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ひな壇を飾る

 断捨離やミニマリストがめっちゃ流行りらしいけれど、どちらかというと私は懐疑的だ。すてること、かたづけることは日常の生活作業からはちょっと距離があり、一日使った後のリセットとか休日のまとめ仕事というように一つの確立した作業であるような気がする。片付けそれ自体は生産的ではなく、生産作業のための事前・事後的作業の位置付けである。何も生み出さないことに心をくだき、労力を払うことに一定の満足が得られ、尊い。しかし、文章を書くのが得意な人間には自分の思いが文字になり質量をもつことが大きな喜びだし、歌うたいは喉がふるえ血管を流れる血潮の沸騰するような感覚は恍惚をよぶ。そして、家人たちが寝静まった夜中の台所の雑巾掛けは指先爪先から苛立ちが消えてゆく。つまりどの作業にも『歓び』が伴う。それは精神的というより、視覚的や物理的、身体的な意味合いの方が強いのでは。

 断捨離はもともと仏教用語だと聞いた。20代から、人生に煮詰まったら寺に行こうと決めていた。生きていると煮詰まることは山ほどある。自己の倫理観と生命力が許す範囲の要領と観察力を駆使し掻い潜って生きてゆけばいいのだが、親とか配偶者とかという立場はことに際していつも社会的なデフォルトへと判断を引き戻す。経験の浅い人間にたいしわかりやすく正しい判断をみせていると、当然自分本来のらしさや生命力のタクティクスなぞの有効性が発揮できない。そのため煮詰まることになる。他人と暮らすこと、利他的な思考をよしとする時代の子育てをすることは、もしかしたら仏門に入るよりもむずかしいかもしれない。だって『正しい』の前提は一つじゃないから。尼さんになって一切のシガラミを切り仏への帰依に生きるのは、さぞや清々しく気持ちのいいものだろう。

 断捨離も同じことだ。いままで溜め込んでいたものを手放し、物理的に身軽になる。どんなに気分がいいだろう。そうなのだ、きもちいいのだ。しかし現実生活はそんなんじゃない。ちらかす(1)、かたづける(1)でワンセット。それで(2)という成果を手に入れるという仕組みだからどちらかをなくすことはできない。これで出来上がっているものだから、極端な手段でどちらかを減らせば、いつかツケが回ってくる気がして仕方ない。昔からものにも命みたいのが宿る気がしていたし、なにより物は私という物質よりも長持ちする。大事にしないでどうする。よほどの人間でない限り、生きた証は所持していたものしか残せないのは事実だ。

 前書きが長くなったがひな壇を飾った。包んでいた新聞紙に昭和58年とあるから一部は39年ぶりに陽を浴びることになった。久しぶりに再会した人形たちの顔は晴れやかで不思議と旧知の友にあった気がした。箱の隅から出てきた下手くそな扇や笏は小学生の私が作ったものだ。小さな鏡台の鏡にヒビが入っていた。それらをきちんと修理して、ようやく雛壇はととのった。山と積み上がった桐箱は?迷う間も無く、母が毛氈をひいた段の下にいれているのを思い出す。ひな壇を出す作業は、天気のよい乾燥した日に限る。部屋の掃除を念入りにした。埃をおとし畳を拭く。和室の障子に、毛氈の赤が映える。床の間にかざった九谷焼の布袋様。母が嫁入りの際にもらったものだが、手に持ったうちわは半分折れていて完ピンだった姿をみたことがない。大きなお腹をだした半裸で『泣いても一生、笑っても一生。同じ一生なら笑った方が勝ち』というわけで白い歯が覗いている。
 お雛様もそうだったが、どうしていつも何かなくなっていたり、壊れていたりするんだろうか。
 めぐりめぐって、やっとわかることがずいぶんある。ひな壇は、スチールの段だけいらないと持ってこなかったのだ。そして生まれたのが息子たちだったことと、しばらく団地住まいだったことから、40年近く開くことなくしまいっぱなしになっていた。ここは越して10年目。諸々こころも落ち着いて、やっとおでましいただけるようになった。これで夜中三時のクラック音も鳴らなくなるだろう。布袋様の隣に、おなじく九谷焼の招き猫を置く。

 やっぱり人はモノより長生きできない。記憶は有象無象にあってひらひらと尻切れ蜻蛉のままとびかっている。それをきちんと結びつけて感謝とか理解とか許しとかにしてくれるのは時間だ。スチールの段ばかりじゃなく、お雛様まで断捨離してたら、発展途上の若かった母にも、壊したお雛様の道具を修理しようとした子供の私にも出会えなかった。

 日本の祭事は、ご先祖や記憶に出会えるようにできてる。春夏秋冬、仏様に会う機会があって、節句ごとに家の神様に挨拶し掃除できるようになっている。簡単便利は楽だけど、きっと楽はしちゃいけないんだ。心を生かすには断捨離しないで、面倒臭くても毎年お人形におでましいただいて掃除して、長生きの物たちに念を入れるのだ。

洗い立て蕗のとう

 冬に入る頃、庭の片付けを大々的にやった。暖冬のせいでフキの葉っぱは随分元気だったけれど思い切ってバッサリ刈り取った。今朝、柘植の根元に等間隔に膨らんだ蕗のとうを見つけた。おととし葉を刈らなかったから春に見つけられなかったのが、ことしはまるで取ってくださいとばかりに顔をだしている。今晩は蕗のとうの天ぷらにしよう。
 断捨離はしない。私には、季節ごとの掃除と片付けと修理だけで十分だ。あとどうなろうと知ったこっちゃない。

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