。

 

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